十一、ヤシマジヌミ,思い出す
「イワナガさん……。いらっしゃらないのですか……?」
不審に思いながら、ヤシマジヌミは屋内を探し回る。厨房にもいない、空き部屋にもいない。ヤシマジヌミが借りていた寝室にもいない。窓から外を伺うが、イワナガの姿は見つからなかった。
ヤシマジヌミの記憶する限りでは、イワナガはほとんど外に出なかった。
それに罪悪感まみれで開いた戸は鍵がかかっていなかった。窓も開いていたし、家の中は少しだけ荒れていた。棍と革袋だけはきちんと置かれているのがいやに目立つ。
それら二つにそっと近づき、ヤシマジヌミは膝を折る。青い宝石部分に一点、黒く擦れた跡がある。血をぬぐったのだろうか。
イワナガの不自然な不在に胸騒ぎがする。
(嫌な予感がします……。急いで探さなければ。翡翠の目の方も一緒に保護しないと)
棍を握り締めたヤシマジヌミは立ち上がる。ふと、窓の外から何か風が吹き抜けた。それに気づいて、窓を閉める。
くるっと振り向いて、そこにぽつんとおかれた食卓を見下ろす。つい先日まで、イワナガと一緒にそこで食事をしていたのに。
(――え?)
ヤシマジヌミは目を見張る。
ばつんっ、と目の奥が弾かれた。
一瞬だけ、脳裏に色褪せた映像が映し出される。そこにいたのは、幼い頃の自分だった。
父の腕にぶら下がって、きゃっきゃと笑い声を上げている。父と戯れる自分を遠巻きに見守っているのは母だろう。
ヤシマジヌミが今立っているこの場所で、映像でしかない幼い自分は父と母と遊んでいた。
父母と自分だけじゃない。母にまじって、遠巻きに見守っていたひとつの家族が視えた。
映像は一瞬だけだったのに、どうしてここまで鮮明に描き出せるんだろう。ヤシマジヌミは戸惑いながら、弾きだされた映像を思い出す。
夢じゃない。かつて自分は、このお山の、この家に訪れたことがあるのだ。それも小さなころに。
その記憶を引き出そうと必死に思い出してみても、頭の中が霞がかったかのように見えなくなってくる。
うーん、と唸りながら念じるも意味はなく。
一瞬だけ開かれた記憶の中で、ヤシマジヌミはたったひとつ、どうしても鮮明に思い出したいものがあった。
傍らに控えていた、小さな少女である。
少女は二人いた。彼女らの父親ともとれる者にくっつきながら、小さなヤシマジヌミを見守っていた。
そのうちのひとりを、どうしても思い出さなければならない気がした。
ヤシマジヌミは瞼をきつく閉じ、額に手をあてる。もう少しで思い出せそうなのだ。
どこかで会った覚えがある。でも名前が出てこない。顔もはっきりと映し出せない。
思い出さなければいけない。心は急かすようにそう告げる。
一体どうして?
理由もわからないまま、ヤシマジヌミは必死に記憶を探り出す。
(駄目です、まだ……忘れたままのようです。どうして思い出せないんでしょう。その女の子は、僕にとっての何なのでしょうか)
一旦瞼を開いて、ヤシマジヌミは冷静さを取り戻す。
このまま時間を割いていても仕方がない。いなくなったイワナガと、ようやく見つけた名もなき翡翠色の目のひとを探さなければ。懐かしいおぼろな記憶は後回しだ。
革袋をかつぐ。棍の宝石部分に擦り付いた血をぬぐおうとして、その部分に親指を這わす。その血は自分の血だ。手袋でうまくぬぐえなかったから、手袋をはずして親指で直に擦る。血がきれいに消えた。
「あ」
宝石についた血をきれいに指で落とした直後、頭の中の霧が、あっさりと、晴れた。
その晴れた霧の先には、忘れるはずのなかった少女がくっきりと映し出される。
ヤシマジヌミは棍を握り締め、イワナガの屋敷を後にする。
探さなければ。記憶を取り戻したからには、いや取り戻したからこそ。
(イワナガさん、貴方と僕は……遠い昔に、お会いしていたんですね)