閑話:白蓮の撹乱(5)
ついに五話まできてしまいました。
撹乱の続きのお話です。
「澪」
気持ち良さそうに目を細めていた白蓮が顔を上げた。
微睡む神仙もかくやという艶やかな姿体である。
私は泡だらけの指を避け、手の甲で自分の額を流れる汗を拭う。
そんな白蓮の隣に膝立ちになって、彼の長い髪を洗うのは普段以上に骨が折れるのだ。
手早く終わらせたいのだが、マッサージをして欲しいとか先に泡を立ててから洗って欲しいとか、一々細かい要望を出すのでなかなか先に進まない。
今、ようやく髪に泡を絡め始めたところである。
「ふう、何でしょうか?」
「膝を貸せ」
「……は?」
「そこに正座しろ」
「え、正座? 何を……うわわっ、何ですか! 急に引っ張らないでください。危ない……です?」
体を起こした白蓮に唐突に強く腕を引かれた私は、べちゃりとお湯と泡で濡れた石畳へと尻餅をついてしまった。そして私が体を起こしながら恨めしい半眼で睨んだ次の瞬間、倒れこんだ私の太腿の上に白蓮が当然すぎる態度で頭を乗せる。
これにはさすがの我陵も酒器を傾ける手を止めた。
海星も私の驚く声に反応して、明後日の方向を眺めていた視線をわずかに振り向かせた状態で固まっている。
九虎に至っては白蓮の存在への色々な配慮などすっかりと忘れ去り、完全にこちらを凝視して口をあんぐりと開けていた。
「ああ、丁度いいな」
二、三度頭を動かして程よい場所に落ち着けると、当人は至極満足そうに呟く。
「ちょ、丁度いい、じゃありませんよ。何ですか突然……」
「腕が疲れた」
「腕……だから、最初にそう言ったのに」
「ふん、知らぬ。このまま洗ってくれ」
「え……このまま?」
私は正座した自分の膝の上を見下ろす。
私の膝はすでに泡まみれだ。というか正確には、泡まみれの銀髪が清流のように揺蕩い私の太腿全体にに絡みついている。なんなら溢れ出た一部は石畳の上にさらさらと流れている。
この白蓮の悪行によって、必死に濡れまいと工夫していた私の努力は全て水泡に帰し、全身の七割が湯と泡まみれになってしまった。
「……せっかく、せっかく濡れないように気をつけていたのに。もうびしょびしょじゃないですか……」
「構わぬ。駄目になったら、また誂えればよかろう」
「そういう問題じゃありません! てか、そんなことしたら、また波流さんに誤解されるじゃないですか!?」
「ふふっ」
「笑い事じゃありませんよ、もう!」
「手が留守になっている。ほら、続き」
白蓮が面倒臭そうに手を振って先を促す。
「もう!」
私が「もう!」を連発しながら、怒りを込めてがしがしと指を動かすと、白蓮は再び気持ちよさそうに目を閉じた。
私にしても「何だ、これ」としか言いようのない状況だ。
しかし私の太腿の上で至極満足そうにリラックスする美しい男を見ていると、怒りはすぐに霧散してしまう。
今はまるで子供のように気紛れで我儘だが、これで普段は至極真面目、仕事熱心で意外と面倒見が良く、その上色々太っ腹という、文句のつけようがない上司振りなのだ。仕方ないかと肩の力を抜く。
ちらり、と固まる三人を見るが私はすぐに己の仕事を再開した。
一人は我陵様だし、あとの二人は秘密厳守の契約を結んでいる。そんなもの結んでいなくとも信用できる二人だが、結んでいればなおさら他言はしまい。
私は葉周様、万歳! と心の中で叫びながら、白蓮の気がすむまで丁寧に髪を洗ってやった。
「お、俺、先に出るわ」
ざぷりという湯音とともに言い残し、九虎がさっと脱衣所の方に戻る。
「こんなの、絶対に人間が見ちゃいけないやつでしょ。普通の人間は絶対に見たらあかんやつ。俺、明日からヤバイい、色々ヤバイ……」
と、呟いていたが気にしない。
その頃、残った二人は湯船の中で──。
「驚いたな」
我陵が止めていた酒器を口元に運ぶ。
「我陵様?」
「あの子が、誰かにこんなに懐くとはね」
「あの子……白蓮様ですか?」
