お仕事はティーブレイクから
澪は白蓮様とニアミス!するも、まだ声のみのご登場でした(笑)
有無を言わさぬ白蓮様の物言いに、説明の機会を逃す澪。
そのまま、どんどん白蓮様のペースに巻き込まれることに……。
「今、何時かと聞いている」
もう一度、低い声が問いかける。明らかに先程よりも声の温度が低くい。
しかし再び問われたことで分かった。
どうやら声の主は執務机の隣に置かれた衝立の向こう側に居るらしい。
だけどそのことに気づいた途端、私の冷や汗は三倍になった。
こ、これは、この状況はまずい!
こんな早朝に、院長室の執務机の隣の衝立の影に居る人物なんて、院長本人以外に居るわけない。
つまり、この声の主イコール恐ろしいと噂の白蓮様なのだ。
私は咄嗟にその場に跪くと、衝立に向かって恐る恐る声をかけた。
「あの、もう間もなく一の鐘が鳴る頃です」
「……そうか」
返事と同時に、衝立の向こうで衣擦れと人の動く気配がする。
私は急いで頭を下げて視線を落とした。
この世界では身分の差はとてもはっきりしている。私のような下女は貴人相手には許可なく顔を見ることも許されない。
そもそも下女と院長など普段の生活では互いに姿を見ることも無い。入室する時、一応挨拶はしたけれど、それは当然こんな時間には誰もいないと思ってしていたことだ。
この世界に来た当初はそういう身分差から生じる仕来たりや暗黙の了解、不文律にとても戸惑った。前の世界の日本には身分や階級という感覚自体が、ほとんど存在しないからだ。
衝立の向こうで人の動く気配がする。何か上着を羽織るような衣擦れの音。かたり、と衝立の端が動き、下を向いた私の前を浅葱色の長衣がひらりと横切った。
「少し仮眠をとる。二の刻に起こせ。今日の朝議は二の刻半からだ。遅れるな」
「はぁ、え?あ、あの……、あれ?」
何か言おうと思った時には遅かった。
思い切って顔を上げた時には、白蓮様と思しき影はすでに私室側の扉の向こうに消えている。
あの部屋に入って行ったってことは、やっぱり今のが白蓮様?
恐ろしい医局長と聞いて、なんとなく仙人風のな頑固なお爺さんを想像していたけれど、思っていたよりもずっと若々しい人物だった。
足元しか見ていないが、動作や声の雰囲気を合わせて考えるといっていても三十代ではないだろうか。前の世界の私より若いかもしれない。
急激に高まった緊張と、その後の安堵による弛緩で、膝をついたままぼんやりとしてしていた私は、カーンという鐘の音でハッとする。
一の刻を告げる鐘だ。一の刻は前の世界の時間で言うと朝の五時。
この世界では約二時間ごとに一刻が過ぎて鐘が鳴る。一の刻は侍従など主を持って働く人々が起き出す時間。先程、白蓮様が言っていたニの刻は七時ごろ。主たちが活動を始める時間だ。
白蓮様に頼まれたことを復唱しつつ、私は立ち上がった。
仕方ない、掃除をしながら様子を見て、侍従や副官などがやってきたタイミングで今の内容を伝達するしかない。多少、下女の業務範囲を超えているけれど、このぐらいなら大丈夫だろう。
とにかく今は、なんとか二の刻までに、この書類に埋もれた部屋をある程度どうにかする方法を考えなくては。
私は襷掛けをして袖をあげると、書類の山に立ち向かった。
集中していると時間はあっという間に過ぎる。
すでに朝日が燦々と輝く二の刻前。
執務室を見渡して私はふぅと息をついた。
まだとても綺麗に片付いたとは言える状態ではないけれど、それでも最初に比べれば相当マシになった。
少なくとも人が来て面談できる程度には足の踏み場も座る場所もある。
散らばっていた書類は内容を確認した上で、恐らく部屋の主の整理方法と思われるものに則ってまとめ直した。
その他、種類や日付、重要度、進捗などに合わせて大まかに整理し、スケジュール帳など執務に必要なものは机の上に使いやすいように整頓している。
久々に大量の文字に触れ書類仕事をした私は、大きな窓から差し込む爽やかな朝日の中、程よい疲れと達成感に浸る。
たまにはこう言うのもいいわよね。
眩しい朝日を見ながら、そろそろ二の刻か〜とぼんやり考えていた時、大事なことを思い出した。
そう、白蓮様と思しき人物からの頼まれごと!
