【Secondary】②
「あれ、あいつ……?」
慎也と羽衣子と三人で教室を出て、とりとめない話をしながら廊下を歩く。
上階の他のクラスの友人を誘って部活に行くという慎也と別れの挨拶を交わし、羽衣子と階段を下りようとしていた璃来は、彼の声に足を止めた。
「何? 坂本くん」
「いや、宗多が教室入ってったような……。なんかキョロキョロしてたから気になってさ」
綾が? 教室にはもう誰もいない筈。璃来たちが最後に出たからだ。
「離れてるのによく見えるのね」
「俺、視力めちゃめちゃいいの。どうせなら頭いい方がよかったけどなー」
「でも、スポーツには視力って大事なんでしょ?」
話している二人に向かい、唇の前に人差し指を立てた。そのままもう一方の手で無言のまま教室の方を指す璃来に、二人が戸惑いを見せる。
「何もなかったら謝るから、私について来て欲しいの。静かにね」
極限まで潜めた声に、事情はわからないまでもただごとではないと感じたのか、慎也と羽衣子は真顔で頷いた。
物音を立てないように、しかし可能な限りの早足で教室を目指す。
先導する璃来に、黙って従ってくれる二人がありがたい。
息まで止める勢いで、五センチほど開いていた教室のドアの隙間から中を覗き見た。
並んだ机の中でこちらに背を向けた綾が立つのは、璃来の席の横だ。その手から零れる見慣れた紺に金模様は、未夢のクマのスカーフだろう。
突然、綾が手に持ったものを足元の床に投げ出した。ぽとりと落ちたクマの後を追うように舞うふたつの布。
──まさか。
床のぬいぐるみを上履きの底で踏みつけた彼女の姿に嫌悪が込み上げる。その脇には、破られたか切られたか、完全にスカーフではなくなった残骸。
未夢が泣くほどに大切にしていたバッグチャーム。
綾は確かに、あの涙は経験していなかった。
しかし、未夢がどれだけあのクマを丁寧に扱っていたか知らなかったとは言わせない。
雨の日には、取っ手から外してスクールバッグに入れていた。
バッグが満杯で無理なら、小さなレジ袋を被せて守ってさえいたのだ。あのお洒落な未夢が、不格好な見た目など気にもせずに。
それくらい彼女にとっては価値のあるものだった、と親しい誰もが承知だった。
「宗多! お前、何やってんだ!」
タイミングを見計らっていた璃来が止める間もなく、慎也がドアを大きく開くと同時に叫ぶ。
「え? あ、あ……。なんで坂本く──」
屈んで拾ったクマを璃来の机に入れようとしていた綾が、弾かれたように背を伸ばし、驚愕の表情を浮かべてこちらを向いた。
哀れなほどに狼狽えている彼女に、同情など欠片も沸きはしない。
「綾。それ未夢の、だよね?」
「神崎、長谷川どこにいるかわかるか? 部活あるし帰ってないよな? 呼んで来てくれよ」
璃来の台詞に、視線は綾に固定したまま慎也が告げて来る。
「わかった。でも私より、羽衣子悪いけど行ってくれない?」
「うん。長谷川さんダンス部だから、第二体育館だよね?」
「練習ならそのはずよ。理由訊かれたら『璃来が呼んでるから』って言って。未夢なら多分来てくれる」
行く手間を惜しんだわけでは無論なかった。
万が一綾が逃げようとした場合、男子の慎也が捕まえるのはいろいろ障りがある。
そして羽衣子に対しては強気に出そうだ。どちらかが怪我でもしたら大変なことになってしまう。
そこまで察したかは不明だが、何も訊かずにすんなり承知して未夢を呼びに向かった羽衣子に感謝した。
「ねぇ、久世さん。どういうこと? あたし、練習抜けるなんて困る──」
「……本当にごめんね。でもそれは璃来ちゃんに訊いてほしいの」
だんだん近づいてくる足音に、羽衣子と未夢の声。それでも羽衣子を無視せず来てくれたのだ。
「未夢、部活中にゴメン。でも大事なことだから」
「璃来、いったい何なの?」
教室のドアから半身を出して立つ璃来に、彼女は不安気に首を傾げた。
「こっち来て。あ、羽衣子ありがと」
「坂本くんまでどうしたの?」
