5話 兄セレスタンの苦悩
セレスタンには悩みがある。
いつもとっても、自分とは十歳違いで、亡き母の忘れ形見でもあるかわいすぎる妹の存在に悩んでいる。
彼女は自分と同じ亜麻色の髪に水色の瞳のかわいらしい娘だ。それに心根のやさしい子で、とってもかわいい。捨て猫とかを拾って来てしまう。たくさん。そして週末に実家へ帰るセレスタンへと「お兄様にそっくりだから名前をスタンにしましたの」と見せに来てくれる。とてもかわいい。すごくかわいい。
そう、かわいいのだ。それがセレスタンの主な悩みの種だった。
いつかそのかわいらしさが、問題になってしまわないかと。
セレスタンは、この国の東の果てとも言える地方のランペルツ子爵領に住む、領主の息子であり嫡男だ。領主の嫡男とはとても聞こえがいい肩書だが、実際のところは酪農畜産農家の息子だった。牛を飼って父で八代目。今は見聞を広める目的から外へ働きに出ており、そのうちセレスタンが継いで九代目になる予定だ。
だいそれた子爵の貴族称号を得たのは曾祖父さんのヤニク・エリオ。長命で表彰されたほどの人で、セレスタンも抱いてもらった記憶がある。本当にしわくちゃの爺さんだった。あと五年長く生きていたら妹のアメリーも抱けたのに、と思い出すたびに皆言う。しかし、あれだけ生きれば十分だろう、とセレスタンは思う。
(――昔は夢に出てきて、うなされたりしたよなー……物の怪みたいな爺さんだった)
いったいどんな牛乳を献上したらあんな爺さんが叙爵されるのか。それとも肉か。肉を王様へ寄進したのか。そんな気がする。美味いからな、ウチの牛。爵位授けたくもなるか。
代々体が丈夫で、長生き。それがエリオ家の特徴だ。自分もいつかしわくちゃの爺さんになって、なにごともなくベッドの上で天寿を全うするんだろう。子どものころは、なにも疑わずにそう信じていた。それ以外を知らなかったから。
だから、十歳のとき。母が妹を産み落としてそのまま亡くなった事実が、今に至るまでセレスタンの気持ちに陰を落としている。人は、不意に死んでしまう。残される者へ、心の準備の時間も与えられずに。あまりにも衝撃が大きすぎて、泣けなかった。セレスタンの気持ちが、まるで追い着いて行けなかったのだと思う。
――母を、墓に埋めるとき。小さすぎる妹を抱いていた、父の。少しずつ土で隠れて行く棺を無言で見つめている父の背中が、丸くて。
そのとき、やっと泣けた。この背中を支えなければと思ったし、その腕の中にある命を守らなければならない、と思った。
やや過保護に育ててしまったのは否めない。なにせ、妹はセレスタンと違って女の子だし、母を知らずに生きて行くのだ。それにかわいかった。とてもとてもかわいかった。自分の家が片親家庭だと意識せずに暮らせるよう、全力を尽くしお兄ちゃんをして来た。
男手のみになった家なので、女の子らしさとはなんなのか、と父とたびたび頭を悩ませた。搾乳の仕事をしてくれている短時間非常勤女性たちへ二人で相談に行ったりもした。はりきっていろいろ教示してくれたし、世話を焼いてもくれた。周囲の応援と助けのおかげで、妹はとても朗らかでいい子に育ってくれたと思う。
それと同時に、産まれる前からお腹の子が女の子だと確信していた母が、生まれてくる子へ込めていた願い。セレスタンはひとときも忘れずに、それをしっかりと教え込んだ。
「――田舎の牛追いとはいえ、ウチは子爵家ですからね。それに見合う淑女へと育てましょう。いつかしっかりとした身分の、すてきな殿方が迎えに来るかもしれないのだから」
母自身、過去に一代男爵位を授かった経歴がある商家の出だった。なのでその願いは強かったのだと思う。言葉遣いの教本に、貴族作法の手引き書。胎教のためにと母が取り寄せて読んでいた本は、セレスタンが妹を導くための指針にもなった。手本を示すためにセレスタン自身も実践したので、身に着いた振る舞いは就職先でのよい評判へつながった。
畜産従事者は、気持ちはやさしい人ばかりだ。しかし、おしなべて語調が強い。その中でやわらかな声色を保ち険のない言葉を選んで話すのは、なかなかに骨が折れる。父は早々に努力を放棄したので、兄の自分がやるしかない。
語彙を増やすためにセレスタン自身が読書家になった。そして、読んだ本の中で妹へよい影響を与えると感じた文章は進んで読み聞かせ、贈った。セレスタンの地道な努力は功を奏して、妹は周囲の者たちと同じ、強い口調を使わなくなった。
幼いころに、その言葉は使ってはいけないと叱ったとき、一度だけ泣きながら不平を言われた。
「なんで。おとうさまもオーバンも、カトリーヌおばさまもつかうのに。どうしてアメリーだけいけないの?」
