第十六話 落鳳坡前夜
益州遠征は、
静かに始まっていた。
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戦は、
必ずしも刃から始まるわけではない。
山道の選定。
城への使者。
糧秣の再配分。
そうしたものが積み重なり、
気づけば軍は、
深く益州の内へ入り込んでいた。
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拙者は、
前線にはいなかった。
常に本営寄りで、
書付と算木に囲まれていた。
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一つ終えれば、
次が来る。
それを処理すれば、
また別の名が呼ばれる。
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戦の全体は見えない。
見えるのは、
数字と、紙と、
人の疲労だけだ。
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龐統の名は、
報告の中に何度も出てきた。
険路を避けた。
敵を誘った。
進みを遅らせた。
どれも、
「正しい」としか言いようのない内容だった。
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だが、
彼と直接言葉を交わす機会は、
ほとんどなかった。
同じ軍にいながら、
立っている場所が違う。
それだけのことだ。
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ある夕刻。
帳の中で、
未整理の書付をまとめていた時だった。
外が、
ざわついた。
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駆け足。
伝令。
声が、
少し震えている。
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「士元様――」
その呼び方に、
嫌な予感が走る。
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「落鳳坡にて――」
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その先を、
拙者は聞かなかった。
聞かなくても、
理解してしまったからだ。
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奇襲。
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拙者は、
報を受け取ったまま、
しばらく立ち尽くした。
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――まだだ。
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まだ、
終わっていないはずだ。




