表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

今日の分だけ、頑張る

作者: 徳山かずき
掲載日:2026/04/03

仕事に追われる日々の中で、自分が何のために働いているのか、ふと見失ってしまうことがある。


そんなとき、誰かの何気ない言葉や、小さな優しさが、心をそっと支えてくれることがある。


ちょっぴりほっこりするお話です。



午前五時。


まだ夜の冷たさが街の隅々に残っている時間、商店街はしんと静まり返っていた。


シャッターの列は、まるで眠りについた巨大な生き物の背中のように、薄暗い通りに影を落としている。


その中で、ぽつりと一つだけ灯りがともる店があった。


小さなパン屋「こはるベーカリー」。


店主の佐伯修一(さえきしゅういち)は、鍵を回しながら小さく「おはよう」と呟いた。


誰に向けた挨拶なのか、自分でもわからない。


ただ、毎朝そう言わずにはいられなかった。


扉を開けると、昨日の仕事の名残がふわりと鼻をくすぐった。


粉とバター、焼けたパンの香りが混ざり合った、あの匂い。


修一はその匂いを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと息を吐いた。


この匂いが好きだったのは、自分ではなく、妻のこはるだった。


『ねぇ修ちゃん、パンの匂いって、幸せの匂いだと思わない?』


思い出すたび、胸の奥がきゅっと痛む。


こはるが亡くなって三年。


病気だった。


気づいた時にはもう遅く、あっという間に彼女は修一の前から消えてしまった。


修一はエプロンをかけ、粉袋を抱えて作業台に立つ。


この瞬間だけは、こはるが隣にいるような気がする。


粉を量り、こね、発酵させる。


手順は身体に染みついている。


だが、こはるがいた頃のように、店内に笑い声が響くことはもうない。


店の名前「こはるベーカリー」は、こはるが生きていた頃につけたものだ。


開店準備をしていたある日のこと、こはるが言った。


『春みたいに、あったかい店にしたいね。来た人が、ほっとできるような』


その言葉に、修一は「いい名前だ」と笑った。


こはるは嬉しそうに頬を赤くして、店の看板を撫でていた。


あの日の光景は、今でも鮮明に思い出せる。


けれど、こはるの笑顔はもうどこにもない。


それでも店を閉める気にはなれなかった。


こはるが最後に言った言葉が、ずっと胸に残っているからだ。


『あなたのパンは、人を幸せにするよ』


その言葉だけで、修一は今日も生地をこねる。


生地をこねる音が、静かな店内にぽつぽつと響く。


こねるたびに、こはるの手の温もりが蘇るようだった。


彼女はいつも、修一の隣で笑っていた。


『修ちゃん、力入りすぎ。パンがびっくりしちゃうよ。もっと優しく、ね?』


その声が、今でも耳の奥に残っている。


修一は思わず手を止め、深く息を吸った。


「優しく、か」


呟いて、また手を動かす。


こはるがいた頃のように、丁寧に、優しく。


六時半。


店の前に、小さな影が現れた。


ガラス越しに見えるその姿に、修一は自然と口元が緩む。


毎朝やってくる少女――美咲(みさき)だ。


修一が扉を開けると、美咲はぱっと顔を輝かせた。


「おじさん、おはよう!」


「おはよう。今日はチョコパンでいいかい?」


「うん!」


美咲は笑顔でパンを受け取り、代金を置くと、ぺこりと頭を下げて走っていった。


その後ろ姿を見送りながら、修一はふと、こはるが子ども好きだったことを思い出す。


『子どもってね、あったかい手を求めるんだよ。大人よりずっと、ね』


こはるはよくそう言っていた。


美咲の笑顔を見るたび、その言葉が胸に蘇る。


「(あの子、最近よく来るな…)」


美咲が来るようになったのは、半年ほど前からだ。


最初は遠慮がちに店に入ってきて、パンを選ぶのにも時間がかかっていた。


今ではすっかり慣れた様子で、毎朝のようにチョコパンを買っていく。


