夏煌祭の三日間〈第三夜〉本日は休日なり(10)
三日目は終わりそうで、もう少々続きます。
「何をしている」
白蓮はちらりと室内を見回すと応接セットの卓に視線を戻した。
「は、白蓮様こそ。今夜はもうお休みになられたのかと……」
私も書類を広げた卓の上を見る。私の目算ではキリのいいところまで後一刻程はかかる見込みだ。ここで中断するのは気持ちが悪いなと思いながら恐る恐る白蓮に視線を戻すと、彼はふうと息を吐いた。
「片付けてくれたのか」
「はい、あの……その方が明日の仕事がしやすいかと思って」
「そうか」
そう言うと彼はふらりと厨の方に行く。
「白蓮様?」
「続けていなさい」
私が白蓮が消えた方を気にしながら続きをしていると、しばらくして盆に二つの茶器を載せて戻ってきた。一つを私の前に置きもう一つを持って向かいの席に腰掛ける。どうやら茶を淹れてくれたらしい。
「……ありがとうございます」
私は茶器を受け取ると、両手の中でほかほかと湯気を立てる淡い緑色の液体をしばし見つめる。
「ふっ、安心しろ、ただの茶だ。なかなかいい香りだろう?」
私が今日、輝晶にされた懇切丁寧な忠告を思い出していたのを見透かされたらしい。
「け、決して疑っているわけでは……」
「よい、そのくらい気を付けるのが正しい」
「……いただきます」
口に含むと程よい酸味の後に柑橘系の爽やかな香りが鼻に抜ける。少し暑くなってきた夏の夜に心が和む味だった。
「美味しいです」
「ああ、美味いな」
二人で向かいに腰掛けたまましばらく無言で茶を啜る。
「片付けてくれて助かった。これからしようと思ってきたのだ」
「そうでしたか」
「それは?」
白蓮は茶を片手に足を組み、クッションにゆったりと寄りかかると卓上の書類を指差す。
「明日の準備をしていました。予定の確認とか朝議の準備とか」
「そうか……それもしようと思ってきたが」
「すみません」
「なぜ謝る? 助かるよ」
そう言って再び茶器に口をつける。
「手伝おう」
「ありがとうございます! 実は確認したいところが少しあって──」
私が書類片手に身を乗り出すと、唇にほんのりと笑みを浮かべた白蓮が鷹揚に頷いた。
「ああ、どこだ?」
それから半時ほど二人で仕事をする。
仕事と言っても私が書類片手に色々と質問し、それにクッションに寄りかかってのんびりと茶を啜る白蓮が、「ああ」とか「いいや」とか「それはこちらに仕舞え」とか「あちらの方が優先だ」という答えを返すというものだ。
しかし、何を聞いても打てば響くような返事が返ってくるので非常に捗る。私の目算の半分以下の時間で、目算よりも大分色々なものが片付いてしまった。
そのまま白蓮が入れた二杯目の茶を味わいつつ、何とはなしに話をしていると、静かな室内に不意にノックの音が響く。
驚いた私が反射的に立ち上がって扉の方に行こうとすると、白蓮が腕を伸ばしてそれを制する。逆に彼が立ち上がり扉から少し離れた位置で立ち止まった。
「夜分遅くに大変失礼をいたします。白蓮様宛に軍兵院より使いでございます」
「夜分に申し訳ございません、九虎です。輝晶様からの言伝をお持ちいたしました」
医薬院の警護をする衛兵が告げた後、聞き覚えのある九虎の声がする。
「遅い時間に申し訳ございません。輝晶様が、その、白蓮様はまだ起きていらっしゃるだろうから届けて欲しいと言うものですから……」
九虎が控えめな声で告げると、少しの沈黙の後に白蓮は内鍵を外さないまま細く扉を開けた。内鍵はチェーンのようなもので、掛けたままでも顔一つ分の幅は扉が開けられるようになっている。
扉が開いた瞬間にさっと室内の様子を確認した九虎と目が合ったが、何故か慌てたように逸らされた。
「返事は明日送る」
「ありがとうございます」
最低限のやり取りで言伝を受け取ると、白蓮は直ぐに鍵を締めなおして戻ってくきた。そのまま私の座る椅子の傍らに立ちじっと私を見下ろす。私が首を傾げると白蓮が大きな溜息をついた。
「やはり我陵の言う通り、そなたにはそもそも警戒心というものが存在しないようだな」
「えっと……」
「いいか、こんな深夜の訪は決して扉は開けてはならぬ」
「はい……」
「どんな不埒者が成りすましているか分からぬのだぞ。そのつもりがなくとも魔が差すということもある」
白蓮がさっと私に視線を走らせると眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
「私は開けたが其方は駄目だ。寝ていても必ず私に相談するか、もし一人ならば何と言われても絶対に扉は開けるな、居留守を使え。本当に火急の用であれば屋敷の方にも連絡が行く。相手が立ち去った後に、衛兵なり門番なり、相手に伝令を送るなりして改めて確認すればよい、分かったな?」
「……はい」
私は慌てて下を向いた。
疲れているのだとか寝不足なのだとか、そういえば今夜は月が綺麗だなとか、色々と気を逸らそうと試みるがほとんど効果は無い。瞬く間に目元が熱くなり、堪えきれず溢れた涙がぽとりと膝に落ちた。
部屋は洋燈二つの灯りで薄暗いし、涙はこんなに小さい雫だし、平然としていてれば気付かないだろうと思うのだが、こんな時に限って目敏さを発揮する白蓮が恨めしくなる。
すぐに気が付いて、彼が小さく息を呑んだのが分かった。
もう! 放っておいてくれればいいのに!!
「……何故泣く?」
「泣いてません……」
私は顔を逸らす。目元を拭いたいが、そんなことをすれば余計に彼の推測を裏付けることになる。溜息をついた白蓮が、言伝を卓に放り投げると私の隣に腰を下ろし、伸ばした指先で俯いた私の目元を拭った。
「泣いている」
仮説を確かめた科学者のような冷静な声で言う。
「泣いては、いな……怒られたからじゃ……」
「じゃあ、何故だ?」
「その……私が……侍従なのに、役に立たないから、うぅ……ひっく」
言葉にするとその言葉に煽られて余計に涙が零れる。耐えきれなくて袖で涙を拭うと、白蓮がそんな私の顔を覗き込んだ。
「役に立たない?」
「だって、ひっく……ある、主の代わりに言伝も、受け取れないのに」
「それは……」
「白蓮様に、迷惑ばかりかけて……余計な仕事を、ふやしているだけ……。ううぅ、ひっく、ごめんなさい……」
話しているうちに余計に感情が煽られて昂り、自分でもコントロールしきれなくなる。そんな自分が嫌で余計に悲しくなった。
「だから、おこ、おこられたからじゃ……じぶんが、ふがいなくて……」
隣で白蓮が深い溜息を吐く。それが呆れられているようで失望されているようで、私はさらに悲しくなった。
三十五にもなってこんなことで泣くなんて恥ずかしすぎる。それでも一度溢れ出した涙は、どんなに堪えようとしても中々止まってはくれない。ぽたりぽたりと大粒になって顎の先から膝に落ちる。
「まったく、まだ葉周の研修を受けていたのだし、分からぬことがあるのは当然だ。むしろ仕事はこれからだろう。それに其方は今でも十分に役に立っている」
「ひっく……ううぅ、でもめいわくを……」
「それは確かにそうだが、迷惑だけでなく相応の利もあった。この国の暮らしに慣れれば、その辺ももっと上手くこなせるようになるだろう」
「ひうぅっ……」
「だが、それと其方の警戒が足りないのは別の話だ」
白蓮は再び私の目元を指先で拭うと、顔を覗き込んで視線を合わせた。
「私でも、いいか私はこの歳になってもだ、未だに肌身離さずコレを持ち歩いている」
そう言って彼は夜衣の帯の間から取出した物を私の目の前に差し出す。それは彼の手のひらにすっぽりと収まるサイズの小刀だった。
白蓮が慣れた手つきで装飾の無い飴色の鞘を外すと、夜目にも分かるほど細く鋭く研ぎ上げられた切っ先が現れる。彼はそれを戯れるように指先でくるくると操ると再び鞘に納めた。たったそれだけで彼がどれほどその扱いに精通しているのかが分かって私は目を瞬いた。
「苦労したが、体の一部のように自在に扱えるようになるまで訓練した。輝晶も知らぬだろうが、剣も他の武器もそれなりに扱える。小刀は持ち歩くだけでなく、執務室の引き出しにも枕の下にもあらゆる所に忍ばせてある。香りを嗅げば茶に混ぜられた薬の種類が分かるし、万が一飲んでもある程度耐えられるように毒に体も慣らしてある。だがそのどれも其方はしていないだろう?」
「それは……」
「これまで必要のない暮らしをしてたのだから仕方ない。これから輝晶や葉周に習って身につけてゆけばいい。しかし、だからこそ出来ぬうちは余計に警戒する必要がある」
「あ……」
「さっき我陵も言っていただろう。昔の、特に若い頃の私は非常に危険が多かった。付け狙われた事も一度や二度では無いし、薬を盛られたこともある。何故だか分かるか?」
「それは、白蓮様がとても……、でも私は」
白蓮が私の頬に手を添えてぐっと上向かせる。
「まだ分かっていないようだな?」
見下ろした白蓮がすうと目を細めた。薄暗い部屋の中で色彩の淡い白蓮の瞳は瞳孔が開き、洋燈の灯りを反射して普段とは違った輝きを放つ。
「其方は美しい」
「え……?」
一瞬、何を言われたのか分からなくてぽかんとした私を、しかし白蓮は真っ直ぐに視線を合わせてもう一度告げる。
「其方は美しい。知っているだろう、私は美しく無いものは嫌いだ。身近に侍らせたりはしない」
「あの……」
「いい加減に自覚しろ」
「……はい」
私は素直に頷いた。
美しく無いものは嫌いだなどと言う説明は荒唐無稽のようだが、しかし不思議と今までされたどの説明よりも私の中にしっくりと収まった。
「それを自覚して自衛しない限り巻き込まれ続ける。巻き込まれて傷付くのは其方だ。私は其方が傷付くのも、優秀な侍従を失うことも望まない。故に自衛しろ」
私はもう一度頷いた。早速、明日葉周に護身術を習えないか相談してみようと計画を思いを巡らせていると、白蓮が手を離して腕を組む。
「だが、自覚が無い事や隙があるなどと感覚的なことを、いくら言葉で説明したところで理解できるまい」
白蓮は私を見据えたまま再び目を細める。
「そう……ですね」
私はすっかり涙の引っ込んだ頬に片手を当てて首を傾げる。
「うーん、やっぱり、感覚的には分かっていないかもしれません……。でも、手法として学べるところはしっかり学んで、それで──」
「はぁ、もう今夜はこのくらいにしよう。その資料を私の私室に運んでくれ」
息をつき、さっと気分を切り替えた白蓮が、ひょいと指先でついてくるように示す。
「分かりました」
私は卓上の資料を片付けると、指示された資料をかかえて後に続いた。疲れたと言いつつも、白蓮は寝る前にもう一度目を通すつもりなのだろう。私ももうそろそろ眠気が限界だった。白蓮の切り替えの早さに助けられつつ私も席を立った。
「会計関連の書類は寝台の隣の小卓に置いておいてくれ」
彼の自室に入ると白蓮が指示を出す。私は言われた通りの場所に言われた通りに抱えた資料を並べていく。
「白蓮様、残りの資料はどこに──」
会計関連の書類を置き終わって、次の指示を仰ごうと振り返ると背中に軽い衝撃があった。ふわりと体が傾げ、気付くと天地が逆になっている。
頬にふさりと何かが触れる感触がして横を向くと、見覚えのある銀髪が幾筋か流れ落ちて布団の上に渦を作っていた。
見上げると息もかかるほど間近に白蓮の顔がある。
慌てて起き上がろうと肘を付くが、肩を押されて再び仰向けに倒れ込んでしまった。
何も手荒なことをされてはいないのに少しも自由に動けない。私は一瞬で白蓮に寝台の上に押し倒され抑え込まれていた。
「澪、これがな、隙があるということだ」
驚いて固まった私に、顔の両側に腕をついてのしかかった白蓮が、目を細めて不敵な笑みを浮かべた。
相変わらず、最後まで振り回される澪でした。
次は、新しいお話に突入します。




