閑話:借りの返済(2)
久しぶりの更新となりました!
ぜひ、お楽しみいただければ幸いです。
「あーん」
にこりと満面の笑みを浮かべた蓬藍に、甘味をすくった匙を口元に差し出され私は凍りついた。甘い声で促されるほど表情が強張ってしまい唇が思うように動かせない。
「ほら、この可愛い口をお開け」
中々口を開けない私に蓬藍がもう一度声をかける。その声色は蕩けるように甘いのに、見下ろす視線は背筋が震えるほど冷静だ。故にこれが決して悪巫山戯の茶番ではないと分かる。しかしだからといって人の心がそう簡単に動かせるわけではない。早く言われる通りにしなければと思えば思うほど、私の心は狼狽と緊張と困惑と、そういった思いつく限りの複雑な感情に翻弄され体は言うことをきかなくなった。
一体全体、この国のどこのどんな小娘だったら、正真正銘の第二王子で、辣腕を振るうと恐れられる行政院長で、上品極まりない涼やかな美男子で、そしてそんな彼の膝であーんなんぞをされて平然と微笑んでなどいられると思うのか。白蓮や輝晶のあれやこれやに散々振り回されて相当鍛えられていると思う私でも、さすがにこれは難しい。しかしそんな私の煩悶などとっくにお見通しの蓬藍は、耳元に顔を寄せると優しく囁いた。
「澪君、奴隷に拒否権はないんですよ。従えないのなら仕方ない、気持ちが良くなるお薬でも使いましょうか?」
この上なく上品に微笑みながら恐ろしいことを言われて、私は震えるようにぶるぶると首を振った。側から見ればまるで睦言を交わして戯れる男女のようにしか見えないだろう。しかし実際は借りの返済のために奴隷として身売りした侍従と、優しい笑顔で権力を振りかざす暴君の第二皇子のという組み合わせだ。甘いことなど何もない。二人の間に吹き荒れるのは世知辛い木枯らしだ。囁かれている内容も睦言ではなく、薬を飲ませてでも意に従わせるぞという背筋の凍るような脅しである。
「顔が強張っていますよ、ほら微笑んで」
「ひぅ……」
スプーンを挟んだ指先で頬を突かれると吸い込んだ息が喉に絡まる。何とか言われた通りにしようと奮闘してぎこちなく唇を開くと、わずかな隙間に冷たい匙が強引に割り込む。舌先に硬い感触が当たると、途端にむせ返りそうなほどの甘ったるい味が口中に広がる。緊張と羞恥と脳天を直撃するような甘さにくらくらと目眩がした。思わず蓬藍の上着の襟元にしがみつくと、彼は蕩けるような笑みを作って私の額に口元を寄せる。
決して戯れているのではない。その間に表情を取り繕えということだろう。私は心を無にしてただ蓬藍の要求に応じる。そもそもこの話を借りの返済のために引き受けると決めた時から、私のなけなしの矜持などとっくに売り払ってしまっているのだ。足蹴にされようが、靴を舐めさせられようが、どんな扱いをされても三日間は耐えると決めて来ている。
それがまさかこんなことになるとは夢にも思っていなかったが、それも今更だと諦めて私は体の力を抜いた。蓬藍の胸にしなだれかかるようにして頬を預けると、羞恥で死にそうな一方で、だんだんと何もかもがどうでもよくなってくる。背後から護衛のために左右に立った海星と何故かいる九虎の、呆れ果てているであろう冷たい視線が突き刺ささるような気がした。
それでも関係ない。今の私が第二王子への返済に支払えるものなど、私以外に何もないのだから。昨日の夕方、白蓮の執務室を出た時には、もっと無体な扱いにも耐える覚悟をしていたのだ。それに比べれば膝に抱っこされて、脳天の痺れるような甘味をあーんされることなど大したことではない。私は自分の全身は砂糖菓子で出来ているのだという自己暗示をかけて現実逃避した。そしてなんとか儚く可憐なし美少女に見えるように精一杯振る舞う。
「美味しいでしょう? 君のために特別に取り寄せたのですよ」
蓬藍が蕩けるような甘い声を出すと、ぎゅっと胃の腑が縮み上がった。
「……う、嬉しゅうございます」
何とかそれらしい回答を捻り出して笑顔を作る。それが今の私にできる精一杯だ。色々耐えすぎて見上げる瞳が潤み気味なのは許してほしい。迫り上がる感情をぐっと堪えて瞬きすると、芸を覚えた子犬を褒めるように蓬藍は目を細めた。
