【Secondary】①
「──らちゃん。璃来ちゃん!?」
「あ、……え? 羽衣子」
いつもの校舎。教室を出て階段に向かう数えきれないほど通った廊下で、隣を歩いていたらしい羽衣子が顔を覗き込んでいる。
「どうしたの? 璃来ちゃん、ぼんやりして」
「……羽衣子。今から帰る、んだよね?」
「そうだよ~。璃来ちゃん、本当にどうかした? 調子悪いの? 大丈夫?」
真剣な表情で心配してくれる羽衣子に、曖昧な笑みを浮かべて首を振る。
「あれ? 璃来ちゃん、お弁当のバッグは?」
到着した下駄箱前で、羽衣子に訊かれた。覚えがありすぎる台詞、状況。
──ああ、ここに戻った、んだ。
璃来の生は一度幕を閉じたのだろうか。これは新たな人生?
時間が巻き戻されたということなのか?
そんなフィクションのような事態が起こる筈はない。頭の片隅で、冷静になれと必死で叫ぶ『璃来』がいる。
けれど、今の我が身には紛れもなく起きていること。
あのとき自分は死んだのか、それとも身体は眠ったままで意識だけがここに?
どちらにしても、まるで白昼夢のようではないか。他人事なら最後まで聞く気にもならない。
死んで、生き返って、時間を遡った? 要約すると、安っぽい売れそうにもないドラマのストーリーそのものだ。
もしかしたら、いったん眠れば終わる幻かもしれない。いや、それ以前に突然何の前触れもなく掻き消えるかも。
それでも、一年以上着慣れた制服の衣擦れ。背負ったリュックサックの重み。踏みしめる床の感触。
夢にしてはあまりにもリアルだ。
いや、たとえ夢でも幻想でも『いま』璃来は生きて動いている。羽衣子と話している。
ならば、信じてこのルートに乗ろう。バーチャルゲームだと思えばいい。ゲームオーバーで覚めるまでは『現実』だ。
確実で重要なのは、この先に起こることを知っているという事実だけ。
同じ轍を踏まないように気を付ければいいのだ。
「うわ、忘れちゃったみたい。羽衣子、悪いけど一緒に来てくれる?」
「うん、いいよ。どうせここで待ってるだけだし」
まずは一人で教室に入らないようにする。何よりもそれが肝心。
連れ立って歩き出した二人の前を、慎也が横切ろうとした。
部活に向かうのだろうか。彼は確かサッカー部ではなかったか。
「あの、坂本くん!」
「おー、神崎、と久世。どした?」
思わず呼び止めた璃来に、彼は明るく応えた。
「あ、えーと。あのさ、私の机のフック、なんかぐらついてるんだよね。ちょっと見てもらってもいいかな? ネジ止めとかで直んないなら先生に言うし」
慎也は、時としていい加減にも映る言動に反して几帳面な性格だという。同じく手先も器用で、部活とは無関係にDIYが好きだと聞いたことがあった。
あまりにも意外だったので印象に残っている。
証人は一人でも多い方がいい。
そして璃来にとっては思い浮かべるのも腹立たしいが、大人しい羽衣子を侮っている者も多いのだ。
その点、慎也なら申し分なかった。
「おお、いいよ。ドライバーセット、部室に置いてるから持って来よっか?」
苦し紛れの口実に、彼は特に不信感は抱かなかったらしい。
むしろうきうきと嬉しそうなのは、璃来の気のせいではなさそうだ。
どうやら本当にそういう作業が好きらしい。
「ありがと! でもとりあえず見てもらってからでもいい?」
「ああ、そうだな。土台から問題なら、小手先じゃどうにもなんないし」
三人で教室に戻り、璃来はまず机の横に掛けたままのランチバッグを手に取る。
フックの件は事実だった。
すぐに露見する嘘など意味がない。かえって自分の立場を悪くするだけだろう。
ただし、特に気にしていたわけでも何でもなかった。ごくまれに「ちょっとガタついてる? ま。取れなきゃいいか」と感じていた程度のものだ。
「あー、確かにネジ緩んでんな。これならちょちょいと締め直せばオッケーだよ。あとでやっとくわ」
璃来が適当に口走った事象にもかかわらず、跪いて大真面目に見分していた慎也が顔を上げて笑う。
「ありがとう、坂本くん! 助かったぁ。学校の備品壊したらマズいじゃない?」
「こんなもん、もし取れたって『壊した』うちに入らねーよ。つか逆に学校の問題じゃね? 点検が甘いってさ。……結構古いもん多いからなぁ」
慎也がこれほど気さくだと初めて知った。
避けていたわけではないが、今まであまり話す機会もなかったのだ。
いや、そんなことは今はいい。
せっかく連れて来たのだから、『用件』を済ませてしまわなければ。
「あ、あれ未夢のだよね? もうみんな帰ったか部活行ったと思ってたけど、あの子まだ残ってるんだ」
少しわざとらしいのは承知の上で、彼女の席を指して注目させる。
「あの席、長谷川だっけ? 俺、ちょっと覚えてねえ」
「ほら、あのスクバのクマ。あれ未夢のお気に入りだからさ。ね? 羽衣子」
「うん。長谷川さんいつも鞄につけてるよね。クマちゃんもだし、あのスカーフ綺麗だからすぐわかるわ」
