episode 8 『邂逅』
「どうしてこんな奴らと一緒にいるんだ?」
二人の会話は、友里が一番言われたくなかった一言から始まった。
そもそも、この少年に、自分がアメリカ軍と一緒にいるところに突然踏み込まれてしまった時点で、友里には小さな引け目があった。見られたくないところを見られるという出会いの形が、友里の心を少し怯ませていた。
何かを彼に話しかけなくてはいけない。そう思い、ここまで歩いてきた友里だが、その後ろめたさが、口を重たくさせていた。
すると、彼が再び口を開いた。
「アダムスミスの「神の見えざる手」を知ってるか?」
二人初めての会話にしてはあまりに突拍子もないトピックスだった。友里は、不意な質問に少し戸惑う。
「唐突ね。今ここで話さなければならないことかしら?」
「いや。単に、知ってるのか知らないのかを知りたいだけさ。知らないなら知らないと答えればいい。」
驕慢な物言いにも思えるが、彼はただ本当にフラットに友里がそれを知っているかどうか知りたがっているようだった。この少年をただの無分別な若者とは思えなかった。友里も心を平静にして問いに答える。
「アダムスミスの国富論の一節でしょ。個人個人が自分の利益を追求すれば、神の見えざる手に導かれて、結果、それが社会全体の利益にもなっていくっていう…、それがどうしたの?」
少年が頷くように首を微かに揺らす。友里の解答に満足いったのだろう。試されている感じがしたが、上から見下されているような感じではなかった。
会話を少年が引き取る。
「その一説を強引に曲解して生まれたのが、新自由主義だ。新自由主義は知ってるか?」
「ええ…。国家の運営を、公的な立場にある官僚によって閉鎖的に行うではなく、市場原理や民間主導で自由に運営していくという考え方…。あってるかしら?」
少年はまた静かに頷く。
「その市場原理っていうのが問題なんだよ。」
同時に、悲しく溜息を吐くように、少し顔をうつ向かせる。そして、言葉を紡ぐ。
「国家の運営を市場原理に基づいて、民間主導で行う。言葉だけ聞けば、耳に心地のいい言葉に聞こえるが、その美辞麗句がアメリカ国民を貧困に貶めたんだ。「市場原理主義」には、どうやったら国民が豊かになるか、という考え方は全くない。あるのは「どうすれば資本を独占できるか、それだけだ。そして、その綺麗言をアメリカは他国にも押し付ける。もちろん日本にも。」
少年は続ける。
「アメリカのやり口はこうだ。「公平な競争をしましょう。」「市場を自由にしましょう。」そんな綺麗な建前を使って、相手国を交渉のテーブルにつかせるんだ。」
少年があざけるように口の端を吊り上げる。
「例えば郵政民営化だ。」
少年が、少し長めに息を吸い込んだ。
「日本は郵政を国が仕切っているのですか?郵便貯金や郵便保険は国が管理しているのですか?それはいけません。国が、保険事業や銀行事業に首を突っ込むのは卑怯です。国が税金などで、民間のそれらの事業に参入するというのは自由競争の妨害です。それは卑怯です。資本主義の美学に反します。なので、郵政は民営化してください。民営化すれば、公平です。国の手助けなしで、自由な競争が出来ますから。でも、自由な競争の結果、私たちが得をしても、文句を言ってはいけませんよ。だってこれは、公平な競争の結果なんですから。」決して、国の様々な事業や産業を国が守ってはいけないのです。それは卑怯なんですよ、ってな。そして…」
「そして、その綺麗言は、いずれ、関税や国民皆保険にまで及ぶかもしれない…」
無意識だった。無意識のうちに、彼の主張を補っていた。なぜなら、それは友里が常日頃から思っていたことと同じだったから。
「………そうだ」
友里の相槌に、少年の表情が少し驚いた表情をする。自分の認識を理解してくれたことに、かすかな喜色が見えた。少年は続ける。
「そういう狂った理論を綺麗事で包んで、国が、自分の国の利益を守るために敷いている規制をむりやり緩和や撤廃させて、強引に競争を始めて、他国に守られている領域に強引に入り込んで、儲けを得るんだ。そして、日本からも、全てむしり取るんだよ…」
少年が大きくない声で言う。しかし、その声は低く悲しげで、友里の耳に深く入り込む。
