お仕事は物思いから
いよいよ、澪の記憶は怪しくなっていきます。
後で聞いたところによると、祭礼局での衣装作りの際には、予め白蓮から輝晶に私が他国の出身でこの国の衣装には不慣れであることを伝えていてくれたらしい。
おかげで祭礼局では肋骨を締め上げられるような苦行に会わずに済んだようだ。
遅い夕餉を食べ終わると中年の女性が葉周の言付けを伝えにやって来た。白蓮が食事をはじめるからその間に湯浴みをするようにという内容である。
大の風呂好きを自認する私がこの機会を逃すはずがない。私は渡された着替えを抱えると、急いで風呂場に向かい束の間の贅沢を満喫した。
しかし時はすでに深夜。日本でいうと零時を回る時刻。しかも居るのは全く勝手のわからない白蓮の屋敷である。私は後ろ髪を引かれつつも、また機会はあるからと自分を説得し、洗髪も長湯も諦めてさっと体を清めるだけで風呂を出た。
脱衣所で着替えていると、再び先ほどの女性がやってきて白蓮の元に案内してくれるという。私が着替え終わると彼女は「湯上がりにこれを」といって薬茶を差し出した。
少し口に含んでみると花束に顔を押し付けたような強い花の香りの後に、甘味と苦味が同時にやってくるというなんとも言えない味わいである。私が薬茶の入った茶器を見つめて二口目を躊躇っていると「全てお飲みくださいませ」と彼女に促される。謎のこだわりの多い白蓮ならば風呂上がりのルーティンが決められていてもおかしくない。仕方なく私は息を止めて気合を入れると一息にお茶を飲み干した。
それを見届けると、彼女は白蓮の元に案内するから付いてくるようにと言って廊下に出た。
しかし案内された部屋に白蓮はいなかった。
正確には、窓辺に置かれた卓に酒器が用意されているから、白蓮はまだ来ていないというのが正しいのだろう。
案内されたのは全体的に背の低い家具がゆったりと配置された程よい広さの居間で、今は眠りを誘うように明かりが絞られている。見回すと奥には大きな窓があり、その手前には厚手の絨毯が敷かれて直接床に座って寛げるスペースも設けられていた。
近隣の屋敷で酒宴でも催されているのだろう。誰かの奏でる音の音が微かに聞こえ、細く開けられた窓からは涼しい夜風に乗って、庭で咲き乱れる花々の芳しい香りが流れ込んでくる。窓に近づいて外を覗くと描かれたように美しい庭があり、その上には冴え冴えとした月を戴く穏やかな星空が広がっていた。
私は窓の縁に両手をかけて、しばし静かな夜の景色に見入る。
多分、これほど静かで穏やかな夜というのは、この世界に来てからはじめてだろう。美味しいご飯に、温かい湯に、乾いた夜衣を着て、ほんの一時とはいえ誰もいない部屋。この貴重な時間を少しも逃すまいと、私は花の香る涼しい室内の空気を胸いっぱいに吸込んで再び美しい夜空に見入った。
しばらくそうしていると次第に私は面倒臭くなって、部屋履きを脱ぎ捨てて窓辺に敷かれた絨毯の上に座り込んだ。近くにあったクッションにもたれ掛かり、ふと思いついて蘇東坡の春夜を口ずさむ。春宵一刻値千金というあれである。今夜この部屋にこれ以上しっくりとくるものはないだろう。
漢詩を口ずさむというのも変な話だが、祖母の趣味で色々習わされた渋い習い事の中には詩吟も含まれていたから仕方ない。
私は気ままに節をつけて、この部屋の静かな空気を壊さぬようにのんびりと歌う。
ふと視線を感じて振り返ると白蓮が扉のところに立ってこちらを見ていた。彼は銀鼠色の夜着の上に濃紺の上着を羽織り手に数冊の書物を携えている。
「……それは、其方の故郷の歌か?」
彼は部屋に入り、酒器の近くに書物を置くと私に尋ねた。
「そうですね……私の故郷の古い歌でしょうか」
私は頬に手を当てて首を傾げてへらりと笑う。
白蓮は何も言わずに酒器の乗った盆を手に取ると、私の近くまでやってきて同じように絨毯に腰を下ろした。近くにあったクッションを適当に積み上げて寄りかかる。
揺れる明かりに照らされて寛ぐ彼の姿は、まるでお伽話に出てくる遠い異国の王のようだ。
「よい歌だ。他にもあれば聞かせてくれ」
白蓮が盃を手にとる。
「うふふ、畏まりました」
白蓮の求めに応じて、私は思いつくままに幾つかの詩を歌う。所々、記憶の怪しいところもあるがそれはご愛嬌で気にしないことにする。
白蓮は私の歌を聴きながら、静かに酒を飲んでいた。
相変わらず夜風は涼しく芳しい。遠くの楽の音も未だ鳴り止む気配はない。
私は段々楽しくなってきて、後半はくすくすとした笑い声の中に消える。私はふと思いついて白蓮に尋ねた。
「白蓮様も歌はお上手でしょう?」