ドアまで辿り着き、教室内に目をやった彼女は、すぐ目の前に立つ慎也に気付いて疑問符を浮かべる。
「未夢、あれ」
多くは語らず、璃来は呆然と突っ立ったままの綾を指した。
「え……? あ、あたしの!」
綾が片手に持ったままのぬいぐるみと、床に落ちたひと目で無事ではないとわかるスカーフと。
無残としか表現できない状況に、未夢が上げた声は震えている。
「未夢。今こんなこと言うの嫌なんだけど。綾があれ踏みつけて、私の机に入れようとしてたの。……意味わかる?」
「え、え? なに? 意味、って、……なんで璃来の机?」
無理もないが、未夢が受けた衝撃が理解できるからこそ、そっとしておいてやりたいという想いはあった。
それでも、事実ははっきりさせなければならない。できれば今のうちに。
「俺が口出していいのかわかんねえけどさぁ。あ、俺もしっかり見たから。宗多が自分のやったこと、神崎のせいにしようとしたんじゃねーの? 理由とかは全然知らないし、『黙ってろ!』てんならそうするけどな」
「……ホント、なの?」
遠慮がちに口添えしてくれる慎也に、未夢が揺れる目を向けた。
「ああ。神崎は嘘なんか一個もついてねえよ。俺たち三人ともバッチリ確かめた」
「璃来が嘘つくなんて思ってない。そういう子じゃないもん。ただ、信じられなくて。……綾、あたしたち友達じゃなかったの? なんでこんな、ひどい──」
ここに来て初めて、未夢が綾に直接問い掛ける。
「ちが、あたし。……璃来がこれ」
「宗多さん。璃来ちゃんはコソコソ意地悪なんてしないわ。なんでも人のせいにしないで」
弁解しようとした綾に、璃来が反応するよりも早く羽衣子が小さいけれど明瞭な声を被せた。
教室の中へ進み、璃来は俯き加減で立ち尽くす綾からまだ握ったままのぬいぐるみを取り上げ、スカーフだったものを拾う。
その瞬間だけ憎々し気に睨みつけて来た綾は、急に脱力して床にしゃがみこんだ。
「未夢、辛いかもしれないけど見て。これ、たぶんハサミだと思う」
斜めに断ち切られた生地。切り口は滑らかで、引き裂いたようには見えない。
彼女はスカーフには一瞬目を向けただけで、真っ直ぐ両手を差し出し璃来が持つクマを受け取った。
残された紺の端切れを困ったように見た璃来に気付き、慌ててそちらにも手を伸ばす。
いくら高価なブランド品でも、この状態では価値がないからか。
身勝手なのは承知の上で、納得はしつつも少し冷めた気分になった。
「部活中、荷物はどうしてんの?」
「き、教室のロッカー。鍵掛かるし。貴重品だけは持ってくように言われてるから、部でまとめて管理してるけど」
教室後部に備え付けられた個人ロッカーは、各自で錠を用意することになっている。
形状的に、南京錠かダイヤル錠だ。
「未夢ってダイヤル式? ナンバー誕生日にしてたりしない?」
「……」
「やっぱね。それ、未夢の友達なら誰でも開けられるよ。教室にいるときはいいけどさ」
暗証番号の危険性と根本は同じだ。
ロッカーには、教室が無人になるときは貴重品は入れないよう指導されているし、未夢もそれは守っていたのだろう。」
その裏をかいて、金品ではない『個人的に貴重なもの』が狙われたのだ。
「最初は鍵で開ける奴だったけど、ちっちゃいから何回も失くしちゃって。お母さんに『もう鍵要らないのにしなさい!』って……」
涙声で呟く彼女に、これ以上追い打ちを掛ける気はなかった。もう今更だからだ。
「綾。なんか理由があったのかもしれないけど、あたしこういうの大嫌い。やり方汚いよ。……もう二度とあたしに構わないで」
精一杯張ったのだろう声で毅然と告げて、未夢は璃来と羽衣子に対し弱々しい笑みを浮かべた。
璃来の席の脇に座り込んだまま、綾は床に広がるスカートの裾を握り締めている。
この光景だけなら、まるで複数でたった一人を問い詰めて苛めてでもいるかのようだ。可哀想だと、それこそ「やり過ぎ」だと感じる者もいるかもしれない。
他の皆にとって、これは綾の『初めての過ち』だろうから。