「さあ、もう一口」
「……はい」
この苦行はあの小鉢を食べ尽くすまで終わらないのだと思うと泣きたくなる。天虹国に来て何が辛かったかと問われたら、間違いなく今日のこれはトップスリーに入るだろう。しかも今はまだ一日目の夜。この苦行はあと二日も続くのだ──。
私が自分の売り渡したものの本当の価値を知ったのは、つい一刻半ほど前のことだ。だが本当は昨日の夕方に一人で蓬藍の屋敷を訪ねて、待ち構えていた侍女達に入念に風呂に入れられた後、この国では珍しいという私の黒髪と全く同色の長い付け毛をこれでもかと編み込まれた時から、何かがおかしいことには気付きはじめていた。
しかし奴隷として三日間を売り渡した私に理由を尋ねる権利はない。そもそも今更知ったとことろで何もできはしないのだ。何をされても、何をさせられても耐えると、そういう約束で貸しは帳消しになっている。だから私は余計なことは知るなという白蓮の忠告を思い出し、些細な違和感は胸の隅に追いやって、ただ言われること求められることに大人しく従った。
蓬藍自身は仕事が忙しく、移動するのは同じ隊だが馬車は別立てで、直接顔を会わせるのも外遊先の宿についでからだと聞いたのも私を安心させる材料になった。その上、冷遇されると思い込んでいた予想に反して、蓬藍の屋敷で私を迎えてくれた侍女達はなぜか皆非常に上機嫌で、あれやこれやと世話を焼いてくれ歓待に近い扱いだったのも私をすっかりと油断させた。途中で侍従長までが様子を見に顔を出し、何を勘違いしたのかどうかご主人様をよろしくお願いいたしますと挨拶までされてしまったのだ。今考えると自分の能天気さを呪いたい。あの時点でこの展開を知らなかったは、唯一私本人ただ一人だったのだ。
今回の目的地は外遊といっても正確には天虹国内だ。しかし国境にあってかなり独自色の強い地域だった。本来ならばもっと日数のかかる場所なのを、忙しい蓬藍のため休憩の度に馬を総入れ替えするという贅沢をして最速で移動して来た。
まだ日の昇らない早朝に出発して夕方に目的地の宿に到着したのが二刻前。それからしばらくして蓬藍の部屋に呼ばれたのがそのすぐ後のことである。そこで私は奴隷として売り渡した三日間に何をさせられるのかを知った。
「あ、愛玩奴隷……?」
「おや、白蓮から聞きませんでしたか」
広げられた衣装を前に蓬藍はおっとりと首を傾げる。その仕草はいかにも高貴で世間知らずな風に見えるのだが、しかし全てはまやかしだ。でなければ行政院長など到底務まるはずがない。蓬藍は移動中も馬車の中でずっと仕事をしてたはずだが、長椅子に腰掛けた今も彼の周りには今もまだ読みかけの書類が山のように積まれている。目の前に置かれた広い卓も同じように書類で埋まっていた。白蓮も相当なハードワーカーだと思っていたが、どうやら蓬藍の多忙さはその上を行くらしい。よく見れば目の下にはうっすらとかかる隈がある。
そんな蓬藍の斜め後ろには彼の護衛を勤める海星と、そして何故か軍兵員所属のはずの九虎がいた。この部屋に一歩足を踏み入れた時から終始、二人は物凄く可哀想なものを見る目で私を見ている。
「この国で奴隷といえば、愛玩奴隷しかいないでしょう?」
「そんな……」
私は蓬藍の向かい側に置かれた長椅子の上に広げたれた衣装を呆然と眺める。愛玩奴隷、はじめて聞いた言葉なのに嫌な予感しかない。様々な憶測が私の脳内を瞬時に目紛しく駆け回り、そしてすぐに一つの結論に至る。私は長椅子の背を両手で掴み、そのままがっくりと床に座り込んで天に向かって叫びたい衝動を必死で堪えた。
『お〜の〜れ〜、白蓮! おぬし騙したな!!!』
そういうことだ。というか目の前の御仁もグルなのだ。微笑んで頬に手を当て首を傾げる姿がなんとも白々しい。どおりで白蓮もいつも以上に優しかったはずである。二人とも私がこの国の習慣に疎いと知っていて、わざと誤解させたままでいたのだ。今回どんな役回りを引き受けさせるつもりか、本当のことを言えば私が絶対渋ると分かっていたからだである。
