十、時すでに遅し
革袋も棍もない丸腰の状態で、ヤシマジヌミはやはり途方に暮れていた。
偶然とはいえ、イワナガの顔を見てしまった自分に落ち度があると彼はわかっていた。だから今更、イワナガへ謝罪してせめて武器だけでも返してもらえるよう許しを乞うことが、とても都合がよすぎると思っていたのだ。
(イワナガさんは怒っていますし、僕がのこのこ戻ってきたところで、逆鱗に触れてしまうのは目に見えていますし、うーん……)
かれこれ、ヤシマジヌミはその場を行ったり来たりと幾度も繰り返していた。何でもいいからとにかく謝罪を伝えるべきか、他にどうすべきかと考え込んでばかりいる。
(こんな時、父さんが隣にいてくれれば、きっと正解を教えて下さるのでしょうが、今は僕一人です。いやいや、そもそも独り立ちしている時点で父さんに答えを聞くこと自体おかしいです。困りました……)
そうして単純な答えを導き出せない大きな子供を、木々に止まるカラスたちが何だアレと興味深げに見下ろしていた。
カラスの群れの中で、一番大きなカラスが枝から離れて飛んだ。少し空を泳いだのち、別の木の枝に止まった。
「いじけてんな、お若いの」
そのカラスが、ヤシマジヌミに向けて喋った。
はっとしたヤシマジヌミは、声のした方へ素直に顔を向けた。群れの中でひときわ大きいカラスが、くちばしをぱくぱくあけながら喋っている。
「か、カラス、さん……? えっと、おしゃべりができるということは、眷属か何かでしょうか」
「お、察しがいいねえ。話が早くて助かるわ」
大きなカラスは嬉しそうにくわっくわっと鳴く。神々の使いである眷属であれば、神々や人間と言葉を交わすことも容易である。ヤシマジヌミは眷属を持たないが、父や母からそういった存在を昔に教えてもらっていた。
「それはそれとしてー、お前、さっきからずーっとここらへんをうろうろしてるけど、何かあったのか? ずっと視界に入って気になっちまうわ」
「ああ、ごめんなさい。実はその……女の方との約束を破ってしまって……」
「約束?」
「はい。ご存じありませんか? ここを少し行ったところに、イワナガさんという女神さまがいらっしゃるんです。僕はさっきまで、彼女のお家にご厄介になっておりました。でも約束を破ってしまって、どうすればいいかわからず、ここにいます」
「イワナガ、イワナガ……ねえ」
翼で自分の顔を撫でながら思案していると、カラスはああ、と思い出した。
「知ってるぞ。あの屋敷のイワナガか。約束ってのも知ってるぞ、絶対に顔を見るなって奴だろ」
「そうです! でも僕、誤って彼女の顔を見てしまって……追い出されてしまいました」
ヤシマジヌミはカラスに今までのことを全て伝えた。するとカラスは再び思案に暮れる。
「だいだいの話はわかった。でもさあ、あいつ、そんな怒るような女じゃなかったと思うけど、なんでお前にはそんな切れたんだ?」
「え? そうだったんですか? いえ、僕にはわかりません。でも、イワナガさんがとても怒っているのはわかります。あんなに大きな声を出して、取り乱した姿は初めて見ましたから」
「お前にだけねえ……。まあカラスの理解に及ばんことなのかも知れねーな」
「そうかもしれませんね。……でも困りました。僕の落ち度だから仕方ないとしても、お仕事に絶対欠かせない荷物と武器をイワナガさんのお家に残したままなんです。あれだけは返していただかなければなりません。でもイワナガさん、きっと怒っていらっしゃいますから、僕のお願いなんて聞いてくれそうもないですし……」
「ああそれで困ってたのね」
ヤシマジヌミは頷いた。
かーっ、とカラスは盛大にため息をついた。そして、枝から飛び、ヤシマジヌミの肩に乗っかった。
「おい、若いの。お前は約束破りはしたがよ、それだってわざとやったわけじゃねえんだろ? 現に、言われたことはきちんと守ってたし、顔を見ちまった今でもこうして申し訳なさそうに項垂れてるくらいだし」
「はい。約束は守るものです。でもどんな形や過程であれ、破ってしまった結果に変わりはありません」
「融通がきかないねえ。わざとやったんじゃねーんだから、胸はるくらいはしても平気だぞ? ああなるほど、お前は今まで約束破ったことがないんだな? 今まで律儀に全部守ってきただろ。だからなやんでんだ」
「そうなんです……。僕、約束を破ったことがないので、こんな時、どうすればいいかがわからないんです」
