第五話 南への商路、北への道 ― 商人として
交州城を発ったのは、
中平四年(187年)の夏の初めだった。
父の繋がりで紹介されたのは、
海沿いに根を張る南方の商人――
漢人とも、南蛮ともつかぬ顔立ちの男だった。
「海の向こうの物は、
話半分で聞け」
そう言って笑いながらも、
彼の倉には、
交州では見慣れていても、
中原では珍しい品が揃っていた。
桂皮。
沈香。
南方の山で採れた薬草。
香木を薄く削ったもの。
どれも軽く、
だが、銭に換えれば重い。
拙者は、それらを買い付けた。
行き先は、
治安がまだ良いと聞いていた
長沙、そして襄陽。
戦の匂いは北に濃く、
だがその分、
物の価値は上がっている。
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隊商といっても、大層なものではない。
荷を積んだ駄馬数頭と、
雇った護衛が数人。
それでも、
道は決して穏やかではなかった。
中原から流れてきた流民。
行き場を失った敗残兵。
そして――
黄賊の残党。
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それは、
山道に差しかかった頃だった。
藪が揺れ、
怒声が上がる。
護衛が構えるより早く、
矢が飛んだ。
「賊だ!」
数は多くない。
だが、覚悟が違う。
――まずい。
そう思った、その時。
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一人の武人が、前に出た。
大柄で、
無駄のない動き。
弓を引く音が短く響き、
一本、また一本。
黄賊が、崩れる。
剣を抜けば、
間合いに入った賊が倒れる。
あっという間だった。
残った賊は、
山に逃げ込んでいった。
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しばし、静寂。
拙者は、深く息を吐き、
その武人に向き直った。
「……黄賊残党に襲われ、
危ういところを助かり申した」
「見れば、剛勇の御仁と心得ます」
「よろしければ、
お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」
武人は、少しだけ困ったように笑った。
「黄賊には、ワシも悩まされておる」
「何せ、ワシも姓は黄でな。
賊どもと同じにされては、たまらん」
そう言って、名乗る。
「黄忠。
字は漢升じゃ」
その名を、
この時、拙者はただ覚えただけだった。
後に――
幾度となく耳にすることになるとは、
まだ知らずに。
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黄忠は、それ以上語らなかった。
「この辺りは、
しばらく賊が出る」
「気をつけて行け」
それだけ言うと、
再び山道へ消えていった。
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隊商は、再び歩き出す。
荷は無事だ。
人も、欠けていない。
だが。
(……世は、確実に変わっている)
香を運ぶだけの商いでも、
剣を抜く武人と交わる時代。
拙者は、
荷の中の桂皮を見た。
(これが、
ただの香りで終わるか――
それとも、
人を生かす道に繋がるか)
その答えは、
まだ先にある。
まずは、
長沙へ。
余談ですが、
黄巾賊は史料によって
「黄賊」「黄匪」など、呼び方がまちまちです。
ふと思うのですが――
姓が「黄」の人たちは、
なかなか肩身が狭かったのではないでしょうか。
実際、当時も
黄祖のように地位が高ければ別ですが、
そうでなければ
冗談半分、あるいは罵倒として
呼ばれることもあったのでは、と思います。
作中で黄忠が
少しだけ苦笑するのは、
そんな時代背景を踏まえた小さな遊びです。




