皆さんおはようございます
「朝、です」
まどろみの中、先ほど見た夢の内容も思い出せず、しばらくボーっとした状態が続きます。そして慌てて辺を見渡すと、およそ自分の知らない風景ばかりが視界に入ってきて、私の寝ぼけた頭の上に更なる疑問が浮かび上がり、もう混乱状態。
覚えているのは、自分の名前と妹とお母様。あとは……そうだ、私は捨てられたのだった。
ジワリと感じる心の傷に思わず泣いてしまいそうになりますが、男の子は簡単に泣いてはいけないと、そう誰かに……、
「あ!」
ようやく自分がおバカさんだということに気がつきました。そうです。私は救われたではありませんか。なるほど、では次に思い出すべきことがあるはずです。そう、私の敬愛すべきご主人様の名前、
「クラリーネ様! クラリーネ様!」
はい、もう寝ぼけるのは終わり。体がいつもより軽い気がします。何だかウキウキした気分にもなります。それはきっと新しい朝に、何か素晴らしい出来事がある前触れかもしれませんね。
小さく背伸びをして、まだ薄暗い朝の空を窓越しから見上げ、小鳥さんに小さく挨拶をします。
「小鳥さんおはようございます! 枯れ木さんおはようございます! 皆さんおはようございます!」
小鳥は飛び立ち、枯れ木さんは黙り、私に返事を返してくださる方たちは一人もいません。ですが、いいのです。挨拶は気持ちが大事。返事をもらうために挨拶をするわけではないのですから。もちろんいくらおバカな私でも小鳥さんや枯れ木さんが返事をしてくださるなどとは思っておりません。本当です!
「セレス、起きていますか?」
「あ、はい! ルーネさん、おはようございます!」
ドア越しから透き通った女性の声が聞こえました。ルーネさんです。クラリーネ様のご友人であり、召使であり、私の先輩メイドであらせられるお方。その人が私の部屋の前で、私の名前を呼んでいます。
「関心ですね。昨日はよく眠れましたか?」
「おかげさまで夢見心地のようでした! こんなにふかふかしたベッドで眠ることが出来るなんて私は幸せ者です!」
「そ、そうですか……その部屋のベッドは特に何の変哲もない簡素な物なのですけど……」
「……よく、眠れました!」
何となく恥ずかしくて大声を出してしまいました。慌てて口を塞ぎ、すいませんとルーネさんに謝りました。ルーネさんやクラリーネ様に自分の生活環境を知られるわけにはいきません。特にクラリーネ様は、
「セレスったら、まるで森の熊みたいな生活だったのねぇ……プフゥ!」
なんて言われて笑われてしまいます! いえ、あの方の笑顔が見られるのならば、私はどんなことでもして差し上げたいのですが……いえ、やっぱり隠しておこう。
「では、支度が出来次第降りてきてください。朝食の準備をしましょう」
「はい、す、すぐ着替えますから!」
「ウフフ、ゆっくりでいいですよ。朝はまだ始まったばかりですから」
ルーネさんは優しい笑い声を残し、去っていきました。
いつも自宅から、このクラリーネ様の家に通ってらっしゃるようです。と、いうことはわたくしよりも早い時間に起きて支度をしているのですよね?
私は、早起きにはかなりの自身があったのですが、ここに大きな壁を感じました。おそるべし、先輩メイドさん!