「その内、日本の資産は全て食い潰される。日本にもアメリカみたいな貧困がやってくるんだよ。いや、もうきている…。」
そして、少年は友里の後ろにいるペンタゴンや銃を構えて並ぶ米兵たちを指さした。
「あんたの後ろにいる連中は、そんな国の連中だ。」
改めて、少年が一番最初に言った「どうしてこんな奴らと一緒にいるんだ?」という発言が友里の胸の内を重くする。少年がアメリカの悪口を言えば言うほど、肩身の狭い感じが増した。
自分は今まさに彼の言う「そんな連中」と一緒いるのだ。
友里は黙るしかなかった。彼の理念は日本人として、とても正しいものに思えたから。
彼の胸の内を知り、沈黙に徹していると、少年の体は再び光に包まれ、足が空母から離れた。
ガチャガチャっと、友里の背後で音が聞こえる。きっと特殊部隊が少年の異変に対処しようと、銃を構え直した音だ。
「待って!円閣に行くの?」
「そうだ。ここには、あんたに一言言いに来ただけだ。」
「何をアメリカの悪口を!?」
「違うよ。」
「じゃあ、何!?」
「俺を止めるな。」
「え?」
「これから俺のやろうとすることを絶対に止めるな。それだけ言いに来たんだ。」
「…どういう意味?」
「これから俺のやろうとしていることは正しいことだ。それを思慮分別のない人間に邪魔されたくなかっただけだ。」
「……。」
「でも、あんたバカじゃなかった。だから、今の今まで言い忘れてたんだ。」
あんたバカじゃなかった。友里も同じ事を思った。
この少年には、思慮と分別があった。しかし、それ以上の愛国心もあったのだ。そのことが、友里をどうしようもなく不安にさせた。
「ここからだと、西に向かって飛んでいけば着く。」
遠回しに、自分の行く先を伝えてくれる。漁船衝突事件が起こったあの海域だ。
「…行ってはだめ。」
彼がここから去る前に伝えなくていけない。だから、矢継ぎ早に言った。
「今からあなたのやろうとしていることは分かってる。円閣諸島に行くのよね?そして、そこにやってくる大陸籍の漁船や哨戒機を排除する。でも、考えて。もし仮に、日本が領有を主張する円閣諸島を巨人が守ったら、大陸はこう思うわ。あいつはアメリカの手先だって。そうすれば、あの国も同じことを思うわ!」
少年は、友里の目をじっと見つめたままそらさない。
「あの巨人は、大陸の進出を妨害したぞ。西側の思想を持っているんだ、って。ということは、奴は共産主義の敵だ、って。分かるでしょ?半島の独裁国家よ。大陸と敵対するっていうことは「北」とも敵対するっていうことよ。同じ共産主義国家だもの。そして、あの国は核兵器を持っているわ。円閣諸島を巨人の姿で防衛すれば、あの国まで刺激することになる。未知の戦力を投入してきたと思って、核ミサイルのボタンに手をかけるかもしれない。東アジア周辺の緊張が一瞬にして高まるわ!」
彼が飛び立つ前に、一息で言い切る。
しかし、少年から、予想しない答えが返ってきて、友里は混乱した。
「…それでいいんだ。」
余りに予想外の返答が返ってきたので、友里の思考と動作は一時停止してしまった。
「な、……何を、言ってるの?」
戸惑う友里をよそに、光の中で、彼が友里に微笑みかけた。
「話せてよかったよ。」
そう言うと、彼を包む光は彼の体が見えなくなるほど分厚くなり、彼の体全体を覆った。そして、次の瞬間、静かに、しかし、ものすごいスピードで、光は海の遙か彼方に飛び去っていった。
後方で、大きく混乱するペンタゴンたちの声が聞こえた。静かだった甲板が、また急激に騒々しくなった。
しかし、友里だけはただ無言で、少年の発言の意図を掴もうと、考えを巡らせていた。
------それでいいんだ。
彼は間違いなくそう言った。
核兵器を撃っていいなどと、よもや日本人の口から出る台詞とは思えなかった、そして、その発言を、才のあるあの少年が言ったことが、友里の頭を余計に混乱させた。
あの少年が、考えなしに、そのような発言をするとは思えなかった。この世界に失望し、自暴自棄になった結果とも思えなかった。
あの少年は、そんな野蛮な行為をする人間ではない。
ほんの少し言葉を交わしただけだが、それだけは絶対にないと友里には確信できた。だから、様々な結論を想定した。
もし自分なら、どういう場合であれば核攻撃を受けることを是とするだろうか?
