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火の影

作者: 蛙の介

 すいませーん、と、平凡に店員を呼んでみる。誰も来ない。まぁこの混雑した店内で、決して声の大きい方ではない僕に気付けというのも無理な話だろう。

テーブルの上の呼び鈴を鳴らす。流石にこれには反応があったようだ。新人だろうか、若い女性の店員が、パタパタと慌ててやって来る。そんなに焦る必要はないのに。付け爪がぽろりと落ちた。彼女は気づかずオーダーを取ろうと構える。そこで手が止まる。

 彼女はキョロキョロと辺りを見渡し、首を傾げて、またパタパタと足早に去っていってしまう。いやいや、僕は目の前にいるのだが。どうやら彼女に、いや、他の誰にも、今僕の姿は見えていないらしい。

 この奇妙な現象の発端は、ほんの数分前の何気ない一コマである。日曜日の朝、僕が一人、モーニーングを楽しんでいると、隣のテーブルから

 カランカラン

と、何かの落ちる聞き慣れた、しかし妙な違和感を含む音がした。

 僕は音の出所を探った。どこからか床を滑って辿り着いたのだろう、テーブルの下に見慣れない、掌サイズのライターが転がっている。

 見るからに、百均製の安物ではない。ずっしりと重みがあり、銀色の表面は綺麗に磨かれ光沢を持っている。丸みは帯びているが、ほぼ正方形に近いそれは、普段タバコ等にお世話にならない僕でも、興味をそそられる程の逸品である。

「ああ〜〜〜ぁ」

 その情けない声で、僕は我に返った。声の主は隣の席で分かりやすく頭を抱えている、中年の男性のようである。その不自然な様に、彼の奥さんと娘と思しき2人も、訝しげな目を向けている。

 そのおじさんは、座ったままでも分かるくらい、痩せていて、ひょろりと背が高く、焦けた顔と歳に似合わない深いシワから、実に不健康そうな見栄えである。おじさんはしばらくぶつぶつと頭を抱え、その間に、僕はコーヒーのおかわりを頂こうと店員に声をかけた。その後の顛末が、冒頭の現象という訳である。

 さて今の僕はといえば、突然の怪奇への驚嘆はピークを過ぎ去り、ひとまずのところ落ちつきを取り戻していた。むしろ、この現象の謎を解き明かしたいという気が勝っていた。僕はわざと大きめの音を立てて席を立ち、他の客の前で思い切って動き回ってみせた。鼻と鼻が触れ合うほどの距離まで近づいても、やはり誰一人として反応はない。

 思いつく限りの迷惑行為も徒労に終わり、自分の口から溢れたはぁはぁという切れた息遣いばかりが耳に届く頃には、僕は自らの透明さをすっかり受け入れていた。セルフサービスの水をぐいっと喉に通して、用を足そうと、トイレの扉に手をかけた。

 パシッ

 ん?

 扉を閉める僕の手は外部の力で停止する。プライベートなはずの空間には、例のおじさんが共に立っている。

「なぁ君、さっき私のライターを拾ってしまったね」

 何とおじさんの言葉は、明白に僕に向けられているではないか。僕は素直に、驚きの表情をお返しする。

「ああそうだ。そうだよ。私にだけは君の姿が見えている。さっき君が拾ったライターは、私の物なんだよ」 

 突然の告白に、どう返せば良いか分からない。

「はぁ・・・あのぉ、これがあなたのならお返ししますから、その、この狭いトイレの中に2人でってのはどうにかなりませんか」

「いや、すまない。もう分かってると思うが、それは普通のライターじゃあなくてね。君はそれに触れた時点で、”この世界から消えて”しまったんだ。君を認識できるのは、いや、そもそも君のことを覚えているのは今私だけなんだよ。だから外で話すと私が一人で宙に話しかけてるように見える。分かるだろ?だから、すまないが、暫くこのままで聞いて欲しい。訳が分からないだろうが、ツッコミは無しで頼む」

