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僕はスクール水着を手に、躊躇っていた。僕にインプットされた知識は、これが女性の着るものだと言っていて、ついでに僕のことを少年期の男性だと認めていた。
けれども、このスクール水着がただのスクール水着ではないこともまた、知悉していた。
知覚補助と体温調節。
光射さぬ深海でも通用する視覚、水流を敏感かつ克明に感じ取る触覚、遠い血潮も嗅ぎ分ける嗅覚に小魚の身動ぎも聞き届ける聴覚。
そして、凍てつくような低水温でも、熱水の噴き出す海底火山でも快適に活動できる防護機能。いや、流石に超高温での活動時間は限られるけれども。
ともかく、このスクール水着は僕の生命線だった。そしてまた、恥ずか死に繋がる死線でもあった。
「もしも誰かに見られたら、死ぬ」
僕は重々しく呟いた。僕にインプットされたコモンセンスが叫んでいた。
それでも、長くは悩めなかった。寒いのだ。ぶるりと震えが来て、これはもう仕方がない。えいやと脚を突っ込んだら、足鰭に引っ掛かった。
「わ、わわわっ」
僕はくるくると水中を回った。慌てて背鰭を広げ、水を打って、どうにか体勢を整えると、スクール水着を取り上げて、破れていないか検めた。
僕は足鰭を畳んだ。三対の鰭は扇子のように、僕の意思で開閉することができる。まるで刃のように細くなった足鰭を、僕は慎重にスクール水着に通した。
背中の生地は背鰭までは干渉しなかった。腕鰭は足鰭と同じようにしっかりと閉じて、肩紐を通した。僕はスクール水着を着た。着てしまった。
「ああ……」
何か大切なものを無くした気がする。その代わり、僕は大きなものを得た。薄暗かったはずの部屋は隅々まで見通せるようになり、少し水を打って流れを作れば、その揺り戻しから部屋の広さや物の様相が事細かに分かるようになった。そして何よりも、僕を蝕んでいた冷たい水の手が、暖かく包み込むように感じられた。生命の危機が一つ、去ったのだ。
余裕が生まれると、僕は寒さではなく羞恥に震えた。これならいっそのこと、男性がスクール水着を着るのは当たり前なのだとインプットしてくれれば、悩むこともなかったのに。
「うう」
ありもしない視線から身を捩り、空想の創造主に憤りをぶつけた。しかし、どんなに恥ずかしくても、ずっとここに篭っているわけにはいかない。
僕は部屋の扉を開け、廊下へ出た。長く暗い廊下は寒々しくて、僕は羞恥と不安を強く感じた。肩をすぼめ、腿を擦り合わせながら、ふよふよと水を打った。
廊下も先ほどの部屋も、そして今いる部屋も全て、海水に満ちている。この施設は海没しているのだ。ついでに結構急角度で傾いている。水平になるような姿勢を取ったら、床や天井とは30°くらいのずれがあった。
培養槽の部屋はかなり奥まった区画のようで、海水は流れ込んでいたものの、壁や床に付着物とか堆積物とかは殆どなかった。それが、今いる部屋では随分様相が異なる。
「やあ」
僕がふよりと近付くと、小魚たちはぱっと逃げる。壁際を伝い、一目散に扉から出ていく。一方、ふてぶてしい50センチほどの魚は巻き貝をばりぼりと食べていて、僕のことなど歯牙にもかけない。ヒトデなんかは僕に気付いてもいないんじゃないかと思う。
さて、僕がやってきたのは、インプットされた知識によれば装備保管庫の一つだ。壁一面にロッカーが並んでいて、僕はそれを片っ端から開けていった。もともと開いているのも沢山あって、誰かに持って行かれたのだろうけど、いくつか有意義なものを手に入れられた。
一つは慮外空間接続端末。格納用の亜空間に接続できる稀有な便利アイテムで、形は指輪型。これが持ち去られていなかったのは奇跡に近い。この施設がどういう経緯で海に沈んだのか僕には分からないが、こんなものを忘れていくくらいだから、よほどの緊急事態だったのだろう。ちなみに格納空間は空っぽだった。
もう一つは山盛りの携帯食料。水中で食べる用の流動性が低いゼリー飲料だ。結構力いっぱい絞らなければならないが、ちゃんと咥えていれば口から漏れ出てしまうことはない。
僕は指輪型の端末を嵌めた。僕の手に水掻きとかがなくて良かった。ついでに、早速携帯食料を一つ食べてみた。お吸い物味で、タケノコとワカメの食感が良かった。
僕は傾いた廊下を泳いでいく。小魚たちとすれ違ったり、併走?したり。施設の外が近いのか、傾きのせいで真下を向いている廊下の角に土が溜まっていて、そこをカニが疾走していた。
「……カニってあんなふうにして走るんだ」
まあ、速さでは僕に及ぶべくもない。鰭はなぜか魚類様だけど、その実は立派な海棲哺乳類(?)。1メートル30センチの体躯が生み出す推進力は、カニさん如きに負けはしない。
「はっ!」
僕は腹筋と背筋をうねらせて、全身を大きく上下に波打たせた。翼のような背鰭を軽く広げて、外から入ってくる水の流れを切り裂きながら、その狭間を滑っていった。
「……あははっ!」
楽しい、楽しい!
僕は廊下を飛ぶように泳いだ。泳ぎ方は本能が知っていて、強化された知覚が教えてくれた。スクール水着の恥ずかしさとか、暗い廊下の先行きの不安なんかは気にならなくて、僕はただ一匹の魚となって、魚達と一緒に泳いでいった。
やがて水が匂いをまとい始める。雑多で、混沌としていて、初めて嗅ぐけれど、でも分かる。
外の匂い。施設の奥では、どこか神経質な無機質さを感じさせた匂いが、今や全く違うものになっていた。
そしてついに、廊下が途切れた。施設の入り口はちょっとした広間になっていて、積もった泥に海草が繁茂して、魚達の集会場のようだ。
僕は背鰭を大きく広げ、腕鰭で水を掻いて速度を落とした。海草がゆらんと揺れて、小魚がぱっと散った。泥に擬態していたタコが身動ぎをして、エビがぴょんぴょんと跳ね回った。壁をのったりと這うヒトデの前を、クラゲが横切っていく。エントランスはさながら魚礁のように、沢山の生き物を擁していた。
僕は彼らを尻目に、ふよふよと通り抜ける。海草の林が道を開け、小魚が列を成して出入りする、そこへ。
外へ。