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曖昧な探偵の足取り

 昼下がりの風が、喫茶店の窓辺を揺らしていた。

町のメインストリートから一本外れた細い路地にある小さな店は、昼前から常連客でそこそこ賑わっている。

コーヒー豆の香りが漂うカウンター席の端に、桐原惣介は当たり前のように腰を下ろしていた。


 マスターが軽く会釈する。

「いつもの?」と問うまでもなく、桐原の前に深煎りコーヒーが静かに置かれる。

「助かるよ。今日は朝からいろいろあったからさ」

 桐原はちらりと時計を見る。

昨夜の殺人事件を連想させるような湿っぽい空気は、彼の声色からは一切感じられない。

「前に言ってた事件ですね?」とマスターが小声で尋ねる。

「まあ、事件なんてのは警察の管轄だから。俺は口出しするほどの余地もないし、下手に動いて怒られても嫌だからね」

 そう言いながらも、桐原の表情にはどこか余裕が漂っている。


 隣のテーブルでは、常連らしい客たちが新聞を開いていた。

そこには昨夜の殺人事件の見出しが大きく載っている。

だが桐原はそちらに目を向けることなく、コーヒーに口をつけた。マスターが少し苦笑しつつ声をかける。

「警察に全部任せるんだ、探偵さんなのに?」

「俺は民間の立場だしさ。大きな事件は警察が動くに決まってるでしょ」

 その物言いに、カウンター越しの二人組のうち一人が、ちらっと桐原の横顔をうかがう。

何か言いたげだが、声には出さない。桐原はそれを気にする様子もなく、言葉を続ける。

「探偵って言ってもさ、実際にはごく普通の調査とか相談を受ける方がメインなんだよ。派手に解決してるように見えるのは小説の中だけで、現実はこんなもん。警察が優秀なんだよ」


 すると、もう一人の客が思い出したように話しかけてきた。

「でも、先生は詳しいんですよね? ミステリー。たしか先週は海外本格について熱く語ってましたよね」

「おお、そうそう。俺は倒叙モノが大好物でね。倒叙モノってわかる? 先に犯人が分かってる状態から、いかに刑事や探偵がその犯人を追いつめるかを描く手法。コロンボが有名だけど、似た系統で見応えのある作品は意外と多いんだ。例えば海外ならダニングの〈書斎の事件簿〉シリーズの一部も、倒叙的な視点が取り入れられててね。日本の作品だと横溝正史も倒叙に近い短編を試みてたりするし……」

 そう言いながらも、桐原の手元のコーヒーはほとんど減らない。

話すスピードの方が速いせいだろう。

隣の客が「へえ、さすがに詳しいなあ」と舌を巻く。


 そこへ、あの青年――被害者の友人である依頼人が、急ぎ足で入ってきた。

「桐原先生、ここにいたんですね。連絡がつかなくて、どこにいるのかと……」

「ああ、電話に出られなくて悪い。さっきはちょっとね」

 桐原は言いかけたまま、ちらりとポケットのスマホに目をやる。

つい数分前に、誰かと短い通話をしていたらしい。

青年が、「なにか捜査協力を頼んでいるんですか?」と問いかけると、桐原は首をすくめてみせた。

「まあ、そんな感じ……かもね。まだそっちは大丈夫だって言われたんで、焦ることもない。現場も警察が頑張ってるんだろうし、俺がしゃしゃり出るのもどうかと思ってさ」

「そ、そうなんですか。でも、声の感じからすると警察っぽくなかったような……」

「気にしなくていいよ。いろいろ事情があるんだ」


 言葉がやけに曖昧だった。

青年はそれを深追いすることなく、カウンター席の後ろに立ったまま眉をひそめる。

「実は、そろそろ被害者の交友関係とかも洗っていただけないかと思いまして。僕自身が調べようにも限界があって……」

「大丈夫、大丈夫。警察に任せときゃいいよ。必要になったら動くから」

「でも、こんなに大きい事件ですし、早く解決しないと――」

「それをやるのが警察だろ? ふつうに考えてさ。市民は市民の生活をしてればいいんだ。探偵だって万能じゃない」

 桐原の言い方はどこまでも投げやりで、青年の表情には焦りと戸惑いが入り混じっている。


 マスターが気を利かせたのか、青年にオレンジジュースを差し出した。

「まあ、落ち着いて。先生はミステリーに詳しいから、頭の中ではちゃんと推理してるんじゃないか?」

「俺は基本的に ‘読む専’ だからね」と桐原がにやりと笑う。

「ミステリー好きっていうのは、いわば歴史研究家みたいなものさ。いろんな資料――つまりは小説――を読み漁って知識を溜め込む。でも現実の事件は、そうそう小説通りにはいかないから難しいよ。日本の新本格ミステリーだって、綾辻さんの〈館シリーズ〉や島田荘司の御手洗潔シリーズとか、すごく斬新なトリックばかりだろ? 実際にあんな大掛かりな仕掛けが用意されることって、そう滅多にないわけでさ」