 その歳でファンタジーはキツイですよと早速ツッコみたい衝動を、僕は必死に抑えた。なにせ先程からの周囲の反応と、おじさんの話とではどうも整合性が取れているように思えるのだ。僕はひとまず、おじさんの話に耳を預けることにした。

「まず、このライターは使った者を”世界から消して”くれる、そういう品だ。その人間が生きた痕跡も、姿も、全て、無かったことにしてくれるんだ」

「あの、ツッコんでもいいですか?」

「無しで頼むよ。とにかくコイツを使えば、何の困難もなく一瞬で、自分の存在を消すことが出来るんだ。ただ、色々とルールがあってね。ざっと説明しよう」


①ライターの持ち主になれるのは一人だけ。ライターを使えるのは持ち主だけ。

②持ち主以外で最初にライターに触れた者は”見届け人”となり、持ち主がライターを使用するまでの間、”世界から消える”。

③持ち主がライターを使用した後、”見届け人”が新たな持ち主となる。


「つまり君は、ライターに触れた事で”見届け人"になってしまったということになる。ここまでいいかい?」

「えっと、色々とアレですけど。まずさっきからその、”世界から消える”ってのは、つまるところ?」

「簡単に言えば、誰も君を知らず、認識もできないってことだ。ライターの持ち主である、私を除けばね。そしてライターを使えば、今度は私が”世界から消える”。私のことを覚えていられるのは、”見届け人"となった君だけだ。もっとも、ライターを使った後の私のことは、君でも認識できなくなるがね」

「なんだかややこしいですね。デスノートみたいだ」

「口の裂けた死神は、ついてこないがね」

 残念ながら、と付け加えて、おじさんははじめて笑う。笑うとシワがより一層深くなって、さらに老けて見える。

「それでだね、死神の代わりと言っては何だが、”見届け人”である君は、持ち主である私がライターを使うまで、私の傍にいてもらわなくちゃならない。だが安心してくれ。私は最期の一日として、今日が終わったらライターを使うつもりだ。君はほんの一日、それに付き合ってくれればいい」

 頭に浮かぶ無数の"?”よりも膀胱の限界の方が打ち勝った結果、僕は半信半疑ながら、おじさんの話に納得することにした。おじさんからすれば、予想に反して僕がすんなりと受け入れたのに驚いたが、必死な表情で体を左右に揺らす僕を見て事を察したのか、苦笑しながらトイレから出て行ってくれた。


 おじさんの最期の一日というのはどうも、娘である光里ちゃんの為にあるようだった。手始めに、おじさんは今日一日の決定権を娘に委ねた。光里ちゃんのご所望は動物園だった。従って僕は必然的に、小学校の遠足以来のその場所に、足を踏み入れることとなった。

 周りの人間に僕が認識されていないというのはやはり事実らしい。バスに乗る時も入場門でも、無銭で素通りしようとする僕を、誰も引き止めようとはしなかった。気持ちが悪いのでお金を置いておこうかと思ったが、どうやらそれも叶わないようだった。僕の持ち物も僕と同様に、この世界に気づいてはもらえない。

 クリスマスイブの日曜日とあって、園内の人口密度は最高潮に達している。コアラ、キリンの親子、イケメンのゴリラ・・・どこも人だかりができていて、ヒト以外の動物が何も見えない。しかしこれは光里ちゃんにとって、問題ではなかったらしい。なにせ彼女の最初のお目当ては動物ではなく、園内の遊園地だったのである。園の外れにあるそこは、アトラクションはどれも古びていて規模は小さく、大人の目につくのは、ランチ代と釣り合うほどの料金ばかりである。しかし光里ちゃんは、きっと幼い頃の僕と同じように、満面の笑みでそれらを片っぱしから制覇していった。おじさんは外から眺めるばかりだったが、僕はこっそりと一緒に乗り込んた。久々に乗るジェットコースターは随分とゆっくりで、顔に当たる風が気持ちよかった。

 その後も一家は、光里ちゃんの気の赴くままに園内を歩き回った。しかし3時を過ぎた頃、その日はじめておじさん自ら家族への要望を述べた。おじさんは家族でプリクラを撮らないかと提案した。

