episode 4 『朝霞』
次の文章を読み、以下の問いに答えよ。
--第一次世界大戦の後、アメリカ合衆国の国際的地位は高まり、東アジアの情勢も変化した。そのためアメリカ合衆国大統領ハーディングの提唱により、一九二一年の『 ア 』会議では日米英仏伊の保有主力艦の総トン数比率を米・英5、日3、仏・伊1.67とする『 ア 』海軍軍縮条約を締結し、一九三〇年の『 イ 』海軍軍縮会議では、補助艦の保有割合が英米各10に対して、日本7弱と定められた。
これらは第一次世界大戦後の世界の新しい秩序を構成するという名目で取り決められたが、真の目的は日本の大陸への膨張抑止であった。
この戦力比を不服とした日本国内の右翼勢力は、これらの外交政策を「軟弱外交」と非難し、『 イ 』海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸首相を一九三〇年に狙撃、死亡させる。
これにより、軍部の台頭が始まり、そして、その翌年、暴走した軍部が満州事変を起こし、日米間の対立はさらに深まった。
これらの条約で定められた日米の戦力比が、後の太平洋戦争に至るまでの、日米対立の最初のきっかけとされている。
問一 空