修一は、少女の小さな背中を見送りながら、胸の奥にほんの少しだけ温かいものが灯るのを感じていた。


こはるがいなくなってから、ずっと空っぽだった場所に、ほんの少しだけ、色が戻りつつあるような気がした。




翌朝も、修一が店の明かりをつけると、外にはすでに美咲の姿があった。


ランドセルを背負ったまま、両手をポケットに突っ込んで、寒さに肩をすくめている。


「おじさん、おはよう」


「おはよう。今日も早いな」


「うん。お母さん、今日もお仕事で早く出ちゃったから」


美咲は言いながら、少しだけ視線を落とした。


その仕草が、修一の胸に小さな痛みを走らせる。


「チョコパン、焼きたてだぞ」


「やった!」


美咲は嬉しそうにパンを受け取り、両手で大事そうに抱えた。


その姿は、まるで宝物を抱えているようだった。


「おじさんのパン、あったかいね」


「焼きたてだからな」


「ううん。そうじゃなくて…なんか、気持ちがあったかくなるの」


その言葉に、修一は一瞬返事ができなかった。


胸の奥に、こはるの声がふっと蘇る。


『修ちゃんのパンってね、人の心をあったかくするんだよ』


こはるはよくそう言っていた。


そのたびに修一は照れくさくて、まともに返事ができなかった。


美咲はパンを抱えたまま、店の外をちらりと見た。


「行ってきます!」


「気をつけてな」


美咲は走り去り、ランドセルが揺れて小さな影が遠ざかっていく。


修一はその背中を見送りながら、ふと気づいた。


「(あの子、いつも一人だな…)」


学校へ向かう子どもたちの中に、親と手をつないで歩く姿はない。


美咲はいつも、ひとりでパンを買い、ひとりで学校へ向かっていた。




昼過ぎ、店が落ち着いた頃。


修一はふと、こはるとの会話を思い出した。


『ねぇ修ちゃん、子どもってね、寂しいときほど“あったかいもの”を欲しがるんだよ。大人は言葉でごまかせるけど、子どもは正直だからね』


こはるは、子どもを見るとすぐに気づく人だった。


泣きそうな顔、我慢している顔、甘えたい顔。


全部、見抜いてしまう。


「あの子、寂しいのかな」


修一は、こね台に手を置いたまま、ぽつりと呟いた。




その日の夕方。


店の前に、また美咲が立っていた。


今度はランドセルを背負っていない。


制服のまま、両手をぎゅっと握りしめている。


「どうしたんだ?」


修一が声をかけると、美咲は唇を噛んだ。


「お母さん、今日も帰れないって」


声が震えていた。


修一は胸が締めつけられるような感覚に襲われた。


「お腹、すいたか?」


美咲は小さく頷いた。


「ちょっと待ってな。温かいの、作るから」


修一は店の奥に美咲を座らせ、スープを温め、焼きたてのパンを皿に盛った。


美咲は遠慮がちに椅子に座り、やがて小さく「いただきます」と言って食べ始めた。


スープを一口飲んだ瞬間、美咲の表情がふっと緩んだ。


「おいしい」


「そりゃよかった」


「おじさんのパン、ほんとにあったかいね」


美咲はパンをちぎりながら、ぽつりと呟いた。


「お母さんの手みたい」


その言葉に、修一は胸の奥がじんと熱くなった。


こはるの手の温もりが、ふいに蘇る。


『修ちゃん、パンってね、手の温度が移るんだよ。だから、優しい人が作ると、優しい味になるの』


こはるはそう言って、修一の手を包んだことがあった。


その温もりは、今でも忘れられない。


「おじさん、どうしてパン屋さんなの?」


美咲は、ぽつりと尋ねた。


「どうして、か…」


修一は少しだけ入口を見た。


夕暮れの光が店内に差し込み、こはるの写真を淡く照らしている。


「…誰かの一日が、少しでも良くなるといいな、と思ってな」


「うん。わかるよ」


「わかるのか?」


「うん。だって、おじさんのパン食べると、朝ががんばれるもん」


その言葉に、修一は思わず笑ってしまった。


美咲は食べ終えると、少しだけ笑った。


「また来てもいい?」


「もちろんだよ」


