6話 母になるということ
「――……ねえ、メリー。子どもを産むのは、どんな気持ち?」
牛舎の中。初産を終えて、晴れて乳牛の仲間入りを果たした馴染みの牛へ寄り添い、アメリーはそう尋ねた。彼女はアメリーから名前を取った思い入れが深い牛だ。問いかけに答えてくれたのか、メリーは子に乳を与えながら、低くひと声鳴いた。
友人のカロルの言い立てによると、自分は妊娠していないらしい。どうしてわかるのだろう。一般的には、お医者様でなければわからないのではないか。クラリスだって、男性と共寝をして身ごもり、医師からそれを指摘されて判明したのだ。メリーも、専属の獣医師から診断を受け妊娠が発覚したのに。
アメリーはその疑問を口にした。父と兄は目に見えてうろたえて挙動不審になった。そも、兄が述べた『おまえの乙女は、損なわれていなかったよ』の意味がわからないのだ。カロルが叫んだ『手ごめ』もわからない。なので尋ねたのだが、はっきりとした答えを得られなかった。
「あのねえ、子どもは男が女に突っ込んでできるもんなの。あんたは突っ込まれてないんでしょ?」
突っ込むとはなにか。カロルは「それ以上あたしに言わせんじゃないわよ! いちおう嫁入り前なのよ!」と言った。クラリスは嫁入り前に妊娠したのだ。それは関係ないと思う。
その後も、お披露目会の前後の出来事をそれとなく尋ねられ、アメリーはそれに答えた。結局意味がわからなかった。カロルは「おじさん、坊っちゃん、これ、きっとなにもなかったやつですよ」と言った。それに対し兄は「……いや。あのときのアメリーの取り乱し方を考えたら……」と小声で言う。
いったい皆でなんの話をしているのか。自分だけ置いていかれている気分になって、アメリーは少し不機嫌になった。
そうして、立ち上がってメリーのいる牛舎へ駆け込んだのだ。
アメリーの家では、牛が子を生むのは日常だ。搾乳するためには乳牛がいなくてはならないので、少しずつ時期をずらして出産させる計画的な乳牛管理がなされている。だから、子を産むのはとてもたいへんだとアメリーは知っている。
二回ほど出産を手伝った。その、初めての手伝いのときに生まれたのがメリーだった。すごく感動して、あのときは思わず泣いてしまった。
メリーの母親にとっては最後の出産だった。高齢のため、メリーが乳離れしたあとは少しの間余生を過ごし、屠殺され肉牛になった。
最初のうちは、どうして死なせてしまうのかわからなかった。ずっといっしょに過ごしていた家族を食べ物にしてしまうのだ。意味がわかったときにアメリーは泣いた。自分が口にしていた物は、かつて自分がともに過ごしていた牛たちなのだと知ったときには、大きすぎる衝撃があった。
でも、いつの日か納得した。そういうものなのだと。牛は、人類と比べたら長くは生きられない。十年に満たないその短い時間を最後まで、子を産み、育て、懸命に生きる。アメリーはそんな牛が大好きだった。そして、アメリーの家はそんな牛たちの一生と真正面から向き合うために存在している。すばらしいと思う。
アメリーが、メリーに自分から取った名前を着けたのは、彼女の命に最後まで寄り添うと覚悟したからだ。出産に立ち会えなかったのは本当に悔しい。しかし、飼育管理をしているオーバンが残ってしっかりと見守ってくれた。それに、王都に牛はいない事実を知見として得たのはすばらしい。
「――お嬢、セレスタンが探していますよ」
「いやよ、わたくしがここにいるのは内緒にして」
オーバンが声をかけてきた。アメリーがそう言うと「はい、わかりました」とほほ笑む。そしてメリーをひと撫でした。アメリーはそのやさしい手つきを見て、思い切って頼んでみる決意をした。それなりに、お願いするのは勇気がいる。しかし、クラリスだって、ずっと勇敢だった。彼女は逃亡先の土地で倒れ、そして――
「――オーバン。お願いがありますの」
「なんでしょう?」
「わたくしの出産を、手伝ってくださる?」
オーバンは目を見開いた。それはもう、未だかつてないほど見開いた。アメリーも同じく目を大きくしてしまった。乳を飲み終わった子の顔を、メリーが愛しそうになめている。しばらくの沈黙の後に、オーバンは「理由を聞いても?」とアメリーへ尋ねた。
「わたくし、出産を控えているのです」
「待ってください、どういうことですか」
「ええと、とつきとおか? 後に、子どもを産むのですわ」
『クラリスと恋の花束』の四巻では、遠くの地へ赴いたクラリスが、あるとき力尽きて倒れた。たまたま通りがかった男性によって近くの馬小屋へ運び込まれる。そして、わらむしろの上で産気づき、男の子を産むところで終わった。親切な男の人は赤ちゃんを取り上げてくれたのだ。オーバンほど親切な男性はこの世にいないから、きっとアメリーの出産をしっかり助けてくれるだろう。アメリーの家の敷地には馬小屋も一棟だけあるから完璧だ。
オーバンはアメリーの顔をじっと見て「……妊娠されている、のですか」と低い声で尋ねてきた。アメリーは「はい」とうなずいた。
「相手の男は誰なのです」
両肩をつかまれて問われる。これまでにない真剣な表情と勢いにアメリーは驚いた。そして、やはりこれがとても重要な事柄なのだと確信する。あの左巻きつむじの黒髪男性はアメリーの家と敵対関係にある人物なのだと。――オーバンに言えるはずがない!