しかし、そんな事は考えたこともない。核を撃たせるなんて、どんな理由があっても、認めるわけにはいかないはずだ。
だから、次の結論も、これだ、という確信と共に導き出されたものではない。数ある、あれでもない、これでもない、という過程の中に散りばめられた仮説にしかすぎなかった。
(まさか、核兵器と力比べでもしようって言う訳じゃあるまいし…。)
だが、その仮説を思いついた瞬間、脳を巣くっていた混乱が一気に弾け飛んだ。同時に、自分があの少年の頭脳、そして器をこれっぽっちも計れていなかった事を思い知った。
そして、そんな結論が導き出せる彼の頭脳と、なにより、それを実行しようとする、彼の覚悟に鳥肌が立った。
(どうしてそんなことが思いつくの?それに、思いついたとして、まさかそれを実行するなんて…!)
彼の導き出した結論にただ愕然とするしかなかった。
「Hey!」
後ろから、ペンタゴンが近寄ってくる気配を感じる。
「Explain! What was he said!? Where will he go!?
(説明しろ!奴は何と言ったのだ!?どこに向かった!?)」
息を切らして近づいてくるペンタゴンを見て、ペンタゴンが言っていたあの言葉を思い出した。
『A little ripple will grow up to be a big wave, and then the ocean will get rough before long.
(小さな波紋が、大きな波に成長し、やがて海全体が大きくあれるだろう。)』
その言葉を思い出した瞬間、今度は、アメリカの思惑の全容、アメリカが真に恐れているシナリオを見抜いた。友里は大きく目を見開き、険しい顔でペンタゴンを直視する。
「そういう意味だったのね!?」
「WHAT!?」
「だから私を呼んだのね!?」
「What are you saying!? Say Engli...!?
(何を言っている!?英語で…!?)」
ペンタゴンの言葉が尻切れになった。先ほどの少年と同じように友里の体が光に包まれたのだ。
そして、友里の足先が空母からふわりと離れた。
特殊部隊の構える銃が三度、ガチャガチャと鳴る。
「Don't!(よせ!)」
もちろん撃つわけにはいかない。少女の手前には、自分たちを統括する国防総省の最上位の上官がいる。
「Hey! What will you do!? Hey! Say anything! Answer my question!
(おい!どうする気だ!?おい!何か言え!質問に答えろ!)」
ペンタゴンの言葉に応える気はなかった。
これから自分がすることは、アメリカに唆されたからではなく、自分の意志によるものだということを、自分に言い聞かせたかったのかもしれない。
------俺がこれからすることは正しいことだ。
違う。あなたのやろうとしていることは、世界を破滅に導く。だから…
------俺を止めるな。
絶対に止める!
友里を包む光は、友里の体全体を覆い、そして、その光もまた、静かに、かつ、すさまじいスピードで海の彼方へと消えていった。