閑話:白蓮の撹乱(6)
白蓮の撹乱もようやく収まりそうです。
彼なりの心遣いも……。
私は夢を見ていた。
酷く月並みだが、私を追いかける真っ黒い影から逃げ惑う夢である。
私を追いかける影は様々な幻影を帯びている。
それが近付くと私はその幻影に囚われて、暗く底の知れない恐怖の中に引き摺り込まれてしまうのだ。
その幻影は、例えば私がこの別の世界にたった一人で放り出されたと知った時の絶望だったり、見知らぬ男と二人きりで薄暗い部屋に閉じ込められた時の鍵音だったり、低く凍えるように私を脅す輝晶の声音だったりする。
そういう腹の底が冷えるような、そして私が全て忘れ去ってしまいたいような出来事を、鮮明に蘇らせては私を苛む。
だから私は逃げている。それが恐ろしくて堪らないから。
現実の私ならば、下を向いて唇を噛み締めて冷や汗を流せばやり過ごせるだろう。
でも夢の中ではそう簡単に楽にはしてもらえない。
夢の中の私の心は、隠すものを何も持たない子供のように無防備だからだ。
私にできるのは影のもたらす恐怖に直面するたびに、喉の破けるほどの悲鳴を上げることだけ。
それは誰かに助けを求めるための悲鳴ではない。
そうではなく、正気を保つための悲鳴なのだ。
そうしないと恐ろしくてどうにかなってしまう。
だから私は必死で目を瞑り、喉の破れるほど悲鳴を上げて、その真っ暗な影から逃げ回っている。
誰もいない角を曲がり、扉を潜り、広場を走って。
だけど段々と逃げる私の足は重くなる。
疲れていると言うよりも、何か澱のようなどろどろとしたものが足元にまとわりついて、それが私の足を引っ張り、縺れさせているのだ。
私は走りたいのに、もう這うようにのろのろとしか進めない。
黒い影はもう真後ろだ。
私は自分の顔を両手で覆ってしゃがみ込む。
ああ、もう何も見たくない。
ああ、もう何も知りたくない。
ああ、もう……もう……何もかも──。
「澪」
肩を揺さぶられて、はっと目を開けると白蓮の顔があった。
夕とも朝ともとれる薄闇の部屋の中。
自分が何処にいるのか分からなくなって、ぼんやりと視線を彷徨わす。
「宿だ、うなされていた」
白蓮が薄闇を壊さぬような静かな声で簡潔に教えてくれた。
それで私もすぐに状況を思い出す。
露天風呂を満喫した後、多少のごたごたはあったが私達は無事食事にありついて、その後は御察しの通りの無礼講となったのだった。
無礼講の内容は……詳しく語るのは難しい。
一言「カオス」とだけ言っておこうか。そして後は胸に秘めておくべきだろう。
各人の名誉のためにも、そして世の平和のためにも。
全員が飲み過ぎていた、ということだけは明言できる。
私も勧められて少しだけ飲んだ。
でもほんの少しだ。夏煌祭の夜以来、飲酒にはかなり神経を尖らせている。
しかし空気に飲まれて羽目を外しすぎたかもしれない。
その所為で、久しぶりにあの悪夢を見たのか。
憎らしいことに、あの悪夢の内容はその時々でアップデートされている。
起きてしまうと細部は忘れてしまうのだが、なんとなく夏煌祭が終わった後のような虚脱感があるから、きっと最近の出来事も含まれていたのだろう。
「泣いている」
静かな声で呟くと、白蓮が指を伸ばし私の目元を拭った。
そう言われて初めて、自分が涙を流していたことに気付く。
うなされることは時々ある。だけど涙まで流すのは珍しい。
「ごめんなさい……煩くして」
私は小さく鼻を啜りながら白蓮に謝る。
「気にするな。どうした」
「ただ……夢を、夢を見ていました」
「そうか」
私は横向きに向かい合った白蓮を見ながらぼんやりと呟く。
だが、私の心はまだ何処か遠くに行ったままだ。
果たして何方が夢で一体何が現実なのか。
こういう時に限って不毛な禅問答が頭の中をぐるぐると巡る。
白蓮は頬杖をついたまま、そんな私の様子を静かに眺めている。
「悲しい夢か?」
私は少し考えて首を振る。
「……いいえ。どちらかと言うと、怖い夢……でしょうか」
「そうか」
「時々、見るんです。同じ夢を……」
「時々?」
「最近は、見てなかったけど……」
白蓮が再び指を伸ばし、汗で額に張り付いた私の髪を避けてくれる。
汗が冷えると少しだけすっとして、私は思わず目を閉じた。
「眠れそうか?」
「どうでしょうか……」
私は再び視線を彷徨わせる。
今夜は……白蓮が眠るのを待ってから起きようか。
こういう時はいつもは寝ずに起きてしまう。
もう一度、あの夢を見るのが怖いからだ。
「ならば、こうするといい」
私が何かを答える前に、白蓮が腕を伸ばして私を胸の中に抱き込んだ。
抱き込むと言っても、元々ほとんど寄り添うような近くで寝ていたから、大した違いはないのだが……。
