6
その後も、いくつかの建物を見て回った。開放的なデザインの図書館は、蔵書のほぼ全てを失っていたけれど、厳粛な雰囲気だけは残っていて、ゆらめく海草が異界めいた空気を作っていた。
半壊した病院には、ちょっと立ち寄れなかった。暗い水底、清潔感のある外壁は奇妙に生白くて、先入観込みで不気味さ五割増しだった。遠巻きに見ていたとき、一室の窓から白いイカがひょっと出て来て、心臓が止まるかと思った。
大きなショッピングモールは、かなり廃墟然としていた。陳列棚が軒並み倒れ、カートがあちこちで引っくり返って、形の残る様々な商品がぶちまけられてもいた。
例えばお酒や調味料の瓶、時計のような調度品や鋏などの小道具、服や靴なんかも素材によっては形を残している。瓦礫も至る所に転がっていて、エレベーターの籠まで落ちていた。
何となく日当たりも悪くて、スク水の補助を持ってしても暗い雰囲気が否めない。倒れて砕けたマネキンが物悲しい、寂れた場所だった。
反対に、明るい場所もあった。一面、瓦礫さえ浚われた荒れ野の中に、ぽつんと建つ一軒のカフェ。いったいどういう偶然なのか、木目基調ののどかで落ち着いた建物には傷一つなく、扉を開ければドアベルが鳴るほどだった。
都市の傾きの具合で、大窓がちょうど海面を向いていたため、店内は驚くほど明るかった。射し込む光が微粒子を照らし出して、焦げ茶色のテーブルや壁をスクリーンに、静謐な沈澱を映していた。カウンター席の向こうに大きなコーヒーメーカーが鎮座していて、眠りについたお店を見守っているようだった。
思えば不思議な建物だった。異様でさえある。あの大きな学校でさえ、机や椅子はしっちゃかめっちゃかで、ピアノが壁際で壊れていた。この喫茶店の周囲に、無事な建物は一つもない。なのに、この喫茶店だけはガラスこそ失くなって、海水に満ちてはいたけれど、取り立てて海の生き物の侵食を受けているでもないし、調度品が荒れているでもない。
それでも、僕はあまり仔細を気にしなかった。結局のところ、あの喫茶店もまた、永遠の眠りについているのだ。ただ綺麗な見た目を残しているというだけのことで、この街の他のあらゆる物体と、なんら変わることのない有様でいるのだ。
ドアベルを鳴らして出て行く僕を、うんともすんとも言わないレジスターが、黒い液晶で見送った。
この街でたった一人、目を覚まして歩いている、僕を。
だから、その声を聞いたときの僕の衝撃は、自分でも計り知れないほどのものだった。
『ユウ・ミヅハ。聞こえていますか。聞こえていたら応答してください。具体的には、「聞こえている」と都市表層中央部へ向かって発言してください』
僕は驚いた。人の声がしたことに驚いて、自分の名前が呼ばれたことに驚いた。同時に、人がいたことを嬉しく思って、自分の名前を呼んだことを不安に思った。
声は女性のものだった。落ち着いたイントネーションは、どこか無機質な文面に反して、奇妙なほどに有機的で、人格的だった。眼鏡とスーツがびしっと厳しそうな、でもおっとりとしたお姉さんという空想が、不思議なほどの具体性を伴って僕の脳裏に浮かび上がった。
それは、インプットされた知識だった。
「聞こえているよ。きみは誰?僕を知ってるのかい?」
僕は応答と共に問いかけた。
『ようやく繋がったようで何よりです。わたくしは第三十五航空都市「りゅうぐう」統合管理システム第三仮想人格「ウミネスニヤ」』
声は答えた。安堵した様子は、さっきまでよりもなお、人間らしさを感じさせた。
『愛称は「みーにゃん」。そうお呼び下さい』
脳裏で、お姉さんが優しげに微笑んだ。