そう思ったら、私はさっさとクラリーネ様からもらったお古のネグリジェ(女性用)を脱ぎ捨て、壁に掛けてある仕事服(メイド服)に着替えます。
手前にある鏡で軽く髪を整えて、今日も一日頑張ります。自分の格好とか、色んな部分に疑問を感じるかと思いますが、どうか突っ込まないでください。私にも分からないのですから。
※
「セレスは料理が上手ですね。ちょっと味が濃いような気がしますが、手際がいいです」
「ありがとうございます! ですがルーネさんの方が凄いです。一つ一つが丁寧で、作る料理がどれも上品です」
「……貴族は、盛り付けにもうるさいですから。逆に言えば、見た目さえ良ければ味なんていくらでも誤魔化せるんですよ?」
「そ、そうなのですか?」
「もちろんクラリーネ様は別ですけどね。あの方は、一流のシェフが作った物でも平気で皿を叩き割りますから。セレスも気をつけてください」
「あ、あははは……」
そんなことを言われた空笑いするしかないと思います。ですが、昨日出した料理にはどれも口をつけてらっしゃいました。美味しい、とか、まずい、などの批評はなく、淡々とお食べになっていただけですが……。
ルーネさんは私に手際がいいと褒めていましたが、本人は遥かその上をいく手際の良さでした。動きに無駄がないですし、スラリとした長身を活かし、色んな場所に手が届くのです。羨ましくなんかないです! ですけど……ちょっと自分が情けないです。
「大丈夫ですよ。セレスの腕なら、すぐにクラリーネ様も気に入ります。いつか二人であの人の舌を唸らせてあげましょうね」
「はい! 頑張ります!」
今まで料理といえば、大きな鍋に大量の具を入れてかき混ぜる、または、大量の野菜を切り、大きなフライパンで炒める。そんな大雑把なものだとばかり思っていました。味は濃くなければ文句を言われるので、ありったけの香辛料を入れなくてなりません。それでもまだ足りない方には香辛料をそのまま食卓に置いておくのです。
料理ひとつとっても、住む世界が違うのだと感じました。上品な味付け、というのはどうやら素材の旨みを活かさなればいけないようです。これからはルーネさんをお手本に色んな料理に挑戦できるので、ちょっと楽しみです!
「次は洗濯ですけど……これは私がやった方がいいのかしら」
「いえ! どんなお仕事も完璧にこなしたいのでっ! 教えてください!」
ルーネさんは少し困ったように手を顔に当てて悩んでいらっしゃいましたが、私がそういうと、「わかりました」とニコリと笑い、洗濯場へ連れていってくれました。
外に出るとようやく朝日が雲の上からポッカリと顔を出しました。冷え切った冷気と透き通った朝の新鮮な空気は、それだけで神秘的な風景を描き出すのです。庭を照らす光だけが暖かく、つまりよい洗濯日和なのです。
まずは熱湯と石鹸で洗濯物を綺麗に洗わなくてはなりません。それも着物を傷めないように且つ汚れを残さない、絶妙な手加減が必要になるのです。
「まぁまぁ、クラリーネったらこんな派手な下着ばっかり買っちゃって……困った子ねぇ」
「そうなのですか? 女性の方はこれが普通なのかと思っていました」
「セレスは女性の下着を洗ったことがあるのですか? こういった物は扱いが非常に難しくて、あまり力を入れると生地が傷んでしまうんです」
「はい、その、仕事で」
洗濯の量は、とても少なく感じました。いつも大量の下着とシーツその他を片付けなくてはならないので、洗濯にかけられる時間はあまりありませんでした。ですが、これなら汚れをキチンと落として、いつでも清潔を保つことができそうです。
「そうですか。男性の方にこのような仕事をさせるのは、どうなのかと思ってましたが、セレスは特に問題なさそうですね」
ルーネさんから及第点をいただきました。ありがとうございます。ですが、こんなことでしか私はお役に立てないので心苦しいです。それに、やはり布の素材が違うので、そういったことにもこれから気をつけなくてはいけません。一つの仕事も、突き通すとかなり奥深いものなのですね。
一通りの洗濯物を庭に干した後、軽く玄関口を掃除して、朝の仕事は終了です。基本的には娼館の時とあまり変わりませんが、やはり一つ一つの質が段違い。そのため、時間的には前と同じくらいかかってしまいました。そろそろクラリーネ様の朝食の時間だと聞いています。昨日はスルーされてしまいましたが、今朝の朝食は気に入っていただけるのでしょうか?
