十二、醜い姫のほんとうの名は
とにかく、ヤシマジヌミは歩を進める。お山の瘴気を放っていた場所に、目印としてそこの近くに生えていた樹木の枝に布を巻きつけておいた。確証はないけれど、そこへもう一度辿り着ければイワナガともうひとりの探し人に会える気がした。というのも、ぬぐった棍がそう告げているからだ。言葉ではなく、ヤシマジヌミの心へ道筋を示している。
心に描かれた道のりに従ってヤシマジヌミは歩き出す。歩いている場合ではないとさとり、さっと駆けていく。
それとなく空を意識してお山を駆けていたが、さきほど助言をくれた大きなカラスは、ついぞ見つからなかった。助言はしたから、あとのことは自分ですべてどうにかしろということなんだろう。それでいい。ヤシマジヌミは、そう思った。
日が暮れかけ、お山の中が橙色に染まる。それは燃えあがるようにもうかがえた。ヤシマジヌミの歩幅が大きく広がる。橙に染まっている間が勝負なのだ。完全に日が落ちたら、視界が閉ざされ探索も困難になる。そうなる前に、とにかく急いで探し当てなければならない。イワナガも、ずっと探していた翡翠のひとも。
木々生い茂り、瘴気に当てられた獣たちの群れがそこかしこに蔓延っている道中でも、ヤシマジヌミの足取りに迷いはない。複雑なお山の中は、どれほど経験を積んでいても必ずどこかで道に迷う。ヤシマジヌミも例外ではない。
だけれど今度に限ってはその心配がなかった。棍が導いてくれているからだ。
走り抜けるたび、冷たい風が肌を刺す。思わず身震いしてしまいそうなのをぐっとこらえた。立ち止まっている場合ではない。
(こっちですね)
二手に分かれた道が、目の前に広がった。どちらかが正解でどちらかが外れである。棍の語りかけによれば、右側の道を行けということだった。ヤシマジヌミは従い、右の道を突っ走る。体感ではあと少しだ。
「……よし」
だんだんと見覚えのある風景になっていく。獣達の襲撃にいくらか遭ったが、目の前に立ちはだかった際迎撃した。息の根までは止めていない。痛い目を見たくなかったらすっこんでいろと、冷たい一撃が沈むだけ。
いつの間にか息が上がっていた。鼓動が早い。走っていたせいで体も温まる。
後先考えずに突っ走り、ヤシマジヌミはようやく目的地へたどり着いた。
そこには、外套を深くかぶった誰かがうずくまっている。捜していた者がそこにいると確認できて、ヤシマジヌミの胸がなで下ろされた。
呼吸を整えながら、傍らにへたり込んだ彼女に近付く。彼女の目の前には、やはり渦巻く黒い瘴気が生きていた。あの瘴気近くにい続けていたら、彼女も飲み込まれる。
「イワナガさん」
ヤシマジヌミは彼女を呼ぶ。呼ばれたイワナガは、ぴくっと反応した。おそるおそるヤシマジヌミの方へ顔を上げようとして、途中で引っ込めた。
「その、約束を破った僕を見るのは耐え難いことだと思います。でも言わせてほしいことがあるんです」
顔をそむけているイワナガは、沈黙を通した。好きに喋れということなんだろう。
「自己満足と笑って構いません。馬鹿だと言ってもいいです。……ずっと謝りたかったんです。絶対に見ないと約束したのに。その約束を破ってしまったことを」
「……。別に、もう気にしていないわ。私の方こそごめんなさい。取り乱して、追い出してしまって」
「いいえ! イワナガさんは悪くありません。すべて僕のせいです。だから、……ごめんなさい」
ヤシマジヌミは深く頭を下げた。腰を落として膝をつき、イワナガに向かって深く頭を下げている。
イワナガは彼の姿勢を見守っていた。
「……。いいえ、貴方に非はないわ。貴方が望んで私の顔を覗いたわけではないって、わかっているの。でもなぜか、私には耐えられなかった。今まで、自ら私の素顔を見たものにさえ怒りなんてなかったのに」
「イワナガさん……」
「でも、このお山はじき手遅れになるわ。いくら熟練の貴方でも無事ではすまなくなる。……。悪いことは言わないから、すぐに出ていきなさい」
「いえ、父さんから引き受けた大切な依頼です。途中で放り出すことはしません」
ヤシマジヌミはきっぱりと告げる。
謝罪を受け入れてくれたととらえ、ヤシマジヌミは向き直る。
「そしてもう一つ。お話したいことがあるんです」
「……。なに。もう時間がないのだから、早くしなければ」
「瘴気は、お話が終わったらすぐに片づけます」
ヤシマジヌミの声に力がこもる。自分とイワナガの目の前には、瘴気の根源が渦巻いている。本来であればあっという間に飲み込まれるはずが、なぜかふたりとも無事であった。
どうしてなのだろう、と考えると、ヤシマジヌミの思考が辿り着く先は、母の棍のおかげというものだった。
「聞いてください、イワナガさん。僕はついさっき、大切なことを思い出したんです。そっちょくに云います、イワナガさん。
あなたは、イワナガ姫じゃないですよね?」
「……。何を言ってるの」
イワナガはフードを目深にかぶり直し、怪訝な声で尋ねる。だがヤシマジヌミはいたって冷静だった。
「あなたは、いえ君は……イワナガ姫ではない、別の女神です。違いますか?」
「違うわ。私はイワナガよ。誰よりも醜い憐れなイワナガ姫……」
「違います」
「違わない! 私はイワナガヒメなのよ! 誰からも愛されない、誰からも受け入れられない、
そうよ、イワナガよ。何をしても醜い女神なの!
泣いても怒っても、笑っても表情を変えなくても、どうなっても醜いイワナガなのよ!!」
「違うっ!!」
ヤシマジヌミが、初めて声を荒げた。思わずイワナガが、驚いて身をすくめる。
ヤシマジヌミはまっすぐ、イワナガを見据えた。あろうことか、彼女の約束を、自ら破った。
がさがさの皮手袋を嵌めた両手で、彼女の頬を包み込む。
ばさっ、と、イワナガのフードが落ちた。
「君はチル。
コノハナチル姫です。そうでしょう?」