 休憩所の隅っこに、何十年前からあるのか、ライオンだのゾウだのコアラだののイラストに包まれたプリクラの機械が厚い埃と共に鎮座している。光里ちゃんも奥さんも、その提案を快く受け入れた。

 奥さんの印象はおじさんと違い、小柄で若々しく、可愛らしい人という感じである。おじさんと並ぶと父親と娘のようでさえあり、そこに光里ちゃんが加わって、3世代家族と見間違うほどだ。いや、実際今日、スタッフには何度も、「お父さん、娘さん、お孫さん」と呼ばれていた。一家はその度に、決して訂正する事なく、目と目で笑い合った。おじさんは顔に似合わず、奥さんのことを名前で呼んだ。2人はとても、お似合いに見えた。

 一家は年季の入ったプリクラの機械に、身を寄せ合って窮屈そうに入った。それを見て、僕の中のちょっとしたイタズラ心が顔を覗かせた。僕が写れば、それは一種の心霊写真みたいなものだと言えやしないだろうか。僕はそっと機械の中を覗き込む。

「ほら光里、パパが抱っこしてやるから。さぁ、香代はこの辺に立って」

 おじさんの声は僕と話した時と違い、柔らかく穏やかだった。光里ちゃんはおじさんの腕の中でワクワクと手足をばたつかせ、香代さんは軽く頬に熱を溜めながら、おじさんに身を寄せた。

 僕は思い付いたイタズラを、実行には移さなかった。その代わりに、せっかくの透明の時間を、最大限に有効活用することにした。

 ライオンの檻の前に仁王立ちになる。呼吸を落ち着かせ、思い切って、その檻の中に手を伸ばす。ライオンは檻のすぐそばで寝息をたてている。近くで見ると思ったよりデカい。突然ライオンが身体を揺らして本能的に手を引っ込める。もう一度えいっと手を突っ込む。掌に、野性の、全身を流れる血の熱が伝わってくる。

「おぉ」

 僕は思わず、声を漏らした。その瞬間ライオンがのそりと起き上がって、僕は飛び上がって退散した。汗だくで戻った僕の顔を見て、おじさんは周りにばれないよう静かに口元を緩めた。


「随分と”見届け人”を楽しんでいるようだね、君は」

 そう呟くように言うおじさんの、その目の奥には、真っ直ぐに香代さんと光里ちゃんが映っている。大きな黒目を収める小さな目はさながら、今さっき見てきたアジアゾウのようであった。

「そりゃあこんな経験、そうそうあることじゃあないですから。家族に持っていくこれ以上ない土産話になりますよ」

香代さんと光里ちゃんの2人は、動物柄の紙に巻かれただけの普通のクレープに随分とたくさんの小銭を出して、和かに話し込んでいた。しかしおじさんが、その会話に入ってゆくことはない。離れたベンチから、僕とともにぼーっと、その様子を眺めるばかりだった。

「君は彼女とかいないのかい」

「また唐突ですね。いませんよ、あれはフィクションの世界の、妄想の産物ですから」

「好きな子くらいはいるだろう」

「それは確かに」

「どんな子だい?」

「勝気で、背が高くて、向こう側が見えるくらいに透き通った肌をしていて、僕の事を弟か何かだと勘違いしている幼馴染みです」

「そりゃまた随分な子だね」

「ええ、しょっちゅうモデルだの何だのにスカウトされるクセに、地元で普通に教師になるような奴です。嫌味でしょう?そのオーバースペックなルックスで、毎日中坊の健全な発育を促してますよ」

「おいおい、随分好きなんだな、その子のことが」

「とっても。時々、分からなくなるくらいに」

「告白は?しないのかい?」

「来月結婚するんですよ、彼女」

「そうか。そりゃあ、めでたいな」

「すごく」

 光里ちゃんは店員から手渡されたばかりのクレープに、勢いよくかぶりつく。その拍子に、はみ出した苺が反対側から、ぽとりと地面に落ちた。僕は"見届け人”になってから、全く空腹を感じないことに、ようやくながら気がついた。