「ああ。ふふ、あの子も成長したなあ」
「成長……。はぁ……」
「おや、どうした海星? 何だか歯切れが悪いね」
「いえ。……実は澪が白蓮様にお仕えするようになった経緯には私も関係していまして。その……よかったのかな、と少々」
「ああ、成る程」
我陵は余裕のある笑みを浮かべて酒器を傾ける。
普段は付けている眼帯はさすがに今は外されている。閉じた片目の瞼には深い傷跡が残されていた。
きっと我陵はその目を傷つけられた時でさえ、常と変わらず静かに相手を見つめ返したのだろうと想像すると、海星は心の中で一人羨望の溜息をつく。そんな男になれたら理想的だが、こんなことで動揺しているようでは、自分はまだまだだ。
「我陵様はどう思われますか? 二人の関係は、その……」
「うーん、邪推は好きじゃないが。まあ、悪くはないだろう」
「はい」
「今日は偶然ああだが、普段のあの子は存外ちゃんとしている。広い目で見れば、そのちゃんとしている方がほとんどだろうよ」
「成る程、そう考えれば確かに。さすがは我──」
「それに、ああ言う子だ。もし手を出したとしても、きちんと責任はとるだろう。だから案ずることはない」
はははっ、と豪快に笑う我陵に慰めるように海星はぽんぽんと軽く肩を叩かれる。
「……」
色々良いようで、色々良くないような……。
しかし、深く考えるもの良くないような……。
相談した結果、より消化不良になった何かが残った海星だった。
白蓮が髪を洗い終わると、三人は一緒に風呂を上がっていった。
全身が湯と泡と汗でびしょ濡れになった私は、白蓮からそのまま湯を使うといいという大変有難いお言葉を頂いて、一人貸切の絶景露天風呂を満喫する。
湯船に浸かって、うーんと万歳のように両手を広げて伸びをすれば、視界に入るのは上も下もプラネタリウムのように鮮やかやに輝く満点の星空のみ。
そこを吹き抜ける程良い冷気を含んだ風に、火照った頬を優しく撫でられて私は思わず溜息を零して目を細める。
まさかこの世界で、こんな趣のある露天風呂を堪能できる日が来るとは夢にも思っていなかった。
すっかりと日の暮れた美しい夜空を眺めながら、あの日、目が覚めて、自分は違う世界に来てしまったと知った時の混乱と恐怖を、私は動画を再生するように鮮明に思い出す。
その時の事を、私は今でも時々夢に見る。
右も左も分からない世界に身一つで放り出されて、もう二度と元の生活には戻れないのだと絶望していたあの頃。
それが今は、相変わらず元の世界には戻れないものの、それでも悪くないと思えるような生活になっている不思議。
私は少々の感傷に浸りつつ、そして久しぶりの露天風呂を心ゆくまで楽しみつつ、一仕事終えた後のいい気持ちで湯殿を出た、はずなのだが。だが……。
いつの間にか用意されていた温泉旅館風の上品な浴衣と羽織に着替え「お食事はこちらですと」女将に案内されてたどり着いた部屋。
嫌な予感がするなと思いつつ、開けられた扉の合間から中の様子を伺うと、案の定不機嫌な白蓮を中心とする自由気ままな御一行様が垣間見えた。
九虎と目が合うと、彼は全力のジェスチャーで「今すぐ入ってこい」と訴えてくる。
おかしいぞ、さっきまであんなにご機嫌だったのに。
なんなら鼻歌だって歌い出しそうだったのに。
ほんのわずかの間目を離しただけで、すっかりと臍を曲げた白蓮が「不機嫌です」という札を顔に貼って座っている。
この短時間で一体何があったのか……。
私が首を傾げながら部屋に入ると、その不機嫌な白蓮がじろりとこちらを睨む。
手を振って女将を下げると、その手で私に手招きした。
嫌な予感しかしない。
私はおずおずと白蓮の隣に近づいてそのまま絨毯の上に正座する。
ちなみにこの部屋は磨きあげられた木目の美しい板の間で、集まって食事をするための部屋のようだ。
広い板の間の中央付近に細密な文様の織り込まれた絨毯が敷かれ、その上に立派な天然木の低卓が置いてある。周囲には木製の座椅子が人数分配置され、そこに思い思いに座って食事や酒を楽しむ趣向だ。
この世界の人からするとかなり新鮮な非日常感が楽しめる仕掛けではないだろうか。私からすれば非常に落ち着くというか懐かしいというか、そういう感じである。
食事は既に半分ほど進んでいた。酒壺もかなりの数が空いている。
「遅くなりました……」
「何故、同じ部屋にしない」
私がしおらしく詫びの言葉を口にすると、開口一番、白蓮が低い声で文句を言った。
「へ?」
「何故、自分だけ食事の部屋を分けるんだ」
「え?」
白蓮に睨まれて私は顔を上げる。
全力で思考を巡らせるが、意外と回答が難しい質問だった。
素直に答えれば、流れとしか言いようがない。
そもそも、一般的に侍従は主とは別に食事をするものだ。
故に、宿側も考えるとか決めるというよりごく自然に、侍従なのだしそれが当たり前ですよね、という感じで別の部屋に用意していた。
そして私もそうだよなあ、ぐらいの軽い気持ちでそれを受け入れていた。
しかし、と私のこめかみを汗が流れる。
確かに、白蓮と私の場合は少々違っていた。
普段はそんなことは一切気にしていないのだ。
というのも、とにかく白蓮の仕事はスケジュールが過密で、食事時ぐらいしか二人で打合せする時間が無い。故に、可能な限り一緒に食事をとって、引っ切り無しに打ち合わせをしながら、そのついでにご飯も食べるという感じだった。
時間がなくて並んで立ち話をしながらおにぎりということもあるし、気が向けば豪華な弁当を作らせることもある。
どんな内容でも、私にもいつも彼と同じ食事が用意されていた。
だから偶に他で食事をとったりすると、そう言えば侍従ってこう言う対応だったよな、としみじみしたりする。
食事にしろ衣装にしろ、その辺り白蓮は非常に太っ腹というか、独自の美意識があるというか、なのだった。
あ……でも、屋敷でもそうだったかも……。
ふと、思い至って二粒目の汗が流れる。
前の世界での生活が長い私にはそもそも主従などという概念は存在しない。
だから今も頭では理解しているが、本質的なところでは私は全く理解していない。
単に周囲に合わせて表層的な習慣を踏襲しているだけだ。だから時々忘れてしまう。
特に身近な白蓮や葉周がその辺りを緩くするので尚更だ。
思えば屋敷に帰った時も、何故か食事はいつも白蓮と一緒に出されていた。
前の世界の感覚でレストランに行っているような気がするから、筆頭侍従の葉周に世話を焼かれながら食べるのにも、ほとんど何の疑問も抱いていなかった。
あれは、白蓮の好みだったのか……?
今更ながらに気が付く、が時はかなり遅目である。
「申し訳ありません……」
私は蚊の泣くような声で答えた。
下手なことを言って手配した宿に迷惑はかけたくない。
せっかくいい宿なのだし、機会があれば二度でも三度でも訪れてあの露天風呂を満喫したいという下心も多分にある。
白蓮はもう一度じろりと私を睨むと「そこで食べなさい」と食事の用意された空席を指差す。
「はい……」
私は大人しく彼の指示に従ってそこに座る。
別に私は食事にありつければどんな状況でも構わない。今夜はあんな素敵な露天風呂も満喫できて、下女だった頃からすれば夢のような生活なのだから。
しかし、だ。
なぜこのメンバーで私に用意された席が、この一番上座のお誕生日席のような場所なのか……。
そして他の面々も、何故そのことを全く気にしていないのか。
てか、もっと一番端っことかにして欲しかった……切実に……。
だが、私も私で現金である。
目の前に並べられた繊細で美しい料理の数々にすぐに絆されて、でれでれと美味しい食事に夢中になる。
私が大人しく指示に従ったことで満足したのか、白蓮の不機嫌もすぐに回復した。
そうなれば後はご想像の通り。
飲めよ食べよの無礼講である。
彼らの無礼講、考えるだけで恐ろしい光景が……。
撹乱はあともう少々、続きます。




