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九、約束を破ったら? ~ 間章

 イワナガに追い立てられる形でお山に放り出されたヤシマジヌミは、とぼとぼとお山を彷徨っていた。

 革袋には少しの食料と、仕事に必要な道具が詰め込まれている。それを回収する暇もなく、イワナガに追い出されてしまっている。

 彼女の怒りはおさまらないに違いない。偶然とはいえ、約束を破った男を、家へ招き入れはしない。


 ヤシマジヌミはその失態を、決して言い訳しなかった。約束は守るものだと教わって育ったのもあるためか、彼は約束や契約といったものを厳守し続ける。破ったことは一度もない。――いや、なかった。さっき、初めて破ってしまった。


(困りました……。イワナガさんとの約束を破ってしまいました……。これでは僕、お山の狩人失格です)

 今まで約束を守ってきた彼は、破った時の対処法など知らない。破ることがなかったために学習できなかったのだ。


(どうしましょう。僕……イワナガさんにひどいことをしてしまいました。父さん、こんな時、どうすれば……)




 ――――さて、そうしてヤシマジヌミが途方に暮れている間、一方のイワナガも相当落ち込んでいた。

 顔を見られたという衝撃もあるが、何よりあそこまで激昂してしまった自分を恥じていた。

 このお山で暮らして以降、何人もの人間や神々を招き入れ、食事と寝床を与えてきた。その代償として必ず、『顔を視るな』と忠告した。だが好奇心というのは見るなと言われると抗いたくなるものらしく。

 ヤシマジヌミを除くすべての者が、イワナガのいいつけを破り、彼女の顔を覗いた。


 誰もが醜さに顔をしかめ、恐れおののいた。約束を破った以上、中に入れてはおけない。彼ら彼女らは、追い出した。

 追い出したといっても、ヤシマジヌミにした時と同じように、髪を振り乱し金切声をあげ、鈍器を振り回すという荒っぽいことはしなかった。醜い顔を逆手にとって、恐怖にすくませ自ら外へ出るよう追い込んだ。ただし追い込むだけだ。乱暴にはしない。


 どうして彼に至って、あれほどまでに怒り狂ってしまったんだろう。その理由は、イワナガにはわかっている。だが言えない。口に出すことができないのだ。



 振り回して床に放り捨てた紺を、しゃがんでそっと拾う。ヤシマジヌミの大切な武器だ。傍らには、彼の背負っていた小さな革袋がある。

 棍にこびりついた血を、袖で拭う。赤黒い血に汚れた宝石部分が、紺碧の輝きを取り戻した。確か、彼は母から祝いとして授かったと言っていた。


 わたしはなんてことを。

 イワナガは、紺を壁に立てかけて、うなだれた。床を小さな雫が濡らしていく。自分は泣いているのだとぼんやり気づいた。

 喉からせり上がる声を押し込む。ぐしゃぐしゃに顔を歪ませて、目からこぼれる涙を必死に拭いさる。


 どうして顔を見てしまったんだろう。どうして見られてしまったんだろう。

 どうしてあの時、風なんか吹いたんだろう。どうして急に、ヤシマジヌミが戻ってきてしまったんだろう。


 偶然が重なって、イワナガに現実を叩きつけた。厳重に顔を隠していたのに、絶対に見られないよう、細心の注意を払っていたのに。

 いつの間に自分は油断していたんだろうか。




「醜いな」


 背後からしたその声に、イワナガは振り返る。



「醜い。やはり醜い」

 現実を突きつけて来るのは、どうやら偶然だけではなかったようだ。涙に汚れた顔のまま、イワナガはその者を静かに睨む。

「あなたが裏で糸をひいていたのね」

「今更何を」

 さも当然というように、その者は静かに言う。

 

 おかしいと思っていたのだ。先ほどの、ヤシマジヌミの急な帰還と不自然な風。

 風が吹いて顔を暴かれたのが自分の油断から生じた悲劇だとしても、ヤシマジヌミがいきなりここまで戻ってくることはありえない。彼はここへ来てからというもの日が暮れる直前まで粘り強くお山を探索していたのだから。

