夏煌祭の三日間〈第三夜〉本日は休日なり(1)
澪が目覚めると、隣にいるのは白蓮ではなく輝晶。
一体、何が起こったのか……。
これは……うん、別の神だな。
一瞬、私は全くどうでもいい事を考えて現実逃避した。
目の前に肘枕で長々と横たわる男は、長い髪を黄金の水面のように布団の上に揺蕩わせ、深いエーゲ海色の瞳を細めてこちらを見つめている。
着ているのは淡い草色の、アラビアンナイトに出てきそうなゆったりとした夜衣。襟元に一列に連なる小さな釦は上の幾つかが外され、そこから太い首筋や逞しい胸元が覗く。
文句のつけようがないギリシャ彫刻の傑作、どこからどう見ても見間違いようが無い、輝晶である。
……アラブの王族か!! って、ツッコミたいけどね。
うん、この人の場合洒落にならないんだよね。
私の昨夜の記憶が正しければ、この人は恐らく真ん中の男と蓬藍の叔父、つまりは現王の兄弟のはずだ。冗談では無く真面目に王族なのだ。
そして、さらに私の記憶が正しければ、輝晶と同じ寝台で寝ていることも、それが全く見知らぬ寝室であることも、私には一切、皆目、全然、少しも心当たりがないのだった。つまりさっぱり記憶がない。
唯一分かるのは、私は昨夜、あの後、また何かをやらかしてしまったという一番分かりたく無い事だけである。だから今、このような状況に陥っているに違いない。
一体全体、私は何をやらかしたのか……。
知りたいが、知りたく無い。全力で知りたく無い……。
色々恐ろしすぎて、私の思考は完全に停止していた。
何か言いたいのだが、何も言葉が出てこず、もどかし気に唇が震える。私が途方に暮れていると、輝晶がにやりと唇の端を歪めた。
「おや、覚えていないのか? あんなにあざとく俺を誘ってたというのに」
肘枕を付いてのんびりと寝そべった輝晶が、わざとらしく肩を竦める。私はごくりと唾を飲み込むと、何とかその場を凌ぐ返事を絞り出した。
「ご、ご冗談は、おやめください」
とにかく時間を稼いで、その間にこの状況を把握しなければ。
白蓮の屋敷や執務室の寝室でないならば、次に可能性が高そうなのは蓬藍の屋敷の客間だろうか。宴が朝方に終わり、休憩を兼ねて一泊してから帰る、というのはいかにもありそうな流れではないか。
半開にされた帳の合間からは、晴天の鮮やかな日差しが差し込み、細く開けられた窓から流れ込む爽やかな微風に乗って、長閑に響く小鳥の囀りと、芳しい茶の香が漂ってくる。
十分に眠った体は心地よい気だるさに満ちていて、もしも目覚めたのが白蓮の屋敷であったなら、葉周が用意してくれる美味しい朝餉を中庭で食べ、食後に花茶でも楽しんで、そして白蓮と最近読んだ本の感想でも語り合うと言う、お手本のような素晴らしい休日の幕開けとなったことだろう。
しかし、白蓮と思っていた背後の人物が白蓮ではなかった今、私の置かれた状況と精神状態は百八十度方向転換した。全く見知らぬ寝室で全く想定外の人物と同衾して目覚めるという『これ以上無い貞操の危機パートⅡ』に直面しているからだ。
私って、そんなに危機感無いですかね!?
