十四、その名はシャルラ
「思い出したの? いえ、記憶がよみがえったの……?」
泣きじゃくるイワナガ――もといチルは、驚いた表情を隠さない。
「はい。やっと思い出しました。今まで忘れていて、ごめんなさい」
「別に、気にしていないわ。ただ奇妙なの。本来、わたしを思い出すはずがなかったのに」
「どういうことですか?」
「……。あなた、このお山へ入ってすぐのころに、異国風の男をみかけなかった?」
チルの言葉は滑らかに語られた。
顔を隠していた時と比べると、押し込んだような口調が消えている。
チルに言われて、ヤシマジヌミは思い出す。本当は、その誰かを探していたのだ。
「あ……っ、そうです! 翡翠色の目がきれいなあのひと……!」
「やっぱり」
「……あれ? そのひと男の方だったんですか?」
「そうよ。あの男がすべての黒幕。……へんね、わたしこんなにすらすら言葉が出て来るなんて」
神妙な面持ちで語るチルの表情が少し和らいだ。
「チルは饒舌なのですよ、きっと」
「いえ、性格の問題じゃないわ。わたしはあの男に呪詛をかけられていたの」
「呪詛?」
「本当の名前が言えなくなる呪詛。真実を語ろうとすると、口が閉じる呪詛。姿をイワナガに変えられた呪詛。……コノハナチル、言えてる。わたし、名前を言えている」
チルは目を見開いて、ヤシマジヌミを見返した。
「名前が言えるということは、チルにかかった呪詛は消えてなくなったわけですね!」
「そうなるけれど、でもどうして……? 呪詛や術には自信があったわたしでさえ、解呪の仕方がわからなかったのに」
「僕にもわかりません。けど、チルの呪いが解けて、もとに戻ったのならこれほど嬉しいことはありません。えっと、お山の穢れを食い止めて、黒幕さんをみつけなければなりませんね」
ヤシマジヌミがすっと立ち上がる。
「チル、一緒に来てください。チルの力が必要です」
ヤシマジヌミは自然に、チルへと手を差し伸べた。それが当たり前のように。
お山に起こっている事態を把握した彼は、同時に自分ひとりで何とかできるほど些細な事件ではないと察した。
だからここで、チルの手を借りたい。彼女の知恵と知識が、今の自分には必要だ。
「わたしでいいの……?」
「もちろん! いえ、チルでなければいけません!」
ヤシマジヌミの声は朗らかだった。さあ、と手をチルに伸ばす。
チルはというと、手をうろうろさせて迷っていた。自分がヤシマジヌミのとなりにいてもいいんだろうかと。
そんな心を察してか天然か、ヤシマジヌミはチルの手を取り、ひっぱりあげた。「ひゃっ」とチルの驚いた声が上がる。
「チルがもたもたしているのがいけません。僕は父さんに似て、ちょっと気が短いんですからね」
「そ、そう……。わたしでよければ、力になるわ」
「はい! とても心強いです」
「あなたって、相変わらずへんね」
「うーん、よく言われるんですよね……。直した方がいいです?」
「いえ、そのままでいいわ」
「じゃあへんなままでいます。……さて、まずはお山の穢れを食い止めませんとね。黒幕さんも探さなければ」
ヤシマジヌミは、目の前の穢れの渦を見つめる。どす黒い瘴気はお山の生物を今にも飲み込んでいきそうだ。自分とチル姫が立っていられるのは、奇跡に近いものだ。
「あの渦を生み出したのも、あなたが追っていた男の仕業よ」
「黒幕さんが……。道理で、あんな強い穢れの近くにいても平気だったんですね」
通常、穢れというのは生み出した『親』に対してまったく力を持たない。親である黒幕を傷つける手段がないのだ。
「ええ、あの男が突然現れて、世界の理を変えていった。シャルラ……、あの男はそう名乗っていたわ」
「シャルラ、とは……聞きなれないお名前ですね。やっぱり異国の方だったんですか」
「異国どころか、天から来たといっていた。本当はね、シャルラのことも言えない呪詛がかかっていたのよ。もちろん、名前だって言えなかった。でも言えてる。……呪詛が、すべて取り除かれているのね」
チルがそう言う。
「不思議なこともあるのですね。チルは幸運なんです、きっと。さあ、黒幕のシャルラさんとやらを探しましょう。僕から離れないで下さいね」
半ば強引に、ヤシマジヌミはチルの手を引っ張った。
よろけるチルの肩を受け止め、バランスを整え直してあげる。
「……ヤシマ」
「はい、チル」
「探す手間は、省けたみたい」
静かに怒りを燃やす彼女の眼差しの先には、
黒幕――シャルラと呼ばれた男が立っていた。