12人目「隠居と酒のつまみ」
ソティアスは息子に服屋を譲った隠居である。
息子はしっかり者で店の経営を盤石にしてくれたし、かわいい孫を抱くこともできた。
もうこの世に未練はないと思う。
そこで彼は老境に入ってからの趣味になった食べ歩きをしている。
一等住居区でやっているような高級店には入れないが、二等ならば何とかという具合だ。
今回ソティアスが選んだのは、「フジニシキ」という店である。
先日立ち寄った古着屋にて、店主も店員の少女もほめていたという理由だ。
「ふじにしき……聞きなれない響きの店で変わった料理も多いのか」
死ぬまでに食べたことがある料理を増やしたい、というのがソティアス老人のささやかな野望である。
目印として教わった二等住居区で一番大きな花屋をまずさがし、その向かいにある店の看板を確認した。
「フジニシキ」という名前を見て、「ここだな」とうなずき中に入る。
「いらっしゃいませー」
笑顔で出迎えてくれたのは精霊種の大変美しい少女だった。
(そう言えば、店員が美人だとも言ったな)
たしかに美しいとソティアスは思う。
彼にとって一番の美人は亡き妻であり、二番めが孫娘なのだが、三番め誰かと聞かれたら目の前の精霊種の少女だと答えるかもしれない。
「まずは麦酒を。あとは酒にあったつまみがほしい」
「かしこまりました」
最初に酒とつまみを楽しみ、そのご一品料理をというのがソティアスの楽しみ方である。
店内をゆっくりと見回すと若い男が多いように思えた。
(ははん、さてはあの娘目当てか)
彼はすぐに直感する。
彼とて亡き妻目当てに彼女が働く店に通っていたのだから、彼らの気持ちはよく分かった。
なつかしさと寂しさが彼の胸を去来する。
そこへ店員が大きなグラスになみなみとそそがれた麦酒と、赤い椀に盛られた緑色の豆を運んできた。
「お待たせしました。麦酒とエダマメです」
「ほう、マメか」
そう言えばマメ類は麦酒のつまみとして合うのか、今まで試してみたことはなかったなとソティアスは思いながら手を伸ばす。
「うん、美味い」
見覚えのない種類のマメだったが、ほどよく塩味が効いていてよく麦酒と合っていた。
「ふふふ、お口に合いましたか?」
「ああ。エダマメというものは知らなかった。こいつで麦酒を飲んで来なかったのは、今まで損をしていた気分だよ」
ソティアスが目を細めて褒めると、シプラはとてもうれしそうに微笑む。
「さすがにほめすぎだと思いますが、喜んでいただけて何よりです。次のおつまみもすぐにお持ちしますね」
彼女はさほど間を置かず、白い皿に乗った焼きネギを持ってくる。
「これはネギを焼いたものかい?」
「はい。焼くと甘味が増して絶品なんですよ。熱いので十分お気をつけくださいね」
シプラに注意にうなずき、ソティアスはフォークを手に取ってネギを刺し、口に放り込む。
「あ、熱い……本当に熱い」
あわてて水を飲むハメになった老人は、少しだけ涙目になっている。
落ち着くと今度はフォークとナイフで切り分けて、さめるのを待ってからゆっくりと味わう。
「うん、甘い、そして美味い。まさかネギを甘く食べる方法があるとは。しかもこれ、砂糖もハチミツも使っていないようだ」
「ええ、使っていませんよ。素材を活かすことを考えた品なのです」
「ほぉー。ネギは薬味だとばかり思っていたぞ」
ソティアスは感心しながら、焼きネギをたいらげる。
「あいつも、妻も連れてきたやりたかったな」
彼がポツリと言うと、シプラが何かを察したような顔で聞く。
「奥様は……?」
「フィンスターニス様のお膝元で、安らかに眠っているだろう」
ソティアスは淡々と告げ、彼女はそっと目を伏せる。
フィンスターニスはこの国において闇と死を司り冥府に住むとされる神で、この神の膝下で眠るのは死を意味していた。
「そうでしたか」
「そんな顔をしないでくれ。もう吹っ切れているから」
うかつなことを聞いてしまったと反省し肩を落としたシプラに、ソティアスは屈託のない笑顔を向ける。
「私も遠くないうちに、フィンスターニス様のお膝元へ旅立つことになるだろう。そして妻にもう一度会った時、この店のことを教えてやろうと思うんだ」
老い先短いことを受け入れている老人の表情を見て、彼女は何も言えなかった。
ただ、冥府への土産話にするという最大級の賛辞のひとつに対して、頭を下げて謝意を表す。
「さて、酒のおかわりを頼もう」
ソティアスが場の空気を変えようと、カラになったグラスを振ると、シプラは申し訳なさそうな顔で断る。
「申し訳ありませんが、お体がすぐれない方やお年寄りには、お酒のおかわりをお断りしているのです」
「えっ? そうなのかい? 普通は逆で、酒のおかわりをすすめそうなものだが」
老人は目を丸くした。
飲み物で稼ぐというのは飲食店の常道だという認識を抱いていたため、完全に意表をつかれたのである。
「はい、店主の方針ですから。お店を出たあと、よそで飲まれるのまではお止めいたしませんが」
シプラはどこか困ったように、それでいて誇らしそうな顔で言う。
「そうか」
ソティアスはなつかしく、くすぐったいうれしさを思い出す。
妻が冥府の神の下で安らかな眠りについてから、本気で彼の健康を心配する者はいなくなってしまった。
息子夫婦とは同居していないし、「年寄りの楽しみを取り上げるな」と言えばあっさり引き下がってしまう。
「では、体にいい料理を何かお願いしよう。これなら店主の方針通りだろう?」
「はい。かしこまりました」
老人の注文を聞いたシプラは、冥府に旅立とうとした者すら戻ってきそうなとびきりの笑顔で応じる。