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廊下は踊る、されど進まず

作者: 松木涼太

読者諸賢、ご機嫌麗しゅう。


私はといえば、本日も今日とて、

人生という名の迷宮を彷徨い、出口の見えぬ廊下で、

滑稽な一人相撲を取る羽目になった。

この珍妙な顛末を、ここに記しておこうと思う。


時は、まさに酷暑。

うだるような暑さとは、このことを言うのであろう。

ねっとりとした空気が肌にまとわりつき、

じっとりと汗が滲み出る。

ねっとり、じっとり、ねっとり、じっとり。

太陽は、まるで巨大な目玉のように、この古都をじりじりと照りつけ、京都の街行く人々を、軒並みイカ焼きに変えようと企んでいるに違いない。

ねっとり、じっとり、ねっとり、じっとり。

私は、とある会社の一室で、上司である狸谷部長から、

怒号を頂戴したばかりであった。

曰く、私の作成した企画書が、稚拙、杜撰、救いようのない阿呆の所業、だそうである。

全くもって、心外である。

確かに、私の企画書は、我ながら完璧とは言い難い。

しかし、それを言うなら、狸谷部長の頭髪の寂れ具合だって、相当なものではないか。

例えるなら、真冬の銀閣寺の枯山水に、数本の黒松が寂しげに佇んでいるような、そんな風情である。

彼奴は、夜な夜な愛宕山に登り、頭髪の無事を祈願すべきではないか。などと、心の中で毒づいてみても、現実は変わらない。ここは、そういう場所なのだ。

ああ、しかし、この狸谷という男、ただの狸ではない。

彼は、社内の魑魅魍魎を束ねる、狸界の首領なのだ。

彼の放つ妖気は、並大抵のものではない。

その妖気を浴びたが最後、並の人間であれば、たちまち精気を吸い取られ、抜け殻のようになってしまうだろう。

現に、私は今、ひどく疲弊している。身体的にも、精神的にも、ずっしりと重い倦怠感が、私を支配していた。

(もう、何もかも、どうでもよくなってきた…)

私は、深い深い虚無の淵に沈んでいた。

もう、このまま、この薄暗い廊下の片隅で、朽ち果ててしまいたい。そんな自暴自棄な考えが、頭をよぎる。


と、その時である。

廊下の奥から、何やら、ただならぬ気配が近づいてくる。  

何事かと思って目を凝らすと、一人の男がこちらに向かって進んでくるではないか。  

がたん、ごとん、がたん、ごとん。

まるで古びた路面電車のようである。  

その男は、私とまさに衝突せんとする位置で、

ぴたりと停止した。

通常であれば、ここで「すみません」の一言もあれば、事は丸く収まる。

私も、普段であれば、そうしていただろう。

しかし、その時の私は、酷く疲弊し、自暴自棄になり、この世の全てを呪っていた。そう、まるで呪詛返しを会得してやる、と息巻く丑の刻参りの女のように。

しかし、実際にやったら犯罪である。

だから、謝りたくなかった。

謝ることで、自分の存在が、この世から消えてしまうような、そんな錯覚に陥っていたのだ。

(右にずれればいいだろう)

私は、そう思い、右に体をずらした。

しかし、である。

その男も、まるで私の心を読んだかのように、同じ方向に避けようとしたのだ。

結果、我々は再び、互いの進行方向を塞ぐ形で、対峙することになった。まるで、この世に二人しかいないかのように。

あるいは、私は自分の影と対峙しているのか。

などと、くだらないことを考えてしまう。

(何なのだ、この男は!)

私は、内心、憤慨した。

いつもなら、いつものように「申し訳ありません」と平身低頭し、道を譲れば済んだ話だ。

(さて、どうしたものか…)

私は、瞬時に思考を巡らせた。

ここは、一つ、高度な心理戦を仕掛けてみるとしよう。

相手は、私を映し出す鏡のような存在なのだ。

(ならば、右左右右右右で行こう)

それだけ動けば、流石にこの状況を打破できるだろうと、私は踏んだ。問題は、タイミングだ。

いつ、どのタイミングで、足を出すか。

これは、まさしく、高度な心理戦である。

私は、深呼吸をし、集中力を高めた。

そして、意を決して、右足を一歩、前に踏み出した。

右左右右右右!

しかし、どうだ! 

まるで合わせ鏡のように、相手も私の行く方向に、ぴったりと合わせてずれてくるではないか!

まるで、事前に打ち合わせでもしていたかのような、見事なシンクロ率である。

(な、何たることだ! こやつ、さてはエスパーか!)

いや、そんな馬鹿なことがあるものか。

しかし、だとしても、ここまで完璧に、私の動きを読まれるものだろうか?

そして、私は、ある恐ろしい可能性に、はたと気づいた。

(もしや、この男、怒っているのではないか?)

そう、怒っているからこそ、私の進行方向に、わざわざ出てきているのではないか? 

