9人め「古着屋の少女とおにぎり」
今日はなかなか客の入りがよく、シプラもサガミも忙しかった。
「少しずつ定着してきたのかもしれないですね」
シプラの言葉にサガミは笑顔で首を横に振る。
「そうだったらありがたいが、油断は禁物だろう」
浮かれた様子を見せない店主に、シプラは頼もしそうな視線を向けた。
サガミが浮かれる気になれないのは、一見の客ばかりだということと、頼まれる料理が光都民にとって定番と言われるものばかりということが多い。
「うちの店の独自メニューに注文が入って、再訪してもらえるようになって、初めて喜べると思うのだ」
「そうかもしれませんが、まずお客さんが増えはじめたことを喜んでもいいのでは……」
サガミの自分に対して厳しすぎる姿勢を、シプラは遠まわしにたしなめた。
彼女は彼に好意的ではあっても、全肯定するわけではない。
「そうだな。素人が高すぎる目標を設定するのも危険か」
彼は彼女の忠告を素直に受け止める。
「はい。店主は地上最強であっても、商売は素人なのですから。目標は低めにして、ひとつひとつ達成していく方がいいと思います」
シプラはにこりとした。
開店してしばらく経ってからこのやりとりがはじまるあたりが、お察しだ……と口の悪い者ならば言ったに違いない。
誰も何も言わなかったのは、この店の主が誰なのかということをうっすらと分かっていたからである。
サガミは自分の名前を決して喧伝したりはしなかったのだが、それでも何となく広まってくるのが人の世というものだろうか。
「注文お願いしまーす」
先ほど入って来た若い男性が、シプラを呼ぶ。
「ベーコンとキャベツのパンに豆のスープをお願いします」
「はーい」
やれやれまたかと思いながらサガミは聞いていた。
今のところ、客はどれも似たような注文ばかりである。
肉と野菜を挟んだパンに豆のスープというものは、二等住居区の定番だ。
一等に行けば豪華になり、三等になればもっと質素になる。
(結局、人は食べ慣れたものがいいということか?)
中には新しいものを食べてみたいという人もいるが、こういう人を計算に入れない方がいいような数しかいないようだ。
需要があるならば応えるのも商売のひとつである。
とりあえず男性の注文を用意していると、ひとりの少女が入ってきた。
「いらっしゃいませー」
シプラが応対し水を出す。
飲み水の美味さと、いっぱいめが無料だということに驚くのは、もはやこの店の通過儀礼である。
「えっと……」
うすい赤色とでも言うべき服を着た少女は、献立を見ながら困惑した。
「あのう、すみません……私、パンもスープも苦手なんですが……この店ではそういうの以外を食べられると、アブラハムさんに聞いたのですが」
「アブラハム?」
シプラとサガミは聞き覚えのない名前にそろって首をひねる。
「えっと、光都の外から来て商売をはじめた人で、ここでうどんというものを食べたことがあるとか」
「ああ、あの人か」
ふたりは声をそろえてうなずいた。
この店の主人がサガミ・ハリマだと知って、逃げ出すように出ていた客である。
「美味しかったのに、逃げちゃって申し訳なかったとおっしゃっていました」
「別に気にしていないよ」
サガミは笑って言う。
余裕のある態度に少女はホッとしたらしく、簡単に自己紹介をする。
「私、ミュカと言いまして、今アブラハムさんがはじめた古着屋で働いているんです。パンもスープも苦手だからお昼困っていると言ったら、そしたらここのお店を教えられたんです」
ミュカと名乗った少女に、シプラが同情した。
「パンもスープも苦手なら、光都での食事はさぞ大変でしょう……」
「食べられないわけではないので周囲から理解が得られなくて……あ、あの? こちらにはありますよね? パンでもスープでもないもの」
「ああ」
サガミはそう言って準備をはじめる。
「お待たせしました。焼きおにぎりです。これはコメをニギッてショーユで香ばしく焼いたものです。コメは大丈夫ですか?」
シプラは四つの焼きおにぎりが乗ったうす緑色の丸皿と、つけものが乗った白い丸皿をミュカの前に置く。
「あ、はい。コメなら平気です。コメをニギッて……ショーよ?」
ミュカは不思議そうな顔で、さんかくむすびをながめて首をかしげる。
コメ以外は聞きなじみがないのだろう。
「あと、一緒についてきたものは何でしょう?」
「ツケモノですね。……店主、どう説明しましょうか?」
シプラが困った顔をしてサガミに助けを求める。
彼女ではつけものを何と言えば分からなかったようだ。
「光都にも肉を塩漬けにしたりするだろう? それの野菜版と考えてもらえば分かりやすいのではないかな」
「保存食の一種ということですか」
ミュカは何となく理解したような顔になる。
「手づかみでどうぞ」
シプラにすすめられるまま、ミュカは焼きおにぎりを手にとって口へ運ぶ。
「んん……カリッとして、おコメがほどけて……美味しいです」
彼女は水をひと口飲んでから首をかしげる。
「以前食べたものよりずっと美味しいですが、何だか違う食べ物のような気がしますね。しょーよのおかげでしょうか?」
「ショーユはこっちじゃ珍しいですものね」
シプラがニコニコしながら言う。
「これならいくらでも食べられそう……アブラハムさんにもお礼を言わなきゃ」
ミュカが美味しそうに食べている様子を見た、ひとりの男性客が注文する。
「あの、私にもやきおにぎりというものをひとつ」
「あ、俺も」
みんな意外と興味はあったのかもしれない、とサガミは思いながら注文に応えた。
「少しずつ評判が広がっているのかもしれないな」
閉店作業の際、サガミがぽつりと言う。
「ええ。ありがたい話ですよね」
「地道にはげんできた甲斐があるというものだ。パッとドラゴンを倒す方が楽でいいな」
英雄ならではの感覚にシプラは苦笑する。
「普通は逆です。同じことを毎日くり返す方が、ドラゴン退治よりも簡単ですよ。……耐えがたきを耐える日々も簡単ではないですが」
「シプラもよくつき合ってくれた。ありがとう」
彼の礼に彼女は頬を朱色に染めた。