② 生首
眞菜の動きが止まる。諦めたのかと思ったが違う。どうやら下半身が棚の下敷きになったままで、それ以上近づけないようだ。体を際限なく伸ばすことができるわけではなさそうだった。
真一はほっとしながら、後ろを素早く伺った。
金網は半分ほど押し倒されていた。
碧が広がった空間に頭を入れて換気口の中を探っている。もう少しで開通しそうだった。
「し ん い ちぃ くぅ ぅん 」
か細い声に驚いて前を向いた。
「しん いちくぅん た す けてぇ」
それは紛れもなく眞菜の口から発せられていた。
もしかして、人の意識があるのか
真一は驚き、惑う。
姿、形は変わってしまっていても意識はあるのかもしれない、と思った。自分がどうなってしまったかの自覚があって助けて欲しいと思っているのかも知れない。ならばなんとか助ける方法はないのか、と思った。自然と振り上げていた腕が下に降りる。
「しんいちくぅん あついのぉ からだがぁ あつくぅてぇ つらいのよぉ」
切なさ気な声が眞菜の口から漏れる。焦点の合っていなかった瞳はいつの間にか真一をしっかりと捉えていた。その瞳に引き寄せられるように真一は一歩前に足を踏み出した。
「あつい あつい のどがかわく あついのぉ」
誘うような声が続く。
更に前へ。ちょっと手を伸ばせば眞菜の顔に触れることができる位置。
真一は乾いた唇を舐めると呟く。
「ま、眞菜……」
「ああ、あつい のどがかわくぅ だから……
噛らせろ!」
ぐわりと口を開けた眞菜の口には肉食獣の鋭い犬歯が何本も並んでいた。体が一伸びして真一の喉元に食らいつく。
バカン!
その寸前、眞菜の頭が叩き落とされた。
「お兄ちゃん、しっかりして!」
双葉が振り下ろした板切れを持ち上げながら叫んだ。
顔を真っ赤してした目には涙を一杯ためていた。泣きたいのを必死に我慢しているのは、真一文字に引き結ばれた唇を見ればすぐに分かる。妹をそんなところまで追い込んでしまったことに真一は激しく後悔した。
「ご、ごめん。双葉……」
「開いた! ねえ、開いたよ。双葉ちゃんから先に! 急いで」
真一の言葉を碧の大声が遮った。
双葉と真一は碧の方に振り返る。金網は大きくひしゃげて人一人潜り抜けられそうな穴にまで広がっていた。双葉は真一へ向き直る。その表情に込められた問いに真一はうなづいて見せる。
「もう、大丈夫だ。だから、先に行って」
「さぁ! 早く!!」
真一と碧の言葉に促され、双葉は換気口の中へ体をもぐり込ませた。
棒を構え直すと真一は眞菜へと目を向ける。眞菜はごそごその首をもたげ直す。双葉の攻撃はほとんどダメージになっていないようだった。
「し ん い ちぃ 」
眞菜が再び自分の名前を呼ぶのを聞いて、さっきの決意が冷たく暗い海の底へ沈んで行くような気持ちになった。
これは眞菜の意識が言っているのか、眞菜であった時の記憶の断片が自動的に言わせているのか
後者であって欲しいと思った。いや、単に風の音が偶然そう聞こえているのと同じだ、と真一は自分に言い聞かせた。そうしなければ挫けそうだった。
今度、また近づいて来たのなら叩きのめす
絶対妹や碧には近づけさせない
真一はそう固く決意すると棒を握る手に力を込めた。眞菜は距離をおいて近づいてこなかった。既に体を伸ばしきっている。下敷きになった棚から抜け出ない限りは距離を詰めることはできないのだ。
杞憂だったか、と思う。
「真一!」
碧の声に後ろを見る。
ちょうど碧が換気口に入ろうとしているところだった。片手を突っ込んだ状態で碧は、先いくよ、と短く言った。行って! と真一も頷くとすぐに眞菜へと向き直る。
大丈夫
これ以上彼女は近づいてはこれない
そう、自分に言い聞かせたその時。眞菜の首がグヌュリと伸びた。
おやっ? と思った次の瞬間には首の根本の皮膚がビリビリと破れ、ズルッと首が頭ひとつ分前に伸びた。
ズルッ
ズルッ
ズルッ、と首が伸びてくる。
何が起きているのか理解が追いつかない。
下がらないと誓ったはずなのに真一は無意識に一歩後ずさっていた。
眞菜の首は胴体からちぎれてなお、前へと伸びてくる。赤剥けた食道が引きずり出され露になっていた。
ズポッ
千切れた首から一塊の血を吹きだしながら真ん丸に膨らんだ胃が吐き出された。
内臓を引き出しながら眞菜の顔が近づいてくる。その事実を理解した時、酸っぱいものが喉元にこみ上げてきた。それを懸命に飲み下しながら碧の様子を見ようと背後へ目を向ける。
碧の上半身は既に換気口に消えていた。まろやかな曲線を描くお尻が換気口の上にコツンと当たり、焦って両足をじたばたとさせていた。
もう少し時間がかかるな
真一はその時間を稼ぐためにも眞菜へと向き直る。ごぼごぼと体液をこぼしながら十二指腸が引き出される。もう目と鼻の先にまで迫っていた。真一は奥歯を噛み締めると棒を眞菜へと振り下ろした。
ガキン!
思った以上に金属的な音を立て、眞菜の頭は床に叩きつけられ転がった。
棒を一度振り下ろしただけ、たったそれだけの行為だったが真一はぜぇぜぇと荒い息をつき、消耗しつくしていた。
もう一度、真一は碧の方を見る。ちょうど足が換気口に消えるところだった。次は自分の番だ。
「ひどいよぉ しんちいくぅん」
その声に真一はびくりと体を震わせた。
床に転がった顔がごろりと転がり真一を見据える。殴られたところがひどく膨れ上がり右目が半分に潰れていた。唇も破れて血が垂れている。
「いたいのよぉ しんいちくん なんでこんなひどいことするの」
真一は持っていた棒を放り投げると換気口に手をかける。そして、必死に狭い体をねじ込ませる。
「しんいちぃくぅん」
声が追いかけてきた。耳を塞ぎたかった。だが、両手両足を通気管の壁に突っ張って体を支えないとずり落ちてしまいそうになるためできない。手足を懸命に使い、ミリ単位で体を進めなればならなかった。
「まってよぉ おいていかないでぇ」
足元から声がして何かが足に絡みついてきた。
「止めろ! 止めてくれ!」
真一は叫ぶと、絡みついてくるものを蹴った。なにが絡み付いてきていて、なにを蹴っているのか、想像はできたが、その想像を懸命に振り払い前、前へと進む。
やがて、絡みついてくることもなくなった。
ただ、声だけが追いかけて来た。
「しんいちくぅん みんなぁ ひとりにしないでぇ おいていかないでぇ」
眞菜の悲痛な声が換気管で幾重にも反響しながら真一の耳に届き続けた。
止めろ、止めろ、止めろ
真一は声が届く間、ひたすら呪文のように呟きながらひたすら前へ進んでいった。




