理不尽な説教
喫茶店のテーブルを囲んで、依頼人をはじめ数人がちょうどひと息ついていた頃、桐原惣介がすっと顔を上げた。
まるで空気が変わったように、店内のざわめきが小さくなる。
彼の視線が、店の一角ではなく、もっと別の場所――いや、誰かを見据えているようだった。
「そこにいる奴ら、あんたらさ」
突然、桐原は声を張る。
誰に向けての言葉か分からないが、その響きははっきりとした挑発を含んでいる。
「俺が ‘探偵’ って肩書きだからって、事件を華麗に解決してくれるのを期待してるんだろう? そんなもん、小説の中だけだっての。お前ら、変に夢見てるよな」
その物言いに一瞬、店内の空気がぴたりと止まる。
依頼人やマスター、常連客たちだけでなく、まるでこの場を超えた“読者”にも向けられているような挑戦的な台詞だった。
マスターが「先生、どうしたんですか?」と穏やかに声をかけるが、桐原は彼を振り払うように続ける。
「探偵が大活躍して、事件がすっきり解決する――確かに小説じゃよくある話だ。行き詰まる捜査を名探偵がひとりでひっくり返す、とかな。お前ら、そういう展開に慣れきってるんじゃないか? でもそれはあくまで物語の都合ってやつなんだよ。現実じゃ通用しない」
口調はどこか芝居がかったようでありながら、語気は荒々しい。
まるで長年抱えてきた鬱憤を吐き出しているかのようだ。
依頼人の青年は苦々しい表情で口を挟む。
「先生、ぼくは先生を頼ってるんですよ。被害者はぼくの大事な友人でした。だからこそ、先生の知識や洞察力を信じたいんです。現実では難しいかもしれないけど、少しでも――」
「甘いね」
桐原は机をトントンと指先で叩いた。
「全部思い通りになると思ってんじゃねえよ。警察っていうちゃんとした組織があるだろ? 俺みたいな探偵がわざわざしゃしゃり出る必要なんかないんだよ。自分の力でどうにかしようとしてる時点で、考えが甘い。俺が言うのもなんだけどな」
青年は言葉を失う。
あまりの言い草に、店の常連客たちも微妙な顔で見守っている。
「じゃあ、先生の仕事って何なんですか? 探偵って、事件を解決するのが役目なんじゃ……」
青年の声がかすれる。
「さあね。現実の探偵なんて、浮気調査が主な稼ぎどころだよ。たとえば ‘夫の様子がおかしいから調べてほしい’ だの ‘会社の不正をこっそり証拠つかんでほしい’ だの、せいぜいそんなもんだ。今回みたいな殺人事件に ‘私立探偵’ が絡むケースは稀だし、そもそも連絡を受けたとしてもどこまで首を突っ込めるかは不明だろ? 警察権力には逆らえないし、費用やリスクだって高い」
投げやりな声色に、青年の頬が引きつる。
頑なに何かを拒んでいるのか、それとも本気で言っているのか分からない。
すると、常連客のひとりが顔をしかめつつ口を開く。
「ところで、先生は本当に ‘探偵’ の免許を持ってるんですか? 前からその話、曖昧だったように思うんですけど」
その瞬間、店内にひんやりとした緊張が流れる。
実は誰もが気になっていた疑問だが、ハッキリ言われると桐原はどう答えるのか。
「免許なんざ形式的なもんだろ」
桐原は気にも留めない風だった。
「俺は ‘探偵’ を名乗ってる。むしろ、警察が動いてる以上、免許のあるなしなんて関係ねえよ」
あまりにぞんざいな返しで、依頼人の青年がついに声を荒げる。
「関係あるに決まってるじゃないですか! こんな重大な事件なのに、先生が本物の探偵かどうかって重要ですよ。安心して任せられなくなります」
すると桐原は、ひどく冷たい目を向けた。
「そうやって何でも ‘任せる’ とか ‘やってもらう’ とか、期待ばっかりしてるんじゃないよ。現実は厳しいんだ。探偵が免許持ってようが持っていまいが、事件はお前の思い通りには動かねえ。もっとも、警察が頑張ってくれてる間は俺に用はないってことだ。俺は俺のペースでやる。分かったか?」