「そうかそうか。そりゃ困って当然だなあ。お前まだ若いし、こんな経験したことないから、答えがわからなくても仕方がない。んじゃ俺が教えてやろう。一介のカラスだけど、お前よりは結構長く生きてるからな」
「本当ですか? とても助かります」
いいってことよー、とカラスが笑う。
このカラスが、答えを教えてくれるんだ。そう思うと、ヤシマジヌミの背は自然とのびた。真剣な面持ちで、肩に乗っかるカラスの答えをじっと伺う。
きっ、と唇を引き結んで、ひとことも聞き漏らすまいと肩に力を入れるヤシマジヌミをよそに、カラスはのんきに欠伸する。
「まあ簡単なこった。約束破ったってことは要するに悪いことしちゃったってことだ」
「……? はい」
「悪いことしたらごめんなさいするだろ? 今回も同じさ。イワナガにごめんなさいって言えばいい」
ヤシマジヌミは、ぽかんと口を開けた。自分が悩んだ問題の答えが、これほど簡単だったとは思わなかった。
「ごめんなさい……? そんな、単純なことだったのでしょうか」
「逆だ。お前さんは難しく考えすぎてただけなのさ。ごめんなさいの一言で済むさ」
「それで気が済むのは僕だけではありませんか? 約束を破られたイワナガさんは、置いてけぼりにされやしませんか」
「そういう面もないとは言い切れないな。だけど、イワナガに何も言わず、黙ってここで野垂れ死ぬよりはよっぽどいい。それにお前は本当に悪いと思ってるんだろ。真剣に謝れば、あの娘っこにも誠意は伝わるよ。俺様にはわかるねー」
そういえばそうかもしれない、とヤシマジヌミは納得していた。
どんな形であれ、イワナガの約束を破ったことは変わりようのない事実である。今更言い訳するつもりはない。許してほしいとも思っていない。
だけれど、と思い出す。幼い頃、父に教わった。悪いことをしたら素直に謝ることだと。今回もその通りなのだ。
カラスの言う通り、複雑に考え過ぎていた。約束を破るということは、悪いことをしたのと同じこと。
今まで約束を破ったことがないから、まるで何もわからず、考え込み過ぎていたんだ。
だがカラスの助言で、何とか答えを見つけ出した。それは単純なこと。父に教わった、当たり前のことだった。
(でしたら、ごめんなさいを言いに戻らなければなりませんね。……イワナガさん、きっと怒っていらっしゃるでしょうし、許してくれるなんて思ってもいませんが。でも何も言わないよりは、ずっといいです。僕にとってもイワナガさんにとっても。……そうですよね、父さん)
ヤシマジヌミは、ふっと息を吐いて、少し微笑んだ。
「ありがとうございます、カラスさん。行ってきますね」
「礼には及ばねえよ。がんばれな、お若いの」
カラスはヤシマジヌミの肩から飛び立ち、森の奥深くへ消えて行った。
意を決したヤシマジヌミは、来た道を戻る。イワナガの屋敷までの道は憶えているから、迷うこともなかった。
あっという間に、彼女の家の前までたどり着く。少し緊張してきた。心臓が強く打っている。
戸の前で深呼吸する。よし、と意気込んで、戸越しにイワナガへ声をかけた。
「イワナガさん。ヤシマジヌミです。その、戸を開けなくても構いませんので、ちょっと聞いて頂けませんか?」
中からの返答はない。
「その、僕……イワナガさんに謝らなければなりません。偶然とはいえ、イワナガさんの約束を破ってしまったこと、本当に申し訳なく思っています。今更何を言っても、イワナガさんには言い訳にしか聞こえないかも知れませんが……。えっと、その、長話になってごめんなさい」
ヤシマジヌミはたどたどしく言葉を伝える。本当はこんなに言い訳するつもりはなかった。これ以上の弁解はだめだと、一旦切る。
「な、何を言ってるんでしょうね、僕。その、これ以上言い訳するのはおしまいにします」
ヤシマジヌミは、戸の前で、深く頭を下げた。
「ごめんなさい、イワナガさん」
精一杯の謝罪をした。
それでも、彼女から何の返答も見受けられない。
ずっと長い沈黙が続く。ふと不審に思ったヤシマジヌミは、一度頭を上げた。
奇妙な感覚が肌にまとわりつく。虚空を相手しているような違和感に、ヤシマジヌミは眉をひそめた。
「イワナガさん……? あの、いらっしゃいますか?」
遠慮がちに声をかけてみるが、やっぱり返答はない。
「すみません、失礼します」
断ってから戸を開ける。
そこにイワナガの姿はなく。
母から授かった棍と、革袋がきちんと置かれているだけだった。