何故、白蓮が知っていたと分かるかは簡単だ。証拠は目の前に広げられた衣装にある。それは見覚えのありすぎる衣装だった。いつぞや白蓮が輝晶だか錦屋だかに依頼して仕立てさせた、一体何時何処でこんなものを着る機会があるのだろうか、一生ないだろうと心中でツッコミをいれまくっていた、無駄にビラビラしたアレである。
しかし現実の私は用意された衣装を前に、ただ呆然と言葉を詰まらせることしかできない。全ては後の祭りなのだ。誰も嘘はついていない、ただ私が勘違いしていただけなのだから……。
「そうだ、忘れないよう先に伝えておきますが、髪は解かずにそのまま白蓮殿の元に帰ってくださいね」
「……は?」
「貴方の髪の色は珍しいでしょう? 合う付け髪を探すのは中々に難儀でした。そのまま差し上げることになっていますから、解かずに帰ってくださいね。丁寧に付けていますから、あと一月はそのまま持つそうですよ」
「え……?」
再びにこりと微笑んだ蓬藍に、私は長椅子に置かれた手近な枕を投げつけたい衝動を必死に堪える。私が言いたいことは一つだけだ。
『白〜蓮〜、買収されたな!!』
である。その時の光景が目に浮かぶ。だが一方で急に恐ろしくもなった。みっしりと編み込まれたこの付け髪、あの白蓮が自力で調達できないほど珍しいものだとしたら、一体全体どれほど貴重なものなのか……。私が俯いて様々な憶測に悶々としていると、蓬藍がふふっと小さな笑みを零す。
「澪くん、貴方はこの天虹国で、労働奴隷を見たことがありますか?」
突然の問いかけに顔を上げた私は、たっぷり一呼吸置いてゆっくりと首を振る。そうなのだ、最初にこの話を聞いた時にも思ったが、蓬藍の言う通り私はこの国に来てから、いわゆる奴隷らしい奴隷を見たことがなかった。
私がこの国に来て最初に就いてたのは王城の下働きをする下女の仕事だったが、それでも給与はちゃんと支払われていたし、制服も支給されて寮もあった。もちろん決して楽な仕事ではなかったが、こういう世界にしては、そして下女という仕事にしては、随分と福利厚生がいいなとずっと思っていた。だから海星も私にその仕事を紹介してくれたのだろう。
他にも色々な仕事はあるが、私がかつて歴史の授業で習ったような、いわゆる奴隷的な扱いで働かされる人というのを私はこの国で見たことがない。
「ないでしょう?」
「はい、確かに……」
「当然です、奴隷なんて必要ないんですから。商業で成り立つこの国にとって労働はとても尊いものです。どんな仕事にも働き手は見つかりますし、努力次第でそこから如何様にも成り上がれる。貴族であっても金儲けに精を出すし、成功した商人は貴賎に関係なく賞賛される。逆にいえば労働奴隷を使わなければならないような商業主は、商売下手だと自ら公言しているようなものです。故にそんな恥ずかしいことは誰もしない」
「労働奴隷は、いない?」
「ええ、この国に限ってはですが。その代わり商業を維持するために『奉公』や『徒弟』といった慣習が整備されています。割安な労働力が常に一定数供給される仕組みがあり、一方で働く側も一から仕事が学べる。とても合理的でしょう?」
「はい。……でも、では愛玩奴隷というのは?」
「その名の通り、愛玩するための奴隷ですよ。金持ちの究極の娯楽、贅沢な悪趣味、残酷な偏愛」
「はぁ……」
私は首を傾げる。そんな私の反応に蓬藍は笑みを深くした。
「愛でるためだけに飼われる存在。まあ、なってみたほうが早いでしょう。そのためにせっかくの貸しを使って取引したのですからね。ささ、支度を」
蓬藍が軽く指先を振ると、何処からともなく彼の屋敷から同行してきた侍女二人が姿を現して、がしりと両脇から私を捕まえた。驚いている間にそのままずるずると別の部屋に引きずられて行く。
何だか物凄く怖いんですけどっ!
……そしてこの扱い、何だか物凄く既視感があるんですけどっ!!
夏煌祭一日目の出来事を思い出した私は、一人煩悶しつつ、嬉々とした侍女達に引きずられてその部屋を後にした。




