夏煌祭の三日間〈第二夜〉お仕事では呑んでも呑まれません(5)
いつの間にか50話達成していたのが嬉しくて、今週末はもう一話更新いたします。
引き続き、澪のドキドキ展開をお楽しみくださいませ。
不意に扉がノックされ、私の唇の端を舐めていた男が思い切り眉を顰めた。
「……何事だ」
唸るように低く掠れた声で扉に問う。
「イザヤ様に、行政院長の蓬藍様がお話があるとお越しに」
その問いに、扉の向こうに立つ誰かが囁き返す。
イザヤと呼ばれた男は手を止めて顔を上げた。
「……蓬藍殿が、ここに?」
「はい」
「……すぐに伺うとお伝えしろ」
イザヤはひらりと長椅子から飛び降りると襟を直す。
言っておくが彼の襟は別に私の所為で乱れた訳ではない。
そもそも最初から盛大に着崩されていたのだ。
「そこにいろ」
じろりと睨んで言い置くと、何事も無かったかのようにすたすたと扉を出て行く。
取り残された私は呆然とその後ろ姿を見送った。
すぐに扉の向こうから和やかな会話の気配が伝わってくる。
極度の緊張状態から解放され、私は急激に体中から力が抜けた。
興奮していた時には忘れていた疲労や、痛みや、酔いや、その他色々が一気に去来し、上体を起こしているのも辛くなる。
私はふらふらと長椅子のクッションに身を沈めて長い息を吐いた。
頭の中は、この半刻余りの間に起こった出来事で飽和状態だ。
そのままぼんやりと、壁越しに聞こえるくぐもった談笑をに耳を傾ける。
だが、笑い声が一際大きくなったところで、ふと我に返った。
おいおいおい! ぼんやりしている場合じゃないよ、私!?
一刻も早くここから逃げなきゃ、でしょうが!!!
気を取り直し、慌てて背もたれに手をかけて立ち上がる。
しかし立ち上がるはずが、ずるりと長椅子から床に滑り落ちた。
絨毯の上に座り込んで自分の足を見る。
膝が笑っていて全く力が入らないのだ。
扉の向こうでは再び笑い声が上がり会話が続いている。
何としてでも今のうちに部屋を出なければと、しかし焦れば焦るほど上手く体が動かなかった。
私はその場に蹲まり両手で顔を覆う。
不甲斐なさと悔しさと混乱と様々な感情がない交ぜになって、私の中を嵐の様に吹き荒れる。
今日の私はもうめちゃくちゃだ。
色々巻き込まれるし、白蓮の言い付けは一つも守れないし、衣装も髪も散々だし……。
もう、何もかも上手く行かない!!
ああ、帰りたい。
元の世界に戻りたいよ……。
何で私ばかりこんな目に遭わなきゃいけないの……。
その時、誰かが私の肩に手を置いた。
先ほどの恐怖が一挙に蘇り、私はその手を振り払って飛び退く。
しかし振り払ったはずの手は捕われ、私は背後から抱きしめるように抱え込まれる。
今度こそ上げようと決意していた悲鳴は、上げる前に口元を掌で覆われ封じられてしまった。
全身から血の気が引いて頭が真っ白になる。
「澪、大丈夫。俺だ」
その声に、はっとして顔を上げる。
見下ろすのは空ではなく、深い海のような青い瞳。
「……海様?」
私を抱き込んでいたのは近衛騎士隊長の海星だった。
彼はこの世界に転生して一番最初に私を助けてくれた、文字通り命の恩人である。
何故、彼が今ここにいるのかは分からない。
しかし相手が海星と分かった途端に、再び体の力が抜けた。
その時になってようやく、口元を覆った海星の手にかけた自分の手が、ぶるぶると震えていることに気が付く。
海星は鋭い視線で扉の方を警戒しながら、囁くような声を出す。
「詳しい話は後だ。とにかく、あの方が引き止めてくださっている間にここを出よう。……怪我はしているか?」
彼の声は少し低く静かで、いつも抑揚や感情の波が少ない話し方をする。
この半刻ほど、絶え間なく感情の嵐に揺さぶられていた私にはそれが酷くありがたかった。
彼の声は耳に届いた途端に沁み込むように私の中に入り込み、混乱した心を優しく宥め、落ち着かせる。
海星に顔を覗き込まれて、私は無言でぶるぶると首を振った。
何か一言でも口にしたら、恥も外聞も構わずに号泣してしまいそうだった。
「そうか……、立てそうか?」
再び、私は無言でぶるぶると首を振る。
「膝が……」
何とかその言葉だけ絞り出す。
途端にぽろぽろと数粒の涙が溢れ出た。
「いい、何も話すな。静かにしていればそれでいい。出来るな?」
私はこくこくと頷き返す。
海星は携えていた上着で頭から私をすっぽりと包み込むと、何の予備動作も無く私を抱えて立ち上がった。
立ち上がる時、掛けられた上着の合間から彼の上着の裾が翻るのが見える。
今夜の海星は近衛騎士の礼服を着ていた。
私が会っていたのはいつも非番の時だったから、制服を着ている姿を見たのは初めてだ。
この衣装を着て生まれて来たのでは? というほど彼に似合っている。
「俺の首に手を回せるか? ああ、そうだ。それでいい」
私は海星の首に腕を回すと、彼の衣装を汚さないようにそっと彼の肩先に額を埋めた。彼が上出来だと褒めるように私の後頭部を優しく撫でてくれる。
海星は普段度変わらぬ足取りで窓に近付くと帳を避けた。
やはり帳の向こう側には窓があり、さらにその向こう側には宴会場の灯りが漏れる中庭が広がっている。
彼は窓の鍵を開けて外に出ると、そのまま中庭を突っ切って足早に奥宮を抜けて行く。賑やかな演奏に、人々の笑い声、酒と料理の匂い。海星の歩調に合わせて宴の喧騒がさざ波のように引いては押し寄せる。
私は額を彼の肩先に寄せて目を閉じた。
遠くで鐘の鳴る音が聞こえる。九の鐘だ。
待ち合わせに遅れて白蓮は怒るだろうか。
一体、このことをどうやって説明すればいいのだろうか。
きっと、どう説明しても怒られる案件だろう。
白蓮は私に呆れるだろうか。呆れてもう、もう私なんて……。
そんなことを取り留めもなく考えていると、海星の足が止まる。
顔を上げると、もう白蓮の執務室の前だった。
海星がノックをしようと片手を上げたところで、がちゃりと扉が内側から開く。
すでに祭礼儀式用の礼服から着替えを済ませた、天上神のように神々しい白蓮が、盛大に眉間に皺を寄せて立っていた。
ようやく白蓮の執務しに戻って来ました。
しかし、これからが本番の「蓬藍様ご招待の本宵闇の宴」に向かいます。
色々ヤバい宴。まだまだ、夏煌祭の二日目は終わりません。
引き続きお楽しみくださいませ。
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