美咲はぺこりと頭を下げ、店を出ていった。


扉が閉まると、店内は再び静寂に包まれた。


修一は、こはるの写真に目を向けた。


写真の中の彼女は、いつものように優しく笑っている。


「俺、ちゃんとやれてるか」


返事はない。


けれど、こはるの笑顔が「大丈夫」と言っているように見えた。


修一は写真に向かって、小さく呟いた。


「今日の分だけ…頑張るよ」


その言葉は、こはるがよく言っていたものだった。




翌朝。


修一が店の明かりをつけると、まだ薄暗い外に小さな影が立っていた。


美咲だ。


ランドセルを背負い、両手を胸の前でぎゅっと握りしめている。


「おじさん…」


声が震えていた。


修一は急いで扉を開けた。


「どうした、美咲」


「これ…」


美咲は小さな封筒を差し出した。


白い封筒は、少しだけ折れ曲がっている。


何度も握りしめた跡だ。


「おじさんに、読んでほしくて…」


修一は受け取り、店の中へ招いた。


美咲はいつもの席に座り、膝の上で手をぎゅっと握っている。


「読んでもいいか?」


「うん…」


修一は封筒を開け、便箋を取り出した。


拙い字で、丁寧に書かれている。


――――


おじさんへ


いつもありがとう。


おじさんのパンは、わたしの朝をがんばれる味です。


お母さんがいないとき、さみしいけど、おじさんのパンを食べると、がんばれるよ。


おじさんのお仕事は、わたしを助けてくれています。


だいすきです。


みさき


――――


読み終えた瞬間、修一の視界がにじんだ。


便箋の文字が揺れて、うまく読めなくなる。


「…美咲」


声が震えた。


美咲は不安そうに修一を見つめている。


「おじさん…泣いてるの?」


「…ごめんな。ちょっと、な」


涙がぽたりと落ち、便箋に小さな染みを作った。


修一は慌てて拭おうとしたが、美咲が首を振った。


「いいよ。おじさんの涙なら、いいよ」


その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


『修ちゃん、人はね、誰かの涙を受け止められるとき、強くなれるんだよ』


こはるの声が、ふいに蘇る。


病室で、弱々しい声で笑っていたあの日。


『あなたは優しいから、大丈夫。わたしがいなくても、きっと誰かをあったかくできるよ』


修一は、こはるの手を握り返したあの瞬間を思い出した。


細くなった指。


それでも、温かかった。


「…こはる」


思わず名前が漏れた。


美咲が不思議そうに首を傾げる。


「おじさん?」


「あぁ、すまん。ちょっと昔のことを思い出してな」


修一は便箋をそっと折り、封筒に戻した。


まるで宝物を扱うように。


「美咲、ありがとう。こんなに嬉しい手紙をもらったのは…初めてだ」


美咲は照れくさそうに笑った。


「おじさん、これからもパン作ってね」


「もちろんだ」


「わたし、毎日買いに来るから!」


「毎日か。そりゃあ、頑張らないとな」


美咲は笑い、パンを受け取って学校へ向かった。


その背中を見送りながら、修一は胸の奥に灯る温かさを感じていた。


こはるがいなくなってから、ずっと空っぽだった場所に、


確かな光が差し込んでいる。


修一は写真立てに目を向けた。


こはるの笑顔が、いつもより少しだけ近く感じる。


「ありがとう。お前の言った通りだ。俺のパンで、誰かが救われてる」


写真の中のこはるは、何も言わない。


けれど、微笑みが「よかったね」と語っているように見えた。


修一は深く息を吸い、粉袋を抱えた。


「今日の分だけ…頑張るよ」


その言葉は、こはるが生前、毎日のように言っていたものだった。



美咲が手紙を渡してくれた翌日。


修一は、いつもより少し早く目を覚ました。


胸の奥に、昨日からずっと灯り続けている温かさがあった。


店に向かう道すがら、ふと空を見上げる。


薄い雲の向こうから朝日が差し込み、街をゆっくりと照らし始めていた。


