夏煌祭の三日間〈第二夜〉お仕事は体調不良でもこなします(5)
夏煌祭はようやく三日目に突入します。
何が起こったか分からずに呆然と座り込む私の前に、ころりと黒い棒のような物が転がって来た。ころころと回転し、丁度座り込んだ私の前で止まる。
遅れて声がした方を向くと、蓬藍が驚いた表情で口元に指先を当てて固まっていた。蓬藍の驚いた表情に私も驚く。
再び手元に視線を戻してよく見ると、転がって来た黒いものは棒ではなく、いつも蓬藍が携えている扇子だった。今夜も手元に持っていたはずだ。
繊細な象嵌の施された黒塗りの骨に、薄紫の流紋の紗が貼られた気品漂う涼しげな扇子である。
扇子と蓬藍を見比べるように視線を彷徨わせると、突然蓬藍の隣に座る人物が「ふっ」と小さな笑いを零した。
「主上は其方の舞をご所望のようだ」
男は言い放つと、手振りで白蓮に下がるように指示する。
白蓮は思い切り眉間に皺を寄せ、私の横に立ち尽くしてしばし逡巡していたが、再度男に促されると渋々ながらも自席に戻った。
楽の音も止んで、静まり返った大広間に私一人が取り残される。
白蓮が苦虫を噛み潰したような顔で、こちらを睨んでいるのが分かるが、こうなってしまっては彼にもどうしようもない。
蓬藍は相変わらず驚いた表情で固まったままだし、輝晶も厳しい表情でこちらを見つめている。
私は二、三度深呼吸して息を整えると、目の前の扇子に手を伸ばしてゆっくりと立ち上がった。
多分、周囲ほど私は慌ててはいない。
逆に、普段は滅多に驚くことなどない他の面々が驚いていて、自分だけは落ち着いているというあべこべの状況に、思わず口元が緩んでしまう。
それを目ざとく見つけた白蓮が、少しだけ肩の力を抜いた。
私は背を伸ばしてまっすぐに正面を向くと肩の力を抜き、手にした扇子にもう片方の指をかける。
そうして最初の形を作ると、自分で唄を歌いながらそろりと指を引いて扇子を開き、舞い始めた。
私にこの国の教養などあるはずもない。
できるのは、前の世界で知っていることだけである。
それも大した腕前ではないけれど、でも時にはそういうのも箸休め的な感じでいいんじゃないだろうか。
異国情緒というのも存外楽しいものだと思う。
それに今夜はなんだか楽しくて、転んでも全く気にはならないどころか、何だかいい踊りができそうな気がするのだ。
「白扇の〜」
私は自分の歌に合わせて徐に舞い始める。
「末広がりの〜、末かけて〜」
私はこの国の舞とは全く異なる、酷くゆったりとした動きで、しかし少しも焦らず自分の知っている踊りを舞った。
ここで『白扇の』をチョイスするとは、咄嗟の私のセンスも中々である。思わず笑みが零れる。
「かたき〜、契の〜、銀要〜」
うーん、なかなかいい感じじゃないかしら?
何曲が歌っているお陰で、思ったよりも声が出ているし。
他の面々は全員後ろ側にいるから、どんな表情をしているの分からない。
でも、まあいっか。どんな表情だって構わないよね。
私が知っている舞は、こういう舞なんだから。
「かがやく〜、影に〜、松ヶ枝の〜」
これはとってもお目出度い曲なのだ。
今夜にぴったりではないだろうか。
長さも長すぎず、短すぎず、丁度いいと思う。
私は自分の選曲の良さに気を良くして、ますます楽しい気持ちになってきた。
窓からは風がさわさわと吹き寄せて、火照った私の頬を冷やしてくれる。
風に乗って何処からか部屋の中に花びらが舞い込み、そこに揺ら揺らとたなびく帳の裾が重なって、なんとも幻想的な景色になった。
その中で、私だけが静かに佇む様に舞を舞う。
結局、それから続けて三曲舞わされた。
席に戻ると白蓮に「肝を冷やした」とか「舞えるなら先に言え」とか囁き声で散々小言を言われたし、中央の男には何故か上機嫌で「主上もお喜びだ」と褒められて、そして蓬藍には転がって来た扇子を下賜された。
王族の扇子とか、本当に貰っていいのかな?
