七、ヤシマジヌミ,ふりだしに戻る
お山へ入ってからずっと探していたひとが、そこに立っている。
やっと会えた。やっぱり男か女かわからない。
翡翠色の瞳に感情らしい感情は見つからず、静かにヤシマジヌミを見据えていた。
――どうしよう。
ヤシマジヌミの足が動かない。近づくべきか、イワナガのもとへ一旦帰るか。
いや放っておくわけにはいかない。イワナガの家へ戻らなければ、そのひとを連れて。
「えっと」
ヤシマジヌミは言葉に詰まる。そのひとに、まずどんな声をかければいいのか迷ったのだ。自己紹介? 君はだれですか? ずっと探していたんです。どれも違う。
(いえ、それらはまず、イワナガさんのお家に戻ってからです!)
ひとり勝手にあたふたしているヤシマジヌミを前にしても、そのひとは平然とヤシマジヌミを見つめているだけだった。象牙色の髪と白装束をなびかせて、未だ生き続ける黒い渦の隣に立っている。
「えっと……! きみは……いえ、それより! そこにいては危ないです。まずは安全な場所へ行きましょう! 僕は君を保護する義務があるんです」
そのひとは答えない。
「その、きみの目的はよくわかりませんが、とにかくここから離れましょう! 手遅れになる前に、さあ!!」
ヤシマジヌミは右手を差し伸べる。手をいっぱいに伸ばしたところで届かないのはわかっている。本当は、一歩でも二歩でもずっと前に進みたかった。でも足は地にひっつかまれたようにびくともしないのだ。
「こちらへ、ゆっくりで大丈夫ですから、僕のところへ来てください」
ヤシマジヌミはつとめて微笑んだ。厳しい表情をしていては、きっと相手を不安がらせてしまうだろう。窮地に陥ったときや、怯えている相手にこそ笑え、とは父親の教えだ。
「僕はこのお山の浄化を請け負っている者です。そしてお山の住人たちを保護するのもお仕事のうちなんです。ここにいては危険ですから、一緒にお山を下りましょう」
ね、と語りかける。それでもそのひとは動こうとしない。
ふと、翡翠色の瞳が揺れた。ヤシマジヌミの右手に視線を移して、其処から目を離さない。
「……どうして」
「え?」
そのひとが、初めて言葉を紡いだ。
「どうして……。日本の男神は、みな同じだと思っていたのに」
「……? 何のお話ですか?」
「まあ、いいか。そうなるように、仕向ければいいだけのことか」
「ごめんなさい。君のお話はあとでじっくり聞きます。ですからここから離れましょう」
ヤシマジヌミとそのひとの会話はまるでかみ合わない。だがヤシマジヌミはそのかみ合わなさも気にせず、そのひとをここから引っ張り出そうとする。そのひとの命が危ういのだ。のんびりと語り合うのは後だ。
「さあ、こちらへ」
差し伸べたヤシマジヌミの手を、そのひとは結局取らない。
冷えた翡翠色の視線が、ヤシマジヌミの目へと移る。
「君、行きましょう」
「……」
そのひとはようやく右手を動かした。
ところがその手はヤシマジヌミに近づくことがなかった。
ヤシマジヌミの目線に手のひらを合わせ、そのまま動かさない。
ヤシマジヌミの視線が、そのひとの手のひらに吸い寄せられる。
(何をしようとしているんでしょう……?)
どうしたんですか、と声を出す前に、ヤシマジヌミの視界がぐるんと歪んだ。
ヤシマジヌミは一瞬、強い眩暈に襲われた。目の前が真っ暗になり、頭の中がぐらぐら回る。
足がふらついて前につんのめる。伸ばした右手は、翡翠色のそのひとではなく、空虚を掴んだだけだった。
(あれ? あれっ? えっ!?)
もう片方の手には、しっかりと棍が握られている。崖から落ちたときと同じ失敗は繰り返さなかった。
失敗したとすれば、探し求めていた翡翠色の瞳のそのひとを、引っぱり込むことができなかったことだ。
そしてその失敗は、あとになってヤシマジヌミの大きな失態を招くことになる。
「……あれっ?」
「……え?」
ヤシマジヌミは、自分がいつの間にかイワナガの家に戻ってきていることに、何となく気づいた。