言い切ってしまえば強烈な説得力――というより、もはや高圧的な押し切りだ。青年は唇を噛むしかない。
マスターが見かねて声を上げる。
「先生、言い方がきついですよ。依頼人さんも気持ちが追いつかないんじゃないですか?」
「必要以上に寄り添う義務はないね。こっちは民間人なんだから。そもそも警察と違って ‘事件に関わりたい’ と本気で思うわけでもない。特に大きい事件ほど、探偵がのこのこ入っていくと面倒事が増えるのは常識だ。変に動いたら ‘捜査の妨害になるから手を引け’ って怒られるのが落ちなんだよ」
その言葉に、店の客たちはひそひそと視線を交わす。
たしかに現実的な部分はあるが、あまりにも冷たい――どころか、開き直ったようにも見える。
それでも青年は諦めきれないとばかりに、少しだけ声を震わせながら迫る。
「先生、友人が殺されたんです。それでも ‘知らない’ って言うんですか? 正直、先生はやたらミステリーに詳しいし、いざというときには本格推理を発揮してくれるんじゃないかと――」
「期待しすぎだ。探偵小説じゃないんだ、ここは。俺は警察の手下じゃないし、あんたの下僕でもない。動く時は俺が判断する。結果を急ぎたいなら、自分で動くか、警察に頼み込めばいい」
その言葉がトドメの一撃となったのか、青年は肩を落として言葉を失う。
周囲にもため息が落ちる気配があった。
「探偵小説? いや、俺はミステリーは大好きだけど、現実にはなかなか通用しない。どんなに素晴らしいトリックだろうと、警察が踏み込んで証拠を押さえりゃ一発だろう? いちいち ‘謎解きショー’ なんて必要ないってことさ」
そこまで言い切って、桐原は淡々と席を立つ。
まるで説教を披露するためだけに店へやってきたかのような振る舞いだ。客席からは何ともいえない緊張感が漂っている。
明らかに、喫茶店の温かい雰囲気は断ち切られてしまった。
マスターすら気まずい表情でカウンターを拭いている。青年は悔しそうに拳を握ったまま、桐原を睨みつける。
「先生が動かなくても、誰かが解決してくれるって思ってるんですね」
「かもな。世の中、大抵のことは誰かがやってくれるもんさ。だからこうして成り立ってる。さ、俺は行くわ。あんまりしつこいと ‘探偵’ である俺が怖いぞ?」
投げやりな言いぶりに、店内の誰もが反論できない。
そもそも依頼人は金銭面での契約を交わしてしまっているし、周囲がとやかく言う権利はない。
桐原は彼らの沈黙を背に、ドアを開けて出て行く。
後に残ったのは、不穏な空気と青年の疑問だけだ。
「あんな強がりを言ってるけど、本当に探偵なのか……? 免許も持ってないんじゃ……」
彼はぽつりと呟く。誰も否定しない。
むしろ、それこそみんなが感じていた“何かヘン”な雰囲気を、今さらのように口に出したにすぎなかった。
桐原が実際に何者なのか――それを知る手がかりは、今のところほとんどない。
事務所の場所さえ明かさず、免許の話もはぐらかし、警察の捜査には完全に委ねると言う。
周囲は、そのあまりの説教ぶりと投げやりな態度に呆れかえっているが、逆に一部の客はこう思っているのかもしれない。
「あれだけ強気で説教できるんだから、きっと何か裏があるに違いない」と。
果たして、桐原がひとり勝手に決めつけた“現実には探偵が動く必要なんかない”という説が正しいのかどうか――それを知るためにも、青年は行動を起こすか、それとも警察を頼るしか道はないのだろうか。
もはや彼が望む “本格推理” という救世主の登場は期待薄としか言いようがない。
そんな中で、桐原はまだ何かを隠しているようにも見えるし、単なる無責任な男なのかもしれない。
どちらにせよ、この一方的な説教で、依頼人の不安はさらに増幅された。
探偵としての職能どころか、免許を持っているのかも怪しい。
ならばなぜ、ミステリー小説さながらの博識を披露していたのか――疑問ばかりが渦を巻く。
青年の視線は、さっき桐原が出て行った扉を睨みつけてやまなかった。