二人を伴った目的は、「璃来が教室を出た時には、まだバッグチャームはあった」と印象付けること。
まずは条件クリア、だ。
「へー。女子って目敏いんだなぁ」
「みんなが何持ってるか、全部が全部なんて無理に決まってるよ。でもあのクマ、可愛いし一点ものらしいから。スカーフ込みで未夢のトレードマークみたいなもん?」
話しながら、三人揃って教室を後にした。
何の脈絡もなくふいに閃いて、璃来はランチバッグの中を探る振りをし、俯いて眼だけで背後を窺う。
虫の知らせ、というのはこういうことなのかもしれない。
隣の教室のドアから僅かに顔を覗かせるようにして、こちらの様子を探っているらしき女子生徒の姿。
しっかり振り向いて見たわけではないが、それでもすぐにわかった。あの癖のある髪に蛍光グリーンの派手なシュシュは綾、だ。
そういえば、あのとき真っ先に璃来を責め立てたのも彼女だった。
前回は、おそらく璃来が出たのを確かめて、教室に入り未夢のバッグチャームをごみ箱の向こう側に落とし込んだのだろう。
ごみ箱に入れてしまえば、ごみ捨てまでに完全に埋もれて見つからない可能性が高い。それでは璃来に責任を押し付けられないかもしれないからだ。
いったいなぜ? 璃来はまだしも、彼女は未夢とはかなり親しかったのに。
ともかく、これでもう璃来は疑われることはない。
ほっと一息ついたところで思い当たった。
──ああ、そうか。
もしこれが『やり直し』だとすれば、運命はいくらでも変えられる。璃来が今、あの時点から見れば過去を変えてしまったように。
璃来に罪を擦り付けられないとしたら、綾が未夢のクマを標的にすることもないのか。
◇ ◇ ◇
「未夢、おはよう」
「あ、璃来。おはよー! 久世さんも」
「おはよう、長谷川さん」
あれから何度も夜を迎えた。
覚悟を決めて明かりを消すたびに、待っているのは新しい朝。
どうやら本当に、璃来はいったん死んで生き返ったらしい。
ようやく、その非現実を受け入れられるようになって来ている。
クラスメイトとの関係は、『事件』前に戻った。
璃来は相変わらず、未夢や彼女を中心とするグループとも付き合っている。
それでも、一番は羽衣子だった。
考えてみれば、以前も誰より親しくしていたのは登下校も共にしている羽衣子だったのだが、今は何の迷いもなく彼女の名が出て来る。
変わったことがあるとすれば、まずは綾とそれとなく距離を取るようになったことだ。
璃来が出した答えの通り、『今回』は未夢のチャームが狙われることはなかった。
濡れ衣を着せる相手がいなくなったのだから当然か。
証拠などはないが、璃来は綾の仕業だと確信している。
疑惑を持って観察してみれば、彼女の隠しているものが透けて見えて来た。
癖毛がコンプレックスだというのは知っていたが、特に見た目に難があるとは思わない。
すごく可愛い、綺麗と感じたことは正直ないのだが決して元は悪くないし、身だしなみにはかなり気を配っていた彼女。
璃来自身は使わない表現ではあるが、未夢やグループの他の子たちと並んでも別段見劣りはしない。
校則が厳しくないこともあり、髪型に凝るのはもちろんまつ毛カールやリップグロスなどお洒落に妥協はしないという並々ならぬ気合を感じた。だからといって、それに対して悪い感情を持ったこともなかったのだが。
綾は未夢が好きで憧れていると感じていた。しかし、そうではなかったのかもしれない。
表には出さないようにしているものの、仔細に眺めると滲み出ているのがわかる綾の卑屈さ。
気付いた瞬間、彼女はむしろ未夢を妬んでいたのではないか、という結論に達してしまった。
そして、おそらくは璃来のことも嫌っていたのだろう。
未夢に疎まれたら、快適な学校生活は終わる。
少なくとも綾の中ではそうなのだ。
だからこそ「璃来が未夢を」という形を作れば、自分を安全な場所に置いて未夢を苦しめ、璃来を排除できる。
実際、彼女の思惑通りになった。一度は。
それだけでは飽き足らなくなって、璃来をさらに傷つけようとした結果が『璃来の最初の死』だったのか。
──殺人犯にならなくてよかったね。十六、七で人生お先真っ暗になるとこだったんだからさ。
綾に報復する気はなかった。『死』で終わらなかったからだけではなく、それこそ自分が手を汚すだけの価値が、彼女にあるとは思っていない。
単に根性が捻じ曲がった小物になど。
また陥れられないよう油断する気はないが、完全に友人の括りではなくなっていた。表面的に当たり障りのない対応はする、ただそれだけの相手だ。
もう一つの変化は、慎也と親しくなったこと。
とはいえ、特別な関係でもなんでもなかった。ただのクラスメイトだった以前より、『友人として』一歩進んだというだけの話だ。
先はともかく、今の璃来は彼に恋愛感情など持っていなかった。おそらくは向こうも。