 言われてみれば、青年も思い出す。たとえば綾辻行人の『十角館の殺人』に登場した真相や、島田荘司『占星術殺人事件』での大胆すぎる謎。

どちらも現実離れした巧妙な手口で、読んでいて面白いが、まさかリアルでそんなことが起きるとは想像しづらい。

とはいえ、現実の事件は現実として存在する以上、誰かがそれを解決しないことには被害者が浮かばれない。


「でも先生、何もしなくて本当にいいんですか? 被害者は先生の話術を聞いてたら、さぞや心強かったと思うのに……」

「それを決めるのは俺じゃなくて警察だよ」


 青年は食い下がろうとしたが、桐原は一瞥をくれるだけでコーヒーを口に運んだ。飲み干すまでのわずかな沈黙が、青年にとってやけに長く感じられる。


 一方、店の奥で新聞を読んでいた客たちは、ミステリー談義そのものに興味津々のようだ。

桐原の語る「海外倒叙モノの歴史」「日本新本格の革新性」など、聞いていて飽きるどころか、もはや講座のような空気すらある。

「いやー、本物の探偵ってのは、やっぱり違うねえ……」などと感心する声が漏れてくる。青年自身も、最初はそのひとりだったのだ。

 けれど、この曖昧な態度のままじゃ事件は進まない――そんな不安が頭をもたげる。

何よりも被害者を知る人間として、警察を全面的に頼るだけでは落ち着かないのだ。


 桐原のスマホが再び震える。その画面をちらりと見て、彼はそそくさと席を立った。

「悪い、ちょっと出るわ」

 電話に出ながら小さく手を振って、店の外へ出ていく。

その背中は、一体どこへ向かうのか――青年はそれを目で追ったが、ガラス扉の向こうで桐原がなにやら誰かと話している様子が見えるだけだった。

「……いや、まだそっちは大丈夫……うん……」

 そんな言葉がガラス越しにも聞こえてくる。「そっちは大丈夫」ってなんだろう。警察相手の会話にしては妙にフランクな口調だし、かといって探偵仲間や依頼先の人物とは思えない響きでもある。

青年は胸の奥に小さな違和感を覚えた。


 数分後、桐原は素知らぬ顔で戻ってきた。

「いやー、すまんね。大事な用事でさ」

「どこかに捜査協力を頼んでるんですか?」と青年は問いかける。

「ああ、そういうの……かもね。へへっ」

 なにやらはぐらかすように笑う桐原を前に、青年は結局何も言えなくなる。

 この人はただ飄々とした態度のだけの名探偵なのか、それともどこかに協力者を持っているのか。

そんな疑念がふっと浮かんでは消える。


 青年は意を決して、もう一度問うことにした。

「そろそろ、被害者の友人関係とかを聞き取り調査していただきたいんですが。なにか事件につながる情報があるかもしれませんし……」

 すると桐原は、困り顔でもなくむしろ「めんどくさいことを振られたな」という表情で口を曲げた。

「警察にまかせりゃいいよ。あいつらだって無能じゃないし、捜査はちゃんと進めてくれるだろ。動くときが来たら連絡してくるさ」

「でも……」

「大丈夫。あんたは自分の生活をちゃんと送る方がいい。今は必要ないってことだよ」


 青年はそれ以上しつこく言葉を重ねられなかった。マスターや周囲の客の目もある。

内心の苛立ちや不安を引きずりつつも、桐原の言い分を信じるしかないのだろうか。彼の圧倒的なミステリー知識を目の当たりにすると、どこかで「頼りになるはずだ」と思ってしまう。

それが桐原の持つ不思議な説得力かもしれない。

 しかし店を出る直前、青年は一度だけ振り返って、やや険しい視線を桐原に向けた。曖昧な回答、曖昧な電話、そして曖昧な態度。

自称探偵でありながら、なぜこんなにも動く気配がないのか――その疑問は、まだはっきり解決されてはいない。


 結局、その日も桐原はコーヒーを一杯飲み干しただけで事件に関する行動は何も起こさなかった。

まるで殺人のニュースなど他人事だとでも言うように、ミステリーの古典や新本格のトリックを語り尽くしては、のんびり時間を潰している。

 青年の中で膨らんでいくのは、期待と不安の入り混じった複雑な気持ちだった。

一方、周囲の客たちが「あれがプロの探偵なんだって」と囁くたび、青年は自分自身に言い聞かせようとしている――“やっぱり詳しいだけあって、本当はすごい推理を隠しているんだろう”と。

 その思いを支えにするしかない。いまのところ、彼には桐原以外に頼れる存在がいないのだ。

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