いくら下女の業務範囲外とはいえ、放置するのはまずい!
「え、でもちょっと待って。まだ誰も来ないってどう言うこと!?」
そう、誰か来たら託そうと思っていたのに、医局長の執務室にはまだ誰も来ない。
普通は侍従なり副官なり秘書なりがやって来て、色々朝のお世話を焼くはずだが、これからやって来そうな気配もない。
一瞬、このまま忘れて帰ってしまおうかと考える。
しかし急いで首を振る。
いやいや、私が頼まれたのに分かっていながら何もしないのは気持ちが悪過ぎる。
それに勘違いされているとはいえ、雪の代わりに来ている以上、後々トラブルになる様なことは避けておきたい。
しばし逡巡した後、私は一旦、掃除道具を片付けて白蓮様の私室に通じる扉を開けた。廊下を進みさらに奥の扉の前に立つ。
二度、小さくノックして控えめに声をかける。
「……おはようございます。あの、もうすぐ二の刻になります」
「……」
扉の前でしばらく耳を澄ませていると、先程と同じように衣擦れの音がして、人の動き出す気配がする。
それを確認してほっと胸を撫で下ろした。これで大丈夫だ。
戻ろうと踵を返した時、扉の向こうから声がかかる。
「茶を頼む。着替えたらすぐに出かける」
「は、え……?」
聞き返す間もなく、扉の向こうでさらに扉が閉まり、パシャリと身支度する水音が聞こえてくる。
「ど、どうしよう……」
何となく周囲を見回すが当然、自分の他には誰もいない。
ううっ、帰るタイミングを逃してしまったよ……。
戻るのが少しでも遅くなると次に控える仕事に差し支えるのだ。頭の片隅を雪の困った顔と下女頭の叱責が横切る。
でも、まあお茶を入れるだけだから。
私はちらりと白蓮様の私室の扉に目をやると、厨に走った。
これならば迷っている間に淹れた方が早い。あの雰囲気だとすぐに支度を終わらせて出てくるだろう。それまでにお茶を入れておかなければ。
厨も掃除したので配置はすでに把握済だ。下女は掃除の他にも色々な雑用を頼まれるのでお茶を淹れたこともある。
手早くお茶を淹れて、先程片付けてようやく表面の見えるようになった小卓の上に茶器をセットする。と、丁度そのタイミングで私室側の扉が開いて白蓮様(多分)が出てきた。
おおう、ぎりぎりセーフ。
私は小卓から数歩下がって、胸の前で手を重ねて頭を下げた姿勢で控える。
この世界で最もスタンダードな礼である。
私の視界は足元だけだけど、大股ですたすたと歩いてきた白蓮様が小卓の前で立ち止まり、茶器を手にしたのが気配や微かな陶器の触れ合う音で分かる。
「おはようございます」
緊張で思ったよりも小さくなった声で私は挨拶した。
ううっ、仕方ないとは言え、お前は誰だとか何でここにいるとか、色々怒られるんでしょうね……。
そもそも下女と局長が顔を合わせること自体が大変好ましくないことだ。
「……」
白蓮様はお茶を飲みながら私を見ているようだ。なんだか凄く視線を感じる。私は背中にダラダラと冷や汗を流しながらその視線にひたすら耐える。
「なんだ、その衣装は?」
「……え?」
「すぐに出ると言ったはずだ。そんな寝間着のような服で朝議に行けるわけがなかろう! 今すぐ着替えてこい!!」
「ひえぇ、はひ!」
反射的に執務室を飛び出して、侍従の控室に駆け込んでしまった。
ついに白蓮様の勘違い、スタートです!(笑)
澪は戸惑いつつも、染み付いたサラリーマンスキルによって
あれよあれよという間に、鬼上司白蓮様のペースに巻き込まれていきます。
このまま朝議に参加してしまうのでしょうか?次話をお楽しみに!