けれど璃来には『二度目』なのだ。せっかく与えられた目には見えないチャンスを、この子は自らの手で台無しにした。
つまり、根本からそういう人間だということだろう。
──起こした行動の報いは、自分自身で受け止めればいい。
◇ ◇ ◇
もしかしたらこれきり学校には来ないのではないか、と危惧していたが、二日欠席しただけで綾は登校を再開した。
ただし、彼女に話し掛けるクラスメイトはもう誰もいない。『前回』の璃来のように、完全に孤立していた。本当にひとりで。
違うのは、璃来は身に覚えのない冤罪だったが、綾は自業自得だということだけだ。
璃来と羽衣子はもちろんだが、未夢と慎也も綾について吹聴したりはしなかったはずだ。
それなのに、彼女の所業は知れ渡っていた。
息を潜め気配を殺していたのも慎也が乗り込むまで。
未夢が来て教室に入った後は、ドアも開け放したままで外に気を配ってなどいない。
誰かが廊下を通ったり、教室の中を見ていたとしてもわからなかっただろう。もしかしたら隣のクラスに誰かいたとしても気づかなかったと言いきれる。
四人ともそれどころではなく、終始綾に目を向けていた。
しかも、大声で喚いたりはしなかったが、声を抑えていた覚えもない。
結局、話の出どころは不明のままだった。
しかし、それとなく確認された未夢が言葉を濁して否定しなかったこともあり、『真実』と認定されたも同然だ。
高校は中学までとは違う。
退学する勇気だか覚悟までは決められなかったのだろう。だからと言って、針の筵から逃げなかった彼女の選択を称賛する気にはなれなかった。
そして蔑むつもりもまた、ない。
他のクラスメイトが「よく平気で来られるね。どんだけ神経図太いんだよ」と嘲笑する場に加わることも。
綾に関して何か見聞きするたび、璃来は必ず『前回の最期』の彼女の台詞を思い浮かべていた。自分の吐いた暴言は、結局は回りまわって返って来るのだといっそ感慨深い。
昔の人の経験から来る教訓は侮れない。学校で、自分とは縁のない作り事を教材に習うよりよほど身に染みた。
綾はもう、璃来にとっては取るに足らない、どうでもいい存在だ。
未夢のスクールバッグには、専用のクリーナーで表面を洗浄したらしいクマのバッグチャームがつけられていた。
首には、今度は深紅基調の今までとはまったく印象の違うスカーフ。なぜわざわざそんなものを巻くのか。
ない方かシンプルで、クマの可愛さも引き立っていいのに、と璃来は思い切って未夢に訊いてみた。
なるべく本体が汚れないよう、カバーのつもりもあるらしい。
だからリボンや他のアクセサリーではなく、アンバランスなスカーフなのか。
「前の紺のはお母さんにもらったんだけど、なんか有名な高いやつだったみたいで。切られたなんて言えないから『電車で解けてなくなってた』って誤魔化したらすっごい怒られちゃった」
紅いスカーフは自分で買っためちゃ安物、と笑った未夢が続ける。
「でもね、そんなのどーでもいいんだ。買えば済むもんなんか。──このクマの作家さん、お母さんの昔からの友達だけどもういないの。だから『替え』はないのよ。世界にたった一つ」
一転してしんみりした口調になった彼女に、璃来も目が潤みそうになる。
真に大切だったのは、スカーフではなくクマのぬいぐるみ。
璃来自身も、結局は「値段」で判断していた部分があった、と口には出さずに反省する。
綾が鋏を入れるのに選んだのが、クマではなく如何にも高価で目立つスカーフの方だったことも、未夢にとっては不幸中の幸いだったのかもしれなかった。
羽衣子がいて、未夢も慎也もいる。
信頼のできる少数の友人がいれば十分だ。強がりでも何でもなく、今の璃来の本心だった。
そうして日々は何事もなかったように続いて行くのだ。
今までと同じように、これからもずっと。
己の生きた軌跡が一度途切れて遡行したことも、いつしか日常に紛れてしまいそうになる。
それでも忘れるわけがない。璃来の二度目の人生。
──『次』がないよう、毎日を大切に生きると静かに誓う。
~END~