「この歳になってはじめて、自分がいかに恵まれた人間かと気づく。これ以上に幸せな人生もないよなぁ」

 太陽の足跡が空を赤く染め上げる時間帯になって、おじさんは幾分か感傷的になっているらしい。

「香代は、こんな私に愛されることを受け入れてくれた。光里に、出逢わせてくれた。光里は人の痛みが分かる優しい子に育ってくれた。2人のおかげで、私の人生に意味が生まれた」

 おじさんは明らかに、自分自身に向かって話しているように見えた。ただその言葉が、僕が今日一日、勤めて目を背けてきた罪悪感を急速に浮き上がらせた。いったん顔を出したそれを心中にとどめたままにするのは、骨が折れるだろうと思った。

「ねぇおじさん、それだけ大切な2人を残してライターを使うのは、僕が"見届け人”になってしまったから?」

 おじさんはぱっと顔を上げて、少しだけしまったという色になった。

「いや、違うよ。そう、君のせいじゃない。君が今日ライターに触れていなかったとしても、私は最初から、今日コイツを使うつもりでいたんだ」

 おじさんは最後に、本当だよ、と付け加えた。言ってから、そのせいで逆に嘘っぽくなったことを酷く後悔しているようだった。見た目に反して幼く慌てるおじさんを見て、僕はそれが本当なのだろうと信じることにした。

「なら、何でそもそも、ライターを使おうと?僕にはあなたに、ライターを使うだけの理由が見当たらない」

 おじさんは俯き加減に、軽くはははっと笑った。

「なに、大したことじゃあないさ。ありがちな話だよ。病気でね、この身体はそんなに長くない。医者には手術を勧められたが、可能性が低い上に、保険が効かないもんで馬鹿みたいに金がかかる。世界は文字通り、不平等だよな。手術を受けるとなれば、仮に上手くいっても、それから薬漬けの闘病生活になる。そうなりゃ仕事も辞めなきゃならない。借金も必要だろう。そうなった時、苦しむのは私じゃない。家族なんだよ。

 香代は、それでも私を支えると言ってくれた。その言葉だけで私にはもう十分だった。そんな時だ。このライターに出会った。君と同じさ。偶然に前の持ち主の"見届け人”になった。それから一週間だったかな、彼もライターを使った。

 はじめは迷いもあった。だが前の持ち主を”見届け”て、私もはっきりと、決心がついた。コイツは多分、そういうもんなんだ」

 僕は、おじさんの決断を尊重するという顔を作ったつもりだった。しかしどうやら、納得いかないと書かかれていたらしい。おじさんはアジアゾウの目で、僕を真っ直ぐ見つめた。それから優しくぽんっと、頭を叩いた。何故だかすごく、懐かしい感覚だった。

「なあ君に、あと2つほど迷惑をかけてもいいかい」

「そういう類の要求を、断る方法を知りません」

「素直だな、案外君は。一つはね、私が使い終わったら、このライターは破壊してくれないか。また誰かが、君の”見届け人”になっては困るからね。それからもう一つ。私がライターを使った後も、少しだけ、2人のことを”見届け”てほしいんだ。妻と娘は毎週日曜日、必ず今日と同じ店でモーニングを食べる。一度でいい。来週も、私がいなくなった後も、2人が元気でやってるかを確認してほしい。それだけだ。それだけ」

「パパ〜!」

 僕の返答は、おじさんに飛びつく光里ちゃんの声でかき消された。

「これパパにもあげる!」

 光里ちゃんは、随分と小さくなったクレープを、嬉しそうに差し出した。おじさんはそれを一口でたいらげて、光里ちゃんを抱いて立ち上がった。そしてその柔もちのような白い肌に、そっとキスをした。

 スピーカーから流れる音の割れた「蛍の光」が、来園者の帰宅を急かす。赤かった空には、淡い紺色が支配域を広げつつある。あれほど賑わっていた園内は知らぬ間に、寂れた商店街のように陰鬱な景色に変わり果てていた。

