心
雪が解け、庭の木には小さな花がついている。ずっと眺めているとそのまま眠りに落ちてしまいそうになる。決して小さくないその屋敷の一室の隅にかの女がいた。
彼女は心子。彼女以外に誰もいない屋敷はひどく冷たく、彼女のいる部屋にも小さな蠟燭が1つだけ灯るのみであった。
心子は少女のようであった。優しそうな瞳はいつも愁いを帯びて、常にぼんやりと何か考えているように見える。心子はいつも、彼女の屋敷から出ることなく、部屋の隅でぼんやりして一日を過ごしている。
「心子!今日も来ましたよ!」
声の主によって部屋の扉が開かれると、心地よい風が部屋に流れ込み、暗がりに沈んだ部屋に光が差し込まれる。心子はゆっくりと立ち上がり客人に向き直る。
声の主は心子の幼馴染の百合だ。みんなからは百合さんと呼ばれており、活発で明るい瞳に世話好きな性格とお姉さんのような振る舞いが人気である。心子の屋敷にはよく遊びに来る。
「百合さん、今日も綺麗ね」
心子は屋敷に来た客人に対して必ず褒めることにしている。これは社交辞令などではなく心子が心から感じていることを伝えている。
「百合さん、今日こそは泊まっていく?百合さんの話をいっぱい聞きたいの」
心子は百合さんに詰め寄るが、百合さんが困ったように首を振ると、心子は残念そうに俯く。
「でも、今日は楽しいお話を持ってきたんです。この街に怪盗が出たみたいですよ!」
百合さんが持ってきた新聞を机に広げる。写真には小さい人のような影が屋根の上にいるのが写っていて、怪盗が富豪の屋敷から宝石を盗み出したと書かれている。
「写真ではよくわかりませんが、噂によると怪盗は空を縫うように飛び、すらりと背が高く、仮面から覗く瞳は吸い込まれそうになるほど深いとか……会ってみたいですよね!」
それから心子と百合さんは日が落ちるまで話し続けた。近所のケーキ屋さんの新商品だとか前から狙ってた野良猫がやっと懐いてくれたことだとか、何度か聞いた話も中にはあったが百合さんの話を聞いているときが心子にとっての唯一の幸せな時間だった。
「わぁっ、もうこんな時間、そろそろ帰らないと。心子、また遊びに来ますね!」
去ろうとする百合さんの手を心子は無言で強く握る。小さな手から伝わる体温が百合さんの冷たい手を柔らかく包み込み、目の前の少女に対しなんだかよくわからない感情を抱かせる。
百合さんは屋敷を後にした。1人残された心子は再び窓辺の椅子に腰かけ、ぼんやり外を眺める。
黒い空に星が満ちて心子が月を眺めていた時、心子のいる部屋の扉が開かれる。心子は立ち上がり夜の客人の姿を見る。部屋は暗いが月明かりのおかげではっきり姿が見える。心子よりも遥かに背が高く、素顔は見えないが仮面から覗く瞳は深く吸い込まれそうになる。
「あなたは怪盗……?ここにはもう、何もないのに……」
怪盗と思われる人物は真っすぐ心子のほうへと歩みを進める。心子は落ち着いた様子でその場から動くことはない。心子にはこの客人が危害を加えることはないと分かっていた。
心子は客人が差し出した手に自身の手を添え、客人のもう片方の手が心子の手に何かを握らせる。心子の手をしばらく握った後、先ほどまで心子がぼんやりと眺めていた窓が突如開かれ、客人はそこから夜の闇の中へと飛び出してしまった。
心子は暖かく柔らかい手の感触と客人の不思議な――懐かしさを感じる香りに一瞬思考が止まる、手に握られていたものを見た時、心子はハッとして窓の外を見る。暗くてよく見えないが遠くの屋根の上に何かが動くのが見える。
その後、かの女の姿は屋敷の中にはなく、夜の闇の中を駆け出していた。客人の姿はとっくに見えなくなっていたが、とにかく客人が向かった方向へ夢中になって駆け出す。
「ここ……どこ……?」
翌日、百合さんが心子の屋敷に遊びに来たが心子の姿は屋敷の中にはなかった。全ての部屋――台所や風呂、庭も隅々まで探したが心子は見つからない。心子がいつもいた部屋には百合さんが昨日置いていった新聞が残されていた。