「ひ、秘密です!」
オーバンは驚いた顔をして、少し後にアメリーから手を放した。そして「……かばうんですね。俺の知っているヤツですか」と言われる。オーバンがあの男性を知っているのか、アメリーにはわからない。長考していると、オーバンは「わかりました」とつぶやいた。
「……お嬢の子どもは、俺が取り上げます。牛とは勝手が違うかもしれないが、どうにかなるでしょう。――俺を頼ってくださって、ありがとうございます」
一礼して、オーバンは去って行った。悲しそうな表情をしていたのが気にかかって、アメリーはその背中をじっと見た。出産を手伝うのが重荷に感じたのだろうか。オーバンほど子牛の取り上げが上手い人はそうそう居ないのに。
兄がアメリーを呼ぶ声が聞こえた。あわてて裏口から外へ出る。そして馬小屋へ現場確認のために向かった。手入れはしているが、もしわらむしろが腐っていたら、さすがにいやだ。
今の時間、馬は放牧されている。なので、息を切らして駆け込んだ馬小屋の中は、猫たちの砦になっていた。アメリーの姿を見たら、何匹もしっぽをピンと立てて近づいてくる。
「ごはんはまだよ。わたくし、おまえたちがわらむしろを引っ掻いていないか、見に来たのよ」
アメリーは牛に限らず動物が好きだ。なので、以前敷地内で見つけた猫を拾って来てしまった。一度は敷地外からも。犬も一匹拾ったが、先日老衰で亡くなってしまった。今は猫ばかりだ。だいたい十匹程度だが、馬小屋は町に近い位置のため、近所の猫が遊びに来たりする。よっていつも頭数が違う。
牛小屋では、搾乳の邪魔になってしまうから小動物を飼えない。それに、乳牛たちへ心身の負担もかけられない。なので父から「馬小屋でなら」と許可を得て世話している。猫たちはとても賢くて、自分たちの縄張りを馬小屋周辺だと理解してくれているようだ。そして先住者である馬たちへ、ちゃんと敬意を払ってもいる。
最近子猫が生まれたばかりだ。一匹は搾乳従業員にもらわれて行った。母猫はみーみーと鳴いて動き回る子どもたちを、アメリーが作った猫小屋へと何度も運んで行く。馬が戻ってきたら踏まれてしまうから、ひとときも目を離せないのだろう。
「おまえは母の鑑ね!」
そう言って撫でてやると、意味を理解してるのか、喉をごろごろと鳴らした。アメリーの母親も、生きていたら、こんな風にアメリーを世話したのだろうか。ふとそう考える。
兄から聞く母の話は、とても優しい。昔を思って細くなる瞳が、少しうらやましい。兄には、母の記憶がある。アメリーには、ない。それで不自由をした経験はなにもないが、それでも、気持ちのどこかが空虚だ。
母親になるとは、すごい。子を産むために、命を落とす可能性もあるほどに。アメリーは、クラリスみたいな――そして、自分の母みたいな。そんな立派な母親になれるだろうか。
少しだけ不安になって、アメリーは馬小屋を出た。
最近とりわけアメリーに懐いている白黒ぶち模様の猫が、アメリーに着いて歩いてきた。この猫は表情が兄に似ているのでスタンと名付けた。アメリーにすり寄ってひと声鳴くと、すっと離れたところに立つ。
「どうしたの? スタン。ごはんはまだよ」
猫小屋から離れて歩くのは珍しい。アメリーが近づくとまた歩き、にゃあ、と鳴いた。そして、敷地を区切る柵の元へ走る。
「だめよスタン! 外へ出たら、帰って来られなくなるわ!」
スタンは柵の手前で止まった。そしてアメリーを待ってこちらを見ている。追いかけっこをするつもりだろうか。どう考えてもアメリーの劣勢だが、付き合ってゆっくり歩み寄ると、みいみいと子猫の鳴き声が聞こえた。
「あら、あら、まあ!」
急いで走り寄る。なんと、スタンはそこに籠があると教えてくれたのだ。実をいうと、スタンも同じ境遇でアメリーに拾われた。数カ月前、箱に入れて敷地の中に置かれていた。
声からして生まれたてかもしれないと考え、すぐに保温の準備をしなければとアメリーはしゃがんで籠を覗いた。そして、息を呑む。
「えっ……」
驚きすぎて声が出ない。スタンはいっしょに籠の中を覗いている。みいみいと、声がか細く耳に届く。
アメリーは震える手で籠を持ち上げた。落としてしまわないよう細心の注意を払って。そして「赤ちゃん……」とつぶやいた。
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3月20日(水)7:00~
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