 

 そんな彼が、今日に限っていきなりここへ戻ってくるはずがない。事情があって引き返してきたとしても、それは彼の気まぐれからでは、決してない。イワナガは、それを知っている。短い間ではあったけれど、強く記憶に刻まれている。


「日本の男神はみな同じと思っていたが、あの神だけは別のようだ。いずれ同じようになるだろうとのんびり見物していたのに、いっこうにお前の顔を見ようとしなかったのだからな」

 翡翠の瞳が、イワナガを見下すように見下ろしてきた。その者は思い込んでいたのだ、日本の男神はみな、「見るな」を破るというものだと。

 だがヤシマジヌミはいつまでたっても、その思い込みに抗い続けていた。本人に自覚はないんだろうけれど。


「待ち続けるのもうんざりだったからな。さっさと終わらせようと思って少し空間を捩じってやったのさ」

「そして彼はここへ戻ってきたというわけね。あなたらしい小癪な手だわ、シャルラ」


 翡翠のひと――シャルラは、イワナガの侮蔑など気にも留めなかった。さらさらと揺れる髪をなびかせて、憐れむ眼差しでイワナガを睨み返す。

 そして追い打ちをかけた。


「いずれにせよ、私の目的はほとんど達成した。ヤシマジヌミという脅威はなくなり、この山を覆う穢れもいずれ町へと降りるだろう」

「させるわけがない。私が結界で封じているんだもの」

「できるのさ。この結界というのはいわばお前の精神に依存する。要するに、お前の心が大きく揺り動かされた場合、結界にほころびが生じる。お前はさっき、有り余るほどに激昂した。その激昂が結界に響いた。どうなるかわかるか。――結界は一時的に弱くなり、すでに瘴気が漏れている」


 イワナガははっと目を見開いた。シャルラはただ単に、イワナガとヤシマジヌミを引き剥がすために風を吹かせたのだと思っていた。

 だがシャルラの目論見はそれにとどまらなかった。結界を張った本人イワナガを動揺させることで結界を揺るがし、封じられていた正気を外へ出すことまで計算ずくだったんだ。


 考えが至らなかった。今まで何度も言いつけを破られ顔を暴かれても、決して感情が激しく高ぶることなどなかった。だがヤシマジヌミに限っては、今までとは異なってしまった。


 シャルラはわかっていたんだ。ヤシマジヌミが約束を破ると、イワナガが激昂するということを。


 どうしてそんなことを予想していたかはイワナガにはわからない。

 ただ、自分が取り返しのつかないことをしてしまったと、それだけは鮮明に心に焼きついた。


 なんてことを。イワナガはこぼした。



「醜いな、イワナガヒメ。お前の顔は滑稽なくらいに醜いよ。醜い者は笑っても泣いても怒っても、どんな表情になっても醜いままだ。だからお前はニニギに拒まれたのさ」

「……そんな」

「醜いお前が、男神に顔を見られて激怒した。そしてその怒りに呼応して、お山が瞬時に穢れで満たされた。穢れはイワナガヒメの醜さから生まれた。……そういう筋書きだったのだが、ようやくかなったよ。感謝だけはしておいてやろう、我々の目的は確実に一歩進むことができたのだから」

 穏やかな微笑を浮かべているはずなのに、シャルラの顔はひどく鋭くそして冷めていた。その見下すような目つきは生まれつきなんだろう。イワナガにのみ向けられていると思われていたその眼差しは、ヤシマジヌミにも向けていた。


「そうして正気を生み続け、いずれ呑まれてしねばいい。左様なら、醜い姫」

 シャルラが、風に乗って消えて行った。


 自分の犯した過ちに気づいたイワナガは、傍らに置かれたヤシマジヌミの棍を抱きしめ、静かに泣き崩れた。

 その姿は、憐れか、それとも醜いか。

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