もっとも過ぎた。とっさに説明できなくて、母が教本を読みながら言っていた言葉が口から出てきた。
「――いつかしっかりとした身分の、すてきな男性が迎えに来るかもしれない。だから、アメリーは淑女にならなくては」
妹は目を真ん丸にした。かわいかった。そして「それはなに?」と何度も説明を乞われて、セレスタンは当時買い与えていた絵本をたとえにあげた。
「――『いねむりひめとおうじさま』は好きかい?」
「すきー!」
「じゃあ、あんな王子様から迎えに来てもらえるよう、立派な淑女にならなきゃね」
妹は愕然とした表情をした。かわいかった。そして何度も何度もうなずいてから「アメリーはりっぱなしゅくじょになります」と舌っ足らずに宣言した。かわいかった。
(――そんなあの子も、もう十五か)
貴族的な言葉遣いや作法を見様見真似で教えていただけで、エリオ家の生活自体はずっと質素だった。貴族なんて身分は自分たちにそぐわないと思う。
セレスタン自身は、亡き母の強い願いと父からの要請に従い、隣りの侯爵領の大学へと進学した。大学では経営を学んだ。牛は、だれよりも尊敬する父に学べばいい。
学内では『ランペルツ子爵令息』扱いをされてずいぶんと困惑した。なまじ不器用に身に着けてしまった礼儀作法の実践が捗ってしまったのだ。それによって「今どき珍しい昔かたぎの風流な人」と、まずまずの貴族的評判も得てしまった。学友に実家の様子を問われるときは「とんでもない田舎で、牛しかいないよ」と正直な心で答える。しかし、冗談だろうと笑われるのがオチだった。卒業し帰郷し『エリオさんのところの長男坊』扱いに戻ったとき、心底ほっとした。今は地方公務員として、実家の隣町に住んでいる。
そんな中、王宮からの打診が実家へ届いた。
父が慌ててセレスタンの職場へやってきた。おろおろと見せてきたのは『お披露目会開催のお知らせ』だった。
――なんと、ウチのかわいい妹が、そのかわいさを世界にしらしめる機会が開けたらしい。
来るべき時が、来てしまったのだ。
そう。
(――気づいてしまう。世界が。アメリーのかわいさに)
実際、曾祖母が作ったドレスを着た妹は愛らしかった。――そして、いざ、王都へ。出陣式のごとく多くの人たちがセレスタンと妹を見送ってくれた。
ランペルツ子爵領から出るのが生まれて初めての妹は、目に見えるすべてを驚きをもって迎えていた。乗車した蒸気機関車の速さ、車窓から見える景色。定期的にピーと鳴る大きな汽笛。
そして、各駅において停車中に車窓際へと走って来る子どもたち。外側から飲食物を売り込む存在には、言葉にならないほどの衝撃があったらしい。
「……わたくしよりもずっと小さい子たちが、こうして働いていますのね」
小銭を渡して、妹自身に買わせた。心付けの文化を本だけによらず体感し、「元値の一割、元値の一割」と駅へ進入するたびにつぶやいていた。おかげさまでセレスタンは常に満腹だった。移動中に太ったかもしれない。
王都に着いてからはとりわけ人類の発展に驚愕していた。すばらしく大きな視野の賢さだ。牛が見当たらないとしきりに気にしていたので、じつは他の土地にはあまり牛はいないのだと知らせた。すると牛乳の流通と分配を憂慮していた。目の前で起きている事柄の問題の核をすぐに見分けるとは……天才だろうか。
宿泊所で一度休んだ後に百貨店へ足りない物を買い足しに赴いた。その際に値札を見て「……まあ、まあ、革装丁本が四冊も買えてしまいます!」とおろおろしていた。経済観念までもすばらしい。六冊買える値札の商品を購入した。いくらか懐が涼しくなったが誤差の範囲だ。
そうして、臨んだお披露目会。妹が倒れてしまって、そして――。セレスタンは自分の不甲斐なさを思って首を振った。
やはり、問題になってしまった。――妹のかわいさが。
取る物もとりあえず帰領し、今。セレスタンたちを追いかけて届いた王都の病院からの手紙は、妹の貞淑が損なわれていないと保証していた。ほっとはしたが、妹が自分の操に疑問を抱く事態に陥った事実は確かなのだ。それをどう尋ねればいいのか、セレスタンにはわからない。
話の流れで、妹の友人であり従業員でもあるカロルが話し合いに加わってくれた。内容が内容なだけに、父とセレスタンだけで尋ねるのは難しいと考えていたので助かった。検査結果を告げると、カロルは全力で驚いて尋ねて来る。
「――なに⁉ アメリーあんた、手ごめにされかけたの⁉」
そこまであけすけな言葉では、セレスタンは踏み込めない。傷つくのではないかと思って妹の顔を見ると、首を傾げてカロルを見返していた。
「手ごめって、なあに」