第九話 通過 ― 戦の外側
襄陽を発った朝は、
不思議と静かだった。
売るべき物は売り、
買うべき物は揃えた。
だが――
まだ、腰を据える時ではない。
拙者は、
そう判断していた。
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帰路は、水路を選ぶ。
長沙を経て、
交州へ戻る。
道中に、
特筆すべきことはない。
賊にも会わず、
船足も乱れぬ。
ただ、
長沙が近づくにつれ、
船頭の口数が減った。
「……この頃は、
太守様が、
城におられることが多くてな」
それだけで、
十分だった。
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港に着くと、
市は普段通り動いている。
荷は運ばれ、
商いの声もある。
だが、
城の方角だけは、
どこか静かだった。
拙者は、
形式通り、
入城の先触れを出した。
「交州よりの商人、
帰路にて長沙を通過」
余計な文言は、
添えない。
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ほどなく、
使いが来た。
「太守様より、
一度、顔を見たいとのこと」
断る理由はない。
拙者は、
持ち込んだ荷の中から、
一包みを選んだ。
南方の香。
ごく少量。
珍品というほどではない。
だが、
城の用に出しても、
差し障りのない品だ。
(……商人の礼だ)
それ以上でも、
それ以下でもない。
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城の広間は、
簡素だった。
人の数も、
言葉も、
必要最小限。
中央に座すのは、
孫堅。
鎧は着けていない。
剣も帯びていない。
だが、
場の空気は、
よく締まっている。
拙者は一礼し、
包みを差し出した。
「道中のご挨拶として、
南方の香を少々」
「通行の礼にございます」
孫堅は、
包みを一瞥しただけで、
受け取らせた。
「よい」
それだけだった。
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「交州の商人か」
「は」
「襄陽からの帰りと聞く」
「商いを終え、
戻る途中にございます」
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孫堅は、
それ以上、踏み込まなかった。
「長沙では、
用はないか」
「今は、
通るのみでございます」
「ならば、
それでよい」
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恩賞はない。
引き留めもない。
約束もない。
ただ、
礼を受け、
通過を確かめただけ。
商人が城に入る理由としては、
それで十分だ。
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謁見は、
短く終わった。
拙者は一礼し、
城を出た。
城門を抜けると、
市の音が、
少しだけ近くなる。
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その日のうちに、
船は出た。
長沙には、
まだ何も置かない。
ここは、
今はただの通過点だ。
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船が流れに乗る。
拙者は、
川面を見つめながら思った。
(……いずれ、
ここにも役割は生まれる)
だが、
それは今ではない。
今はただ、
流れを覚えるだけでいい。
交州は、
もう近い。