「さぁ、お別れの時間だ。今日は楽しかったか?光里」

「うん!」

「そうか、うん。パパもだよ」

「お別れって、どうしたのあなた?」

 訝しむ香代さんには応えず、おじさんは光里ちゃんを、噛み締めるようにしてゆっくりと地面に下ろした。それから胸の内ポケットからじっと、ライターを取り出した。

「ありがとう」

 その一言だけが、宙に残った。ライターの火は、深く、強くあたりを照らした。見る者を吸い込むように揺れる赤い炎の向こうで、おじさんは人知れず、影になった。


「そろそろ帰ろっか、光里」

「うん!」

 カランとライターが地面に落ちたが、その音は2人には届いていないようだった。まるで世界を丸ごと忘れたみたいに、2人は何の未練もなくその場を去った。僕はその背をじっと見送ってから、ライターを拾い上げて、胸ポケットに入れた。

「そろそろ閉園のお時間ですので」

 清掃員のおばさんにそう声をかけられ、僕もその場を後にした。すでに空の色は、深い闇色になっている。一日ぶりに帰ってきた家は、記憶していたよりずっと暗かった。


「ママ〜、私シロノワール食べたい!」

「ええーほんとに食べきれる?」

「ママと半分こすれは大丈夫!」

 母娘の微笑ましい日常が流れる。2人のやりとりを眺めるのは一週間ぶりだが、前回とは違い人の目があるので、僕は怪しまれないよう、目の前の一杯に全神経を注ぐコーヒー好きを演じた。演技はなかなかだったようで、僕のことを気に留める人間はいなかった。その証拠に、僕の周りには空席が目立っていた。

 一時間ほど経って、母娘はシロノワールの残骸を残して席を立った。僕は最後の任務を全うするため、2人が店を出るところまでを”見届け”るつもりだった。

 ぱたっと音がして、香代さんのハンドバッグから、小さな手帳が溢れた。

 彼女は気づかぬまま、娘の手を引き立ち去ろうとする。

僕は一瞬の躊躇の後、手帳を拾い上げて後を追った。

「これ、落とされましたよ」

「えっ?あぁ!ありがとうございます。ご丁寧にどうも」

 香代さんはそう言って軽く頭を下げる。僕は手帳を手渡そうとして、じっとその手を止めた。手帳の表紙に貼られた、動物柄のプリクラシールが目に留まった。

「?どうかなさいましたか?」

「あ、いえ、その写真・・・素敵だなぁと。娘さんとの思い出ですか」

「ああこれ、ええ、先週娘と2人で動物園に行って、その時にね。大したものじゃないんですけど、でも何でかな、この写真すごく不思議なんです。なんて言うか、2人で撮ったはずなんですけど、実際、2人しか写ってないんですけど。ここにね、誰かもう一人、写っていたような気がするんです。しかも、それが何だかすごく大切な気がして。この写真を見てるとなんかこう、心が暖まると言うか、守られているような、そんな気がするんです」

 彼女はじっと写真を見つめながら、懐かしむように言った。その目が一瞬、アジアゾウの目に見えて、僕の胸をぽんっとついた。

「あっ、すみません。私何を・・・訳の分からないことをペラペラとお恥ずかしい。失礼します。手帳、ありがとうございました」

 頬を赤らめて、香代さんは足早に去る。その背を見送る僕に光里ちゃんが気がついて、小さな手を控えめに左右させた。僕も腰の横で、小さく手を振り返した。


 外が濡れているのが見えたので、僕は店を出るのを遅らせることにした。コーヒーのおかわりを頼んで、一口含む。時計の針がくるりと回って、気付けば客の数は、だいぶと落ち着いてきていた。