そんな疑念が、私の脳裏をよぎった。

そう思うと、私は急に、相手の顔を直視することができなくなった。

私は、根っからのいけ好かない人間で、臆病者なのだ。怒っているかもしれない相手が、怖くてたまらなかった。

しかし、ここで退くわけにはいかない。

私は、意を決して、先ほどとは全く逆の方向に、速度に緩急をつけて動いてみた。  

ひらり、ひらり。まるでお能のように。

だがしかし、である。

相手もまた、まるで私の動きを予測していたかのように、同じように動いたのだ。

「な、なんだこいつは…!」

相手の不可解な行動に、流石の私も、脳内で叫ばずにはいられなかった。

こんな偶然があるものだろうか? 

いや、これは偶然ではない。この男は、完全に怒っている。

怒りに任せて、私を翻弄しているのだ。そうに違いない。

何やら、相手の息が、先ほどよりも荒くなっているのがわかる。これは、怒っているからに違いない。間違いない。

(左右でダメなら、押してダメなら引いてみろ、だ!)

私は、さらに高度な心理戦を展開した。

ただ前に動けば、確実に相手に当たってしまう。

ならば、後ろに一歩下がってみよう。

私は、そう考え、後ろに一歩下がった。

しかし、である。

私が一歩下がると、相手はなぜか、一歩前に出てきたのだ。

つまり、我々の位置関係は、全く変わっていない。

「な、なんだこいつは…!」

私は、再び、脳内で叫んだ。

後ろに下がるなら、まだわかる。

しかし、なぜ前に出てくるのだ? 

私が後ろに下がっていなければ、ぶつかっていたではないか!

私と相手、両者の息が、どんどん荒くなっていく。

(ならば!)

私は、今度は、一歩前に踏み出した。

考えてもみれば、ぶつかったら、ぶつかった後に、自然に謝って通り過ぎればいいではないか。

ぶつかったことに対し謝る。

これは、ごく自然なことであり、何ら違和感はない。

しかし、私が一歩前にいくと、相手は今度は、一歩下がり、やはり我々の位置関係は変わらなかった。

「な、なんだこいつは…!」

私は、三度、脳内で叫んだ。

今度は下がるだと? 

こいつは一体、何を考えているのだ! 

こいつは、何を企んでいるのだ! 

さては、この男、狸谷部長が放った刺客か? 

私をこの迷宮のような廊下に閉じ込め、精神を疲弊させ、廃人にしようという魂胆か? 

だとしたら、許せん! 断じて許せんぞ、狸谷! 

などと、妄想が妄想を呼び、私の脳内は、もはや魑魅魍魎が跋扈する、百鬼夜行の様相を呈してきた。

我々は、完全に、膠着状態に陥った。

さながら、時代劇の斬り合いのように、あるいは西部劇の決闘のように、動いたら最後、何かが始まる、そんな奇妙な緊迫感が、その場を支配していた。

そして私は、これまでの選択肢の中に、最適解はなかったのか、改めて思考を巡らせた。

そして、私は、ある結論に到達した。

(先に行こうとするのが、まずいのだ)

そうだ、先にどうぞ、と譲ればいいのだ。

一歩横にずれ、手を差し出し、「先にどうぞ」と、優雅にエスコートすればいいのだ。

やはり、人間は、譲り合いの精神こそが、大事なのだ。私は、そう確信した。

私は、すっと横にずれ、手で「先にどうぞ」の意思表示をした。

そして、相手をチラリと見ると、相手もまた、同じ境地に達したようで、私に道を譲ろうとしているではないか!

またしても、行動が同じになってしまったが、これはこれで、良いのかもしれない。

互いを思いやり、そして、同じ行動をとる。これは、ある意味、美しい光景ではないか。

私は、相手のご好意に甘え、一歩踏み出そうとした。

その時である。

相手もまた、私が道を開けたことにより、こちらに一歩踏み出してきたのだ。

互いが互いを思いやり、そして再び、再び、

どちらが先に進むのか、どちらが優先されるべきなのか、

仁義なき戦いが、幕を開けようとしていたのである。  


この世にこれほど不毛な争いがあろうか、いや、ない。

もはやこれは、争いですらない。

我々は、互いに歩み寄ろうとしているにもかかわらず、なぜか、その一歩が、永遠に交わらないのだ。

まるで、永遠に交わらない平行線、あるいはメビウスの輪のように。ああ、これは、何という不条理であろうか。

しかし、諸君、安心してくれたまえ。

私は、この不条理な状況を、楽しんでいるのだ。なぜなら、私は、この世の不条理を愛する、阿呆なのだから。

読者諸賢、これが、私が体験した、世にも奇妙な廊下相撲の顛末である。  

この不毛な争いが、果たしていつまで続くのか、それは、誰にもわからない。  

しかし、私は、この出来事を、決して忘れないだろう。  

なぜなら、これは、私の人生における、最も滑稽で、

最も奇妙な、そして、最も美しい、

無間地獄の一幕であったのだから。

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