その光は、どこかこはるの笑顔に似ていた。


店に着き、明かりをつける。


粉袋を抱え、作業台に立つ。


いつもの朝と同じはずなのに、どこか違う。


こね台に手を置いた瞬間、修一は気づいた。


「(…あぁ、そうか)」


自分はずっと、こはるの味を追いかけていた。


こはるがいなくなってから、彼女の代わりをしようとしていた。


でも、美咲の手紙を読んだとき、胸の奥で何かがほどけた。


『おじさんのパンは、わたしの朝をがんばれる味です』


あれは、こはるの味ではない。


修一自身の味だ。


こはるの影を追うのではなく、こはるが愛した“修一のパン”を焼けばいい。


修一は深く息を吸い、生地に手を伸ばした。


「よし。今日の分だけ、頑張るか」


その言葉は、こはるが生前、毎日のように言っていたものだった。


生地をこねる手が、いつもより軽い。


湯気が立ち上り、店内に温かい香りが広がっていく。


こはるが隣で笑っているような気がした。




六時半。


扉の前に、美咲が立っていた。


今日はいつもより少しだけ明るい表情をしている。


「おじさん、おはよう!」


「おはよう。今日は特別に、焼きたてだぞ」


「ほんと!?」


美咲は嬉しそうにパンを受け取り、頬をほころばせた。


「ねぇ、おじさん」


「ん?」


「わたし、大きくなったら…パン屋さんになりたい」


修一は思わず手を止めた。


「パン屋さん?」


「うん!おじさんみたいに、誰かを元気にできるパンを作りたいの」


胸の奥が熱くなる。


涙がこみ上げてくるのを、必死にこらえた。


「…そっか。いい夢だな」


「うん!」


美咲はパンを抱え、学校へ向かって走り出した。


その背中は、昨日よりずっと軽やかだった。


美咲が見えなくなった頃、店の前にもう一人の影が立った。


スーツ姿の女性。


美咲の母親だった。


「あの…すみません。佐伯さんですよね」


「はい。美咲ちゃんのお母さんですか」


女性は深く頭を下げた。


「娘が…いつもお世話になっているようで。本当に、ありがとうございます」


「いえ。こちらこそ、元気をもらっていますよ」


女性は目を潤ませながら言った。


「仕事が忙しくて…娘に寂しい思いをさせてばかりで。でも、娘が“パン屋さんに行くと元気になる”って…」


修一は静かに頷いた。


「美咲ちゃんは、頑張り屋さんですよ」


「ありがとうございます」


女性は何度も頭を下げ、去っていった。


その背中を見送りながら、修一はふとこはるの写真に目を向けた。


写真の中のこはるは、いつものように優しく笑っている。


「…見てるか、こはる」


修一は写真に向かって、そっと呟いた。


「お前の言った通りだ。俺のパンで、誰かが救われてる。…ありがとうな」


写真は何も言わない。


けれど、微笑みが「よかったね」と語っているように見えた。


修一は涙を拭い、粉袋を抱えた。


朝の光が店内に差し込み、生地の上に柔らかい影を落とす。


その瞬間、ふいに耳の奥で声がした気がした。


『今日の分だけ、ね』


こはるの声だった。


振り返っても誰もいない。


けれど、確かに聞こえた。


修一は静かに微笑んだ。


「…あぁ。今日の分だけ、頑張るよ」


そう言って、生地に手を伸ばした。


誰かの朝を支えるために。


誰かの心を温めるために。


そして、自分自身が前に進むために。


パン屋「こはるベーカリー」に、今日も温かい香りが満ちていく。




END

読んでいただきありがとうございます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
今日の分だけがんばる、素敵な言葉ですね。 頑張り続けるのはなかなかに大変だけど、今日の分だけなら。 佐伯さんの優しさがパンを通じて美咲ちゃんにも届いてるんだなと思いました。 そしてすっかりパンが食べた…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