しかし舞った後に注がれた酒を飲み、それで一気に酔いが回ってしまった。
そこから先はもうあまりよく覚えていない。
なんだか後半は最初よりもずっと砕けた雰囲気になって、お互いがお互いに好きな演目をリクエストしたり、即興で共演したり、皆んなで歌ってみたりと、何だかとても楽しかった気がするのだが、どうだろう。
「ぅ……ふあ……」
水面に浮かび上がるように意識が浮上して、私は布団の中で小さく身動いだ。
過不足なく眠ったときの、あの幸福感に満ちた自然な目覚めである。
私は柔らかな布団にくるまったまま、まだ半分眠った頭でぼんやりと昨夜の事を思い出してみる。
蓬藍の宴に参加して、歌を唄い舞をして、扇子を貰った辺りまでは何とか覚えている。しかし、そこから先は酷く曖昧だった。
恐らく、飲んだ酒の所為だとは思うのだが、何時終わって、どうやって戻ってきて、着替えて、そして眠ったのか、何度考えてみてもさっぱり分からない。
そんな事をつらつらと考えていると、背後で人の動く気配がして、伸びてきた腕に軽く抱き寄せられる。
ああ、私また白蓮と同じ寝台で眠ちゃったんだ。
最近、そのハードルがダダ下がりしている気がするんだけど……どうしよう。
でも、別に一緒に寝ると言っても、文字通り隣で寝ているだけだしね。精々が、時々こうやって抱き枕の代わりになるくらいだ。日々、彼にかけている迷惑を考えればそのぐらいお安いご用である。
しかし、何はともあれ白蓮が近くにいるなら大丈夫だ。
安心した私は、彼を起こさないようにじっとしている内に、再び瞼が重くなってくる。
昨日は色々大変だったし、きっと寝たのは朝方だし、白蓮が起きるまではこのままもう少し二度寝してもいいよね?
暖かい腕に包まれている内に、再びうとうととし始める。
手は優しく私の肩を撫で、腕を撫でる。
されるがままになっていると、その手はさらに私の脇腹に移動して、そして気付くと上着の裾からするりと中に入り込み、直接肌に触れて腹から臍の辺りを撫でていた。
そこで、はっと目が覚める。
白蓮は、髪を拭くとか慰めるとか、後は多少抱き枕にするとか、そういうついでに触れることはあっても、今みたいに感触を楽しむために触れた事など、未だかつて一度も無い。
それよりも何よりも、私の腹を直接撫でる手がとても暖かい。
白蓮は酒を飲んだ時でさえ、何時でも私より少し体温が低いのだ。
私は恐る恐る腹を撫でる手を、抑えるように自分の手を重ねる。
大きな手は節の目立つがっしりとした太く長い指をしていた。
皮膚の所々に固くなった部分があり、明らかに文官ではなく武官の手──。
や、ヤバい……こ、これ、白蓮の手じゃ無いよーーー!!!
衝撃に固まっていると、腕の主も私が目覚めたことに気付いたらしい。
私の背中に相手が身を寄せると同時に、首元に暖かく酷く柔らかいものが押し付けられる。
それが誰かの唇だと悟った途端に、どっと冷や汗が吹き出し、私は腕の下から逃れ出ようと身を捩った。
しかし、腕の持ち主は軽く私の臍をなぞる手に力を込めると、ぐいと私を引き寄せて、易々と抵抗を封じ込める。私の背中がほかほかと暖かい相手の厚い胸板にぴったりと押し付けられて、半ば背後からのしかかるようにして押さえ込まれてしまった。
昨夜の出来事が蘇り、一気に血の気が引いた私の指先が震える。
背後の相手は決して無理やり押さえ込んでいるという訳では無い。ただ軽く体重をかけて抱き寄せ、私が体を離すのをやんわりと邪魔しているだけだ。
それでも、私の鼓動は急激に早まり、頭の中で警鐘がガンガンと鳴り響く。
一刻も早くこの場を逃げ出さないと!!
「やめっ……」
抱き寄せる腕にかける手に力を込めて、振り解こうと身を捻ったところで、首筋に押し付けられていた唇が離れ、私の耳元に息がかかった。
「ふふ、つれないな澪。知らぬ仲では無いというのに、そんなに俺が怖いか?」
寝起きの少し掠れた低い声が、耳元をくすぐるような吐息と共に囁やかれる。
驚いてがばりっ、と振り返ると、そこには可笑しそうに目を細めた見覚えのある男が一人。
「き、輝晶様……?」
夜衣をしどけなく着崩した輝晶が、長い金髪を朝日にきらきらと輝かせて寝そべっていた。
のんびり街歩き、の前の一悶着がはじまりました(笑)