「それでは、セレス。あなたに朝の最重要任務を与えます」
「はい! 何でしょうか!」
ルーネさんが整った眉目を私の方に向けてそう言いました。私は新兵のように背筋を伸ばし、上官の言葉を待ちます。最重要任務とは何でしょうか。何だかとても責任の重いものなのでしょうか。私に務まるのでしょうか?
「クラリーネ様を……起こしてください」
「はい! ……え? それだけですか?」
「それだけですか? ではありません! とても危険な、いえ、最重要任務です。私は朝食の支度をしてきますので、どうぞごゆっくり……では!」
ルーネさんはそう言い残すとそそくさと中に入っていきました。さり際に、
「セレスがいてよかった……毎朝あれじゃ、参っちゃうもの」
と嬉しそうにスキップしながら言っていましたが、どういう意味でしょうか? そもそも、一応、一応男である私が、淑女の寝室に入ってもよろしいのでしょうか? 悶々とした疑問を、しかし仕事であるからと、振り払い、いざクラリーネ様の下へと足を運びます。
クラリーネ様のお部屋は、二階へ登り、突き当りの奥の部屋。その前に書斎があり、そこには絶対に入るなと忠告を受けています。入ったらちょん切ると言われました。何をでしょうか? 残念ながら私にそれを聞く勇気は持ち合わせておりません。とにかくこの部屋には近づいてはいけないのです。
奥の部屋のドアに近づき、小さく息を吸います。やはりあの方と相対すると胸がドキドキとしてしまいます。きっと緊張しているのでしょうね。
一呼吸ついたら小さく二回ドアのノックし、あの方の名前を呼びました。
「おはようございます! クラリーネ様! 朝食のお時間でございます!」
……返事がありません。困りました。この時間に起こせと言われているので、その通りにしなければいけないのです。ですが返事がありません。眠っていらっしゃるのでしょうか?
「クラリーネ様? 朝でございます。新しい希望の朝でございます。喜びに胸を開いて青空を仰ぎましょう!」
……どうやら起きる気配がないようです。そうなるといよいよ私は寝室に足を踏み入れなくてはなりません。失礼のないように……失礼のないように……。心に念じながら神聖なる場所へと私は赴くのでした。
「失礼しますクラリーネ様。外は一面の銀世界。空は澄み切った青空に太陽が輝いており、今朝の天気は晴れでございます。今日も一日良い日をお過ごしくださいますように」
私が部屋に入った途端、艶やかな紅色のベッドのシーツに不思議な物体が丸くなって詰まっております。その端をキツく結びながら意地でもこの手を離すまいとギュッと力を入れているように見えるのは、私の曲解でしょうか? 残念ながら私が話しかけたら体が動いていたので起きてらっしゃいますよね?
「クラリーネ様、起きてください。さぁ鳥のさえずりが聞こえますか? 今日も素晴らしい朝ですよ?」
「……嫌、一生目覚めなくていい。地獄のような気分。このまま私は永眠したい」
地を這うお化けのようにしわがれた声が聞こえました。クラリーネ様は天使のような美声をお持ちの方なのできっと気のせいです。
「クラリーネ様、さぁ朝食の時間ですよ? 今朝はこのセレスがお手伝いをさせていただきました。お口に合うかわかりませんがどうかお召し上がり下さいませ」
「ご飯、食べたい。でも起きたくない。……どうしたらいいの? 究極の選択ね」
「起きるしかないと思います」
「でも起きたら死んじゃうかもしれないじゃない? あなたはそれでいいの? このクラリーネが、あなたの主人が陽に焼かれて死んでもいいというのね。この、薄情者」
「もうメンドくさいです!」
どうやらクラリーネ様は朝がとても苦手なようです。丸い物体はボソボソと恨みの声を上げ、私を糾弾しました。朝日から体を避けるように、ゴロゴロと転がりながら。
――――どうしましょう……ルーネさんひどいです…。