女将の色々一周回った心遣いで、本来なら侍従用の控えの間に用意されるべき私の布団は、白蓮の布団の隣に並べられていた。
無礼講で疲れていたのもあって、私はもうそのまま眠ってしまったのだ。
最近、何かと白蓮の近くで眠る私のハードルが下がっている。
しかし、さすがにこの状態は密着し過ぎではないだろうか。
白蓮はそのまま私を抱え込んだ腕を伸ばし、ゆっくりと頭を撫ではじめる。
でもゆっくりと頭を撫でられるのは、なんだか落ち着くし悪くはない。
私は子供のように体を丸めて彼の腕の中に収まった。
酒を飲んでも、彼の体温はいつもと変わらず少し低い。
心音はいつも一定で、力強く、そして緩やかだ。
「……其方も、疲れたのだろう」
白蓮は変わらぬ静かな声音で、私の頭を撫でながらそんなことを言う。
共感されるのは嬉しい。
でも、今は止めて欲しい。
夢見の悪かった私は、今は少々情緒不安定なのだ。
白蓮の一言で、堪えていたはずの残っていた涙が、ほろりほろりと溢れ出す。
それを白蓮には知られたくなくて、私は隠すように彼の胸に額を押し付けた。
白蓮は何も言わず私の頭を撫でてくれる。
私はただ小さく丸まって、そんな彼に撫でられていた。
そうやって彼の緩やかな心音を聞いているうちに、私はいつの間にか再び眠気を誘われて、そうして今度は夢も見ない深い眠りに落ちていた。
翌朝、目が覚めると白蓮が既に起きていた。
しかも身支度まで済ませている。
彼は窓辺に座って書物を読んでいた。
「おはようごさいます」
「ああ、おはよう」
少し声が掠れているのは、昨晩騒いで飲み過ぎた所為だろう。
それでも二日酔いという感じではなく、機嫌も悪くはなさそうだ。
「着替えたら朝餉に行く」
「はい、只今」
私はちらり、と様子を伺いながら慌てて起きる。
言葉遣いも大分元に戻っている。
葉周の言っていた通りやはり数日で戻るようだ。
目処が見えてきた事で私はほっと安堵した。
「それと」
「はい」
「今日は買い物に行く。土産が買いたいし、これも食べたい」
「はい?」
白蓮が指差した書物のページを差し出してくる。
覗き込むと、何やら地図らしきもの。
宝の地図、ではないだろう。
見覚えのある地形はこの辺りのガイドブックだった。
彼は着実に回復はしている。
しかし未だ全快ではない……。
この状況は、つまりは今日の我儘として名物の食べ歩きを要求しているのだろうか。
それでも布団を被って着替えもしなかった昨日よりは大分ましだ。
私は黙々と頷くと、粛々と着替え、そしてそそくさと彼の後を追って食堂に向かう。
私たちが食堂に到着すると、我陵と海星、九虎もやってきた。
我陵と海星は一風呂浴びて来たのかすっきりとした顔をしている。
九虎も一風呂は浴びたのだろうが、その顔は苦渋に満ちている。聞かなくても分かる、二日酔いだ。
「あれだけ飲んどいて、早朝から模擬戦とかって、こいつら何なん。もう本当に何なん……」
九虎の呟きから今朝の彼らに何があったのか大体分かった。
海星の表情は常と変わらないが、瞳をきらきら輝かせて我陵に話しかけている。
どうやら念願叶って、我陵と手合わせできたようだ。
「さすが我陵様。素晴らしい剣捌きでした」
「海星もなかなかの腕前だな。次は重心の移動にもっと気を付けるといい。まだ上達の余地がある」
「ありがとうございます! 精進いたします」
すっかり師弟化している。
私たちは和気藹々と朝餉を済ませると、青白い顔の九虎を宿に残して四人で町に繰り出した。本日の白蓮の我儘を叶えるためである。
私は彼の食べ歩きの要求を華麗に捌きつつも、迷惑かけまくりの桂夏と葉周への土産だけは白蓮に買わせるのを忘れなかった。
昼過ぎに宿に戻ると、復活した九虎と合流して帰路に着く。
帰路には少々のトラブルがあった。
賊に襲われている馬車に遭遇したのである。
しかし、私が気付いて馬車の窓から外を覗いた時には、既に我陵によって賊達は死屍累々の山と成り果てた後だった。
だから私は未だ彼の剣捌きを直接は見ていない。
しかし、助けられた人々の反応を見ただけでも、彼の凄さは十二分に伝わってきた。
よって、結果的に大きなタイムロスは無く、私たちは予定通りまだ明るい内に屋敷に到着した。
そしてそれぞれに色々と満足しながら家路に着いたのである。
翌日、白蓮はさらに回復してちゃんと仕事をした。
そしてさらにその翌日には、彼は私に説教出来る程にはもうすっかりと元に戻ったのだった。
閑話にお付き合いいただきありがとうございました。
色々楽しくて、想定外に長くなってしまいました笑。
次は本編に戻って、夏煌祭の二日目、
蓬藍に呼ばれた本宵闇の宴のあれこれをお届け予定です。
ぜひ、お楽しみに!




