「だから言ったろ」という言葉
「だから言ったろ」とは、よく言ったものだ。
数多の戯言を並べておけば、そのうちの一つはいつか現実に触れる。
そうして人は、いかにも見通していたかのような顔で、その言葉を放つことができる。
それで、人は勝ち誇ることができるのだろうか。
動画サイトには、無数の予言が溢れている。
来月の暴落、来年の震災、某国の崩壊、著名人の失脚。
広く、曖昧に、あるいは異様に具体的に。
それらの大半は忘れ去られる。
外れた言葉は記憶に残らない。
だが、たった一つでも符合すれば、その瞬間に切り取られ、拡散される。
「ほら、言った通りだ」と。
人は結果だけを見る。
なぜ当たったのかを問わない。
それが統計的な必然なのか、偶然の一致なのか、
無数の失敗の中の一つなのかを検証しない。
ただ「当たった」という一点に、意味を与える。
その瞬間、偶然は運命へと姿を変える。
推測は啓示となり、発言者は預言者へと昇格する。
そして不思議なことに、的が小さければ小さいほど、価値は跳ね上がる。
偶然の幅が狭いほど、奇跡の濃度は増す。
やがて人はそれを能力と呼び、
超能力や神の声と名付ける。
しかし、その本質は何なのだろう。
ハッタリかもしれない。
鋭い観察かもしれない。
あるいは、ただの確率の収束かもしれない。
いずれにしても、そこに「真理」が宿ったと断言する根拠はない。
にもかかわらず、人はそこに真理を見出す。
正確には、見出してしまう。
人は事実を求めているのではない。
意味を求めているのだ。
適当に買った宝くじの当選者よりも、同じ番号を買い続けて宝くじに当たった人間の方が印象的に映る。
出来事が偶然であることよりも、
そこに意図や秩序があると信じるほうが、世界は理解しやすい。
この構造は、動画サイトの中だけの話ではない。
世界にある宗教も同じ構造ではないだろうか。
預言、奇跡、啓示。
それらもまた、選び取られた出来事に意味を与え続けた歴史なのかもしれない。
もちろん、そこに真理がないと断じることはできない。
だが、真理があると証明することもできない。
それでも人は、信じる。
あるいは人は、真理を発見しているのではない。
真理が存在すると信じられる構造を、自ら作り上げているのかもしれない。
もしそうだとしたら──
「だから言ったろ」という言葉は、
未来を言い当てた証ではない。
偶然に過ぎなかった出来事に、
必然だったという意味を与えるための言葉なのだろう。