これでも、ものすごく、ものすご〜く、私なりには気を付けているつもりなんですけど……。
何か言おうとするのだが、相変わらず何も言葉が出てこない。
この状況で、今一番確認したいのは、眠っていた間にこの身が一体どの様な扱いを受けていたのかという事だが、しかし今この場で確認するのは弱味を曝け出しているに等しいし、そしてあまりに無粋に過ぎて憚られた。
それでも無意識の内に上着の裾を弄っていると、目敏く見咎めた輝晶にその腕を掴まれる。軽く引かれた次の瞬間、寝転ぶ彼に添い寝するような形で抱きこまれていた。
輝晶のくつくつという笑いが、くっついた胸を通じて響いてくる。
「き、輝晶様……はな……」
「ははっ、そう怖がるな。お前があまりにも予想通りの反応をしてくれるから、面白くてついな」
「な……」
私は輝晶を見上げて固まる。
「ん? どうした、震えているな」
「え……」
「ちょっと揶揄っただけだろう? そこまで驚かせたつもりはないが……ああ、俺が怖いのか?」
「そ、そういう訳では……これは……」
私は自分の胸の前で両手を握り合わせる。指先が石のように冷たくなってじんと痺れている。ぶるぶると言う訳ではないが、でもぷるぷるぐらいはしているかも知れない。
寝起きの不意を突かれ、自分が全くコントロールしきれていないのだ。
昨夜の部屋に閉じ込められた一件に、その前夜の輝晶に色々脅された一件がさらに重なって、私の寝起きの頭の中をぐるぐると巡っている。
正直なところ、自分でも何に怯えているのかははっきりと説明できない。
だが怖い、ものすごく怖い。
緊張で腹の底が石でも飲み込んだように重くなり胸が詰まった。
ああ……目覚めて、隣に寝ているのがいつものように白蓮だったなら、そうだったなら、一体どれ程ほっとしたことだろう──。
泣きたい気持ちを必死で抑え込んでいると、輝晶が私の顔を覗き込む。さっきまでの揶揄うような表情は鳴りを潜め、今はエーゲ海色の瞳が静かにこちらを見つめていた。
「脅しただろう?」
「……はい」
私は昨日のその前日の、あれやこれやを思い出す。
そうすると、腹の底の石がずしりと重さを増した。
「殺るつもりなら、脅しや口止めはしない。分かるな?」
輝晶の何のオブラートにも包まれていない解説に、私の肩がびくりと震える。
「お前は優秀だからな。正直その歳でその才は得難いものだ。生かして使った方が利はずっと大きい、と俺は判断した。だから首に縄は付ける、が殺しはしない。安心しろ」
私は先ほどよりもふるふると震えながら、必死に頷く。
少しも安心はできない解説だ。
しかし、彼の言いたいことは何となく分かった気がする。
あれ、もしかしてこれって、慰めるとか労うとか、そういうあれなんだろうか?
私が肩の力を抜いて恐る恐る見上げると、輝晶は溜息を吐いた。
「だから、他の面倒に巻き込まれないように、昨日はわざわざあの倉庫に配置換えしてやったというのに。お前は、奥宮で一体何をやらかしたんだ?」
「へ?」
「奥宮で使節団の奴らと一悶着あっただろう」
「あの……何故、それを……」
「軍兵院長だぞ? そんな重要事項、各方面から速攻で報告が来るに決まっている」
「うぅ……」
「白蓮にも注意されただろう? 全く、何したんだ」
「私は何も……ただ、その……仕事をしてただけで……」
「あんな薄暗い奥の倉庫で仕事をしていて、王子様に目をつけられるのか?」
「うう……でも、本当に仕事をしていただけで……」
「全部吐け」
「ひえっっっぇえ、ご、ごめんなさい!!」
私が輝晶の腕の中で身を竦めていると、突然ばんっ、と大きな音がした。
輝晶の腕の力が少しだけ緩み、私が必死にその下から這い出して顔を上げると、開け放たれた扉の前に白蓮が立っている。
「は、はくれんさま〜」
何とも情けない声が出た。
私は込み上げる安堵の涙を堪えて、へなへなとその場に手をつく。
よかった、本当によかった。
ああ、白蓮がいるなら大丈夫。知らない場所でも大丈夫だ……。
完全に気の緩んだ私が寝台の上で呆然と座り込んでいると、白蓮が無言でつかつかと歩み寄り、私の前で止まる。
「澪」
呼ばれて顔を上げ、そして固まった。
何だか白蓮の様子が変な気がするのだが、気の所為かな。
完璧な無表情だが、無表情なのだがものすごく怖い。
こんなに長閑な初夏の朝だと言うのに、背景にあの時のブリザードが吹き荒れているように見えるのだが、目の錯覚だろうか……。
ちらり、と背後の様子を伺うと、輝晶は少しも動じることなく、最初に見た時と同じように寝そべって寛いでいた。ただ、少々にやにやしているのが気になるが……。
再び視線を戻し白蓮を見上げると、白蓮は無表情で口を開く。
「夜衣を脱げ」
「は?」
私はとんでもなく間抜けな声で聞き返した。
お話は続きます。




