第四話 交州城 ― 南の静けさ
ここで、
ようやく主人公が登場する。
名は――士元。
もっとも、
後に「鳳雛」と呼ばれる
龐統士元とは、まったくの別人である。
こちらの士元は、
交州に根を張る士家の庶子。
正妻の子ではない。
家督を継ぐ予定もない。
武名も、官位も、学名すらない。
史書に名が残る理由が、
最初から存在しない人物だ。
正史にも、注釈にも、
この士元の名は記されていない。
つまり――
はじめから、歴史に数えられていない存在である。
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だが。
この士元には、
一つだけ決定的に違う点があった。
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Systemを介して、
生成された士元に、
YOUは同期した。
それは、魂の乗っ取りではない。
完全な支配でもない。
記憶と感覚、
そして「結果」だけを共有する、
不完全な接続。
YOUは士元であり、
同時に士元ではない。
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龐統士元は救えなかった。
歴史固定点は、
何度試しても揺るがなかった。
だからSystemは、
別の解を提示した。
――英雄を救えぬなら、
――英雄が欠けた後を埋めよ。
史書に載らぬ者。
運命を持たぬ者。
因果に縛られぬ者。
その条件を満たしたのが、
この交州士家の庶子――士元だった。
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英雄ではない。
天才でもない。
選ばれた血筋ですらない。
ただ、
「空いていた場所」に
押し込まれただけの存在。
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だが、だからこそ。
この士元には、
歴史固定点が存在しない。
決められた死もない。
成さねばならぬ偉業もない。
失えばならぬ役割もない。
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史書に書かれぬ者が、
史書の行間を埋める。
龐統の代わりではない。
英雄の影でもない。
これは、
記録されなかった者の物語だ。
そして同時に――
YOUが選んだ、もう一つの三国志でもある。
時は中平四年。(187年)
交州城は、いつもより静かだった。
北では黄巾が燃え、
――そう聞かされてから、すでに二年が経つ。
中原では大戦が一段落しつつあるとも、
いや、まだ各地で賊徒が蠢いているとも、
噂は日ごとに形を変えて届いていた。
確かなことは一つだけだ。
漢の命が、以前ほど遠くまで届かなくなっている。
だが南は、まだ遠い。
少なくとも、戦火そのものは届いていない。
その「遠さ」こそが、
我ら士家の命綱でもあった。
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「父上、兄上」
拙者は一歩前に出て、頭を下げた。
「私は、庶子の上に末子にございます」
士燮――父は、黙ってこちらを見ている。
兄・士壱も、腕を組んだまま口を挟まない。
「一官吏として、
士家のために尽くす道もありましょう」
「されど」
拙者は言葉を選びながら、続けた。
「黄巾賊徒の乱により、
中原はすでに大きく揺れました」
「官軍が鎮圧したと申しても、
流民は溢れ、
敗残の兵は各地を彷徨っております」
「都の命が届かぬ土地が増え、
力ある者が、
勝手に名を掲げ始めているとも聞きます」
「この先、
ただ官に連なっているだけでは――
士家そのものが、
流れに呑まれかねませぬ」
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士壱が、低く息を吐いた。
「……それで?」
拙者は、はっきりと答えた。
「我ら士家の生存戦略を、
官とは異なる形でも
用意すべきかと存じます」
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「幸い、
私の母は庶民の商家の出でございます」
「銭の流れ、
物の流れ、
人の流れ――
それらを、幼い頃より見てまいりました」
「ゆえに」
拙者は、顔を上げる。
「交州を離れ、
荊州に居を移し、
隊商貿易にて身を立てたいと存じます」
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「官ではなく、商か」
士燮が、初めて口を開いた。
声は低く、
だが怒りはない。
「名を捨てることになるぞ」
「承知しております」
「士家の名を前に出すつもりはございませぬ」
「ただ――
士家が倒れぬよう、
別の足場を用意したいのです」
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しばし、沈黙。
城外から、
商人たちの荷車の音が、かすかに聞こえた。
それは、
すでに中原から人と物が流れ始めている証でもあった。
士燮は、ゆっくりと目を閉じ、
そして、開いた。
「……荊州か」
「道は遠い。
だが、乱世では
遠い方が、生き残ることもある」
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士壱が、ちらりとこちらを見る。
「兄としては、
危ない橋だと思うがな」
「だが」
「末弟が、
官の椅子を奪い合うよりは――
まだ、ましだ」
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父は、短く頷いた。
「よい」
「行け」
「金は出す。
だが、名は使うな」
一拍、間を置いて、
士燮は言葉を継いだ。
「士の姓は名乗れ」
「だが、交州の士家を売り物にするな」
「分家として生きよ」
「困っても、
士家を盾にするな」
「――生き残れ」
それだけだった。
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拙者は、深く頭を下げた。
「……御意」
こうして、
士家の末子は、
中平四年の春、官の道を外れた。
拙者が士元として、
最初の一歩を踏み出したのである。