 彼女の存在は、店に足を踏み入れた瞬間から明らかに異質だった。しかもその異質な存在は、僕の顔を見つけるなり、迷いなく真っ直ぐと、こちらに向かってやって来た。

「自分で呼んでおいて、私が近づいてくるのを嫌そうに眺めないでよ」

「別にそんな目で見てないよ。ただ、きぃ姉の脚が不自然なくらい長いから見惚れただけ」

「あら、そんなこと言っても何にも出やしないわよ」

 そう言って彼女は財布を取り出し、諭吉をチラッと見せてから、ゼロの一つ少ない紙片をテーブルの上に置いた。僕はそれをはっきり無視した。

「それで?今日は何の用事?久しぶりじゃない?あんたと会うの」

「あぁたぶん、3年前に会ったきりじゃないかな」

「3年か。もうそんなになるか」

「そんなになるよ」

 きぃ姉は僕のコーヒーを一口飲んでから、店員を呼ぼうと声を上げだ。けれどそれに応える者は、誰もいない。

「ちょっと、何で誰も来ないのよ。あの店員とか明らかに暇そうじゃない」

「仕方ないよ、聞こえてないんだから。目の前で叫んだって、彼らは反応しないよ」

「?どういう意味?」

「説明は後でするよ。それよりさ、とりあえず、結婚おめでとう。ずっと伝えそびれてたから。気になってたんだ」

「なに、そんなことで呼んだの?別に電話でも何でもよかったのに。あんたは家族みたいなもんだし、改まって言われるとちょっと恥ずかしいわ」

 きぃ姉はしししっと嬉しそうに笑った。僕もつられて頬が緩んだ。

「それでね、結婚したら、今までみたいにはいかないだろうから。だから最後にさ、少しだけ、迷惑をかけさせてよ」

「相変わらず、遠回しで分かりにくい言い方が好きねぇ、あんたも。もう少し、素直な表現はないの?」

 僕は応える代わりに、ライターをテーブルの上に出した。銀色のそれはいつも、見る者の興味を惹きつけた。

「きぃ姉にはさっき、これに触れてもらった。それできぃ姉は今、僕の”見届け人”になったんだ。僕がこれを使うまでは、きぃ姉の声も姿も僕以外の誰にも認識できないし、誰一人として、きぃ姉のことを覚えてもいない」

 きぃ姉はその怪しげな説明を、ふむふむと楽しげに聞いた。おかげで僕も、余計な不安を抱えずにすんだ。

「それで、僕がこれを使ったらね。他の誰かに触られる前に、さっさと壊して欲しいんだ。ハンマーでも何でも、溶かしてもいいし、そういう荒っぽいのは、昔から僕より得意でしょ?」

 きぃ姉はまたしししっと笑って、それ以上は何も聞かなかった。

 一時間以上は、過ぎただろうか。昼時が近づいて、店も賑わいを取り戻し始めた。僕の独り言も、そろそろ潮時だろうと思った。

「それじゃあ、そろそろ行くね」

「行く前に、もう本当に、言うことはないの?」

 きぃ姉の、その少しだけ寂しげな問いが、僕に迷いを生んた。迷った結果、たぶん、適切でない方の答えを選んだ。

「好きだった。とっても。たぶん、きっと、きぃ姉が結婚する人よりも、長く、深く好きだった。だから、きぃ姉がいてくれて本当に良かった。姉さんとして接してくれて、嬉しかった。弟として生意気できて、幸せだった。ありがとう、きぃ姉」

 きぃ姉はまたしししっと口を開き、目を細めた。唇が僅かに震えているのが見えて、僕もしししっと笑った。

「私こそ。たぶん、きっと、私も誰よりもあんたのことを愛してた。大切だった」

 そう言って最後に、ありがとう、と遠慮がちに加えた。口に運んだ冷めたコーヒーが、できたばかりの口内炎にピリッと染みた。

 カチッカチッ、カチッ

 シュボー

 ライターは思ったよりも固くて、火をつけるのに手間取った。僕らは一緒に、揺れる火の影を”見届け”た。

 


 赤い炎を抜けた先は、太陽の光みたいに真っ白だった。その奥に、点々と、小さく影が見えた。

 家族は僕の話を、楽しみにしてくれていたみたいだった。僕は手品の種明かしをするみたいに、勿体ぶって、話し始めた。

「あのね」


 完

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