第十七話 落鳳坡 ― 生き残った戦
落鳳坡――
名だけは、前から知っていた。
険しい谷。
左右は切り立った岩壁。
馬を並べて進むには、あまりにも狭い。
「道が悪いな」
誰かがそう言ったらしい。
後から、報告書で読んだ。
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奇襲は、
一瞬だった。
前からではない。
上だ。
矢は、
音よりも早く降ってきた。
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「伏兵だ!」
叫びが上がり、
隊列が乱れる。
前へも、
後ろへも、
逃げ場はない。
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龐統は、
馬上にいた。
軍師でありながら、
前に出すぎだ――
そう評する者もいた。
だが、
その判断は、
すでに意味を失っていた。
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矢が飛ぶ。
一矢。
二矢。
そして――
三矢目。
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胸を狙ったそれは、
本来なら、
確実に命を奪う角度だった。
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だが。
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乾いた音がした。
鈍く、
しかし、確かな手応えのある音。
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矢は、
胸に届かなかった。
正確には――
届く前に、止められた。
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瓢箪が割れた。
水が散り、
破片が舞う。
だが、
矢の勢いは、
そこで殺されていた。
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金細工の紐飾り。
そこに収められていたものが、
衝撃を受け止めていた。
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雀譜。
最終局。
記録された、
ただ一局分の遊び。
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それが、
矢を逸らした。
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龐統は、
馬上で大きくよろけたが、
落ちなかった。
血は、
出ていない。
胸を押さえ、
一瞬、
何が起きたのか理解できない顔をしていた。
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次の瞬間。
「下がれ!!」
声が、
谷に響いた。
龐統自身の声だった。
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混乱の中で、
部隊は引いた。
完全な成功ではない。
だが、
壊滅でもない。
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落鳳坡で、
龐統は死ななかった。
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それを知った時、
拙者は――
膝から力が抜けた。
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「……生きている?」
何度も、
同じ文を読み返した。
誤報ではない。
誇張でもない。
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生存。
軽傷。
戦線離脱。
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理屈は、
後からいくらでも付けられる。
偶然。
運。
奇跡。
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だが、
拙者には分かっていた。
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あれは、
偶然ではない。
遊びでもない。
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記録だ。
残されたものが、
命を拾った。
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史は、
変わっていない。
落鳳坡は、
依然として凶地だ。
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だが――
一人だけ、
そこから零れ落ちた。
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龐統士元は、
ここで死ななかった。
本来ならば、
ここで終わっていた名だ。
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そして、
拙者は悟る。
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歴史は、
一点では変えられない。
だが、
零すことはできる。
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その代償が、
どこへ向かうのか。
この時は、
まだ分からなかった。