白蓮はにやりと唇の端を歪めると徐に盃を盆に返し、極短い曲を、しかし朗々と歌い上げてくれる。この国でよく耳にする旋律とも違うどこか物哀しい異国の歌。
「わあ、やっぱりとてもお上手でしたね」
私は一人熱心に拍手してはしゃぐ。そして白蓮の置いた盃に手を伸ばすと「うふふ、一口くださいませ」といってこくりと残りを飲み干した。辛口の日本酒のような酒精が喉を通ると、久しぶりの味わいにうっとりとしてしまう。
そんな私を見て白蓮は二、三度瞬きすると目を細めた。
彼は私の手から盃を取り上げて盆に返すと、ずいと身を寄せる。あっと思った時には腰に手を回されて、私は彼の胸元へと引き寄せられていた。
瞬いて見上げると、ほとんど目の前に白蓮の瞳がある。色素の薄い水色の虹彩の中でいつもは引き絞られている瞳孔が、薄闇の中で大きく開き吸い込まれるような怪しい光を放っている。
彼は私の口元に顔を近づけると、すんと香りを確かめる様に鼻を鳴らした。そのまま私の唇をゆっくりと指先で拭いぺろりと舐める。
私はただ瞬きをしながらされるがままにそれを眺めていた。彼は味わいを確かめるように舌を動かすと再び目を細めて私の瞳を覗き込んだ。
「……何を飲んだ?」
「え?」
私は首を傾げる。なんだかぼんやりとして何処か焦点が合わない。しかし気分はほんわか楽しくてわたしは白蓮を見つめ返してへなりと笑った。
「この部屋に来る前に何か飲み物を渡されただろう? どんな味だった?」
「ええっと……」
私は白蓮に抱え込まれたままおっとりと視線を巡らせる。
「確かお茶を……うーん、甘かったような……苦かったような?」
そんな私の様子を見て白蓮はため息をついて手を離す。
「……まったく、葉周のやつめ。要らぬ気を利かせやがって」
と、腹立たしげに呟いて腕を組んだ。その様子に私は首を傾げる。
「要らぬ気ですか?」
「其方は知らなくてよい。はぁ、余計に疲れた」
白蓮は大きな溜息をつくと床に座り込んで肩を回した。
私はポンと手を打ち合わせる。
「白蓮様、それは肩が凝っているのですよ」
「は?」
「だからお疲れなのです。ふふふ、葉周様の所為にしてもよくなりませんよ」
「其方は何を……こら、やめなさい!」
「いいえ、やめません。ああ、やっぱり肩がごりごりです! これは酷い……お医者様ですし職業病でしょうか?」
私は白蓮の背中にへばり付いて肩を揉む。
「ほら、手を離しなさい」
「いいえ、ご主人様の健康管理も仕事のうちです。あ、頭皮もがちがちですよ。これではよく眠れないのではないですか?」
すると白蓮が急に静かになった。
「……確かに、寝付きは悪いが……。それと頭皮が何か関係あるのあるのか?」
振り返った彼の目には明らかな好奇心の光があり、私は再びくすくすと笑った。
「大ありなんですよ。ええっと……」
私は室内を見回していいものを見つける。
入り口からは見えないが、窓辺側にもう一つ続き部屋があり、その先に寝台が置かれていたのである。実に丁度いい。
「白蓮様、あそこに横になってくださいませ」
私は寝台を指差す。
「は?」
「私が実践してみせますから。きっととてもよく眠れますよ。さあ早く」
そう言って私は白蓮の背中を押した。
私は寝台で白蓮の向いに座り込み、抱えた枕を感情のままにぽすぽすと叩いて悶絶する。
白蓮は先ほどと同じ様に枕に頬杖をついて寝そべり、面白そうに私の様子を観察していた。
「葉周様……」
私は恨みがましい半眼で白蓮を睨む。
「一服盛るなんて酷いです!」
「はははっ、あれも悪気があってのことではなかろう。少なくとも健康に害のあるような薬ではないからあまり気にするな」
「気にします!!……でも、だから途中から記憶が曖昧なんですね」
「そういうことだな。何処まで覚えていた?」
「話を聞いて、思い出せたのはお風呂までです。部屋で歌っていたあたりはもうあまり……」
「なるほど」
「白蓮様、一体私はどんな薬と飲まされたんですか?」
「さてな」白蓮はわざとらしく肩を竦める。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
「……それで、私はその後……何を?」
怖いが聞かずにはいられない。情報の不均衡もそれと同じくらい嫌だ。起こってしまったことは変えられないのだから事実を知るしかない。全てはそれからだ……。
「ああ、それが実に興味深いことだが──」
白蓮が続きを話しはじめた。
さて、葉周に一服盛られた澪。
何をやらかしたのでしょうか?
お話は続きます。
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