4話 報せと通信
「――おい、シルヴァン。なんて格好で寝ているんだ」
乱暴な揺さぶりを受けてシルヴァンは目を覚ました。目線だけを声がした方へ向けると、式典会場でシルヴァンへ休養を促した同僚だった。
――起き上がらなければならないだろうか。そうだろうな。起こされたからな。ベッドへの未練たらたらのまま寝返りを打つと、そのままシルヴァンは床に転がった。
「……なにをやっているんだ、おまえ」
同僚が無表情で見下ろした。顔色が少し回復しているから、彼も休めたのだろうか。ところでなぜ自分は床に転がったのだろう、とシルヴァンは思った。ベッドの際で寝ていたのか。
不承不承起き上がり、ひとまず床に座ったまま伸びをする。関節が嫌な音をたてた。眠気はなくなったが、なぜか休まった気がしない。しかし頭痛が軽くなったのはありがたかった。
「おはよう。さあ、さわやかな仕事の時間だ」
「今何時だ? 式典は終わったのか」
「朝の四時だよ。わたしも仮眠し今起きた。参加者は日付をまたいだあたりで全員宿泊所に戻り、会場は撤収作業を残すのみ」
「なるほど、あとは現場に任せればいいと、そうだな?」
「典礼省事務官たちが、おまえの指示をそわそわと寝ずに待っているよ」
「いったいいくつだ、おまえらでやれ‼」
思わず叫んだら腹が鳴った。ああ、自分はいつから食事をしていないんだろうか。どいつもこいつも。死ねばいいのに。
立ち上がって退室しようとしたときに、同僚が「おい、枕元にあるやつ、なんだ」と言った。
「――なに?」
「……なんじゃこりゃあ。コルセット? おまえこんなのしてたの?」
「んなわけあるか」
女性物の下着で間違いなかった。さらに見回すとベッド際の補助卓に、古い型ではあるがしっかりとした真珠の首飾りが置かれていた。きっと、どちらもお披露目客の忘れ物だろう。
「おまえ、これがあるのも気づかずにこの部屋で寝てたのか」
「そも、部屋に入ったあたりの記憶が飛んでいる」
「だからベッド使わずに寝てたのかよ。笑う」
まるで笑い事ではなかった。過労死まっしぐらの言動だ。事実その会話は両者真顔で行われた。
典礼省の事務室へ向かい、忘れ物を報告し託す。シルヴァンの姿を見た事務官たちはあからさまにほっとして指示待ち顔になった。まとめて死ねばいいのに。
届け人の署名をした。シルヴァン・ガイヤール。そして、祭りの跡を見に大広間へ。ぞろぞろと事務官たちが続いた。
しんと静まり返った早朝の大広間は、高い天井の明り取り窓から降り注ぐ淡い光で満ちていて荘厳だった。昨夜めかし込んだ男女が大勢入り乱れていた現場と同じには思えない。さすがに大方の清掃は済んでいて、あとは原状復帰だだった。
シルヴァンは深く息をつきながら「おつかれさまでした。元の状況はあなたたちの方がご存じでしょう。あとはお任せしてよさそうだ」とつぶやいた。
「――いえ、あの、ガイヤール秘書官。ぜひ御指示をいただきたく」
「なぜです? あとは備品を各省庁へ返却すればよいだけではないですか」
「あの、わたくしどもは、その。他部署との連携があまり得意ではなく……」
「それはいい! あなたたち典礼省事務官の柔和さを知らしめるよい機会だ! よかったですね、今後の式典運営の礎となる信頼を築けますよ!」
普段からお高くとまっているからいざってときに助けてもらえないんだよ。なんでテーブルひとつ椅子一脚借りるのに王太子秘書官の名前が必要なんだよ。返すときぐらい自分で頭下げろ、口だけ給料泥棒どもめが。
本音をそのままぶちまけたい気持ちを抑えながらシルヴァンは笑顔を作った。王子様仕込の黒い笑顔はこんなとき実に役に立つ。ひるんだ事務官たちへシルヴァンは「ただ、『ありがとうございました。お返しします』と言うだけです。――できますね?」とはっきりとした語調で言った。
「――はいっ」
「よろしい。いろいろお世話になりました。次回はきっと典礼省で主催したお披露目会を拝見できますね」
おそらく今後、文化事業として毎年開催されるだろう。そのたびに頼られるのは心底迷惑なので、シルヴァンは強い力を込めてそう告げた。事務官たちはこの世の終わりを見た顔をした。
腹ごしらえをするには、まだ食堂が空いていない。しかたがないのでシルヴァンは数日ぶりに自部署の事務所へと向かった。もう一度寝直すには通常業務が滞り過ぎている。
シルヴァンを起こしてくれた同僚が机に着いて無表情で書類に目を落としている。集中している証拠なので、声をかけずに湯沸室へ入った。蒸気圧コーヒー抽出器の丸底ガラス容器に水を入れ、アルコールランプにオイルマッチで火を点ける。湯が沸く間、顔を洗った。少しだけ気分がよくなった。
「――シルヴァン。これを読め。わたしが代わる」
湯沸室へ書類を持って現れた同僚は、シルヴァンにそれを押し付けた。受け取って自分の机へ向かう。書類はお披露目会開催中に生じた過失報告書だった。その中ほどのページが開かれている。椅子に座って目を走らせ、言葉を失う。
湯が沸き上がる音に次いで、コーヒーの香りが鼻孔に届いた。気合いを入れるため欠かせぬそれも、四度黙読した内容によって無効化した。シルヴァンはため息をつきながら天井を見上げる。
「――あっちゃならないな」
両手にカップを持った同僚は、重々しい声でそう言いながらシルヴァンの机へそのひとつを置いた。手を伸ばして受け取り口へ運ぶも、いつもより苦々しく感じる。
それは、過失報告書に載せるには重要過ぎる事案だった。――お披露目に参加した少女へ、不明の人物が性的な醜行を為した報告。
警備は、万全だったはずだ。怖いほどに冴え冴えとした心が記憶を過去にさかのぼる。お披露目参加者、それに職員。参加資格のない者は、たとえ官僚でも入れないよう組織した。どこだ、どこに綻びがあったんだ。
被害に遭った少女と、訴え出た者の名前をもう一度確認する。アメリー・エリオ。そしてセレスタン・エリオ。北東のグラス侯爵領を越えたところにある、小さな地域の子爵家だった。
地図上では小指の爪程度の土地だが、全国に流通している『エリオじいさん』印のチーズで有名だ。そうか、あの美味しいチーズの家の子が。知らずにため息が出る。なんと詫びればいいのかわからない。
「……今日病院へ行って、検査をするらしい。そしてその後はすぐに帰ると」
「……見舞金を出さねばならないな」
「それは、辞退されたようだ。それよりも犯人を捕まえてくれと」
「もちろんだ。なによりも優先してそうするに決まっている」
本人の心情を考えて、まだ詳しい話は聞けていないようだ。検査結果も介添人であるセレスタン・エリオ氏が手紙で報せてくれる。窓口は出席者との折衝担当だった同僚だが、会場警備を配置したシルヴァンは無関係で済まされない。
「――昨夜警備に当たっていた者たちに、聞き込みをしてこよう」
「そうだな。ミュラさんが出勤してきたら、周辺警備の件も動いてもらおう」
「……ああ、いやだ。あの人に借りを作るのか」
「ここは借りておけ。おまえが思うほど悪い人じゃない」
苦手としている先輩の名前を出されてシルヴァンは違う色のため息をついた。真面目一辺倒、冗談が通じない、自覚のない仕事人間でそもそも腹黒王子様のお気に入り。シルヴァンの腰が引ける理由しかない人だ。
その後の一週間はなんの進展もなかった。警備担当者たちとの面談はすべて終え、続報を待つのみだ。王都から蒸気機関車を乗り継ぎ六日もかかる遠方の人たちなので、そちらからの連絡はゆっくりだろう。犯人を見つけられないもどかしさはあったが、シルヴァンは通常の業務へと戻った。
そして、ひさしぶりの休日を満喫した、週明け。
「――シルヴァン」
同僚が低い声で出勤したシルヴァンを呼んだ。その机に近づくと、一枚の紙を差し出された。
緊急通信と呼ばれる、腕木信号を用いた意思伝達方法の紙だった。先の内戦のときには、この緊急通信が停戦への鍵だった。
内容に目を通し、一拍後シルヴァンは声にならない声をあげた。
『検査支障なし。犯人は黒髪。当方の真珠の首飾りを持ち帰った可能性。本人いまだ話さず。指示を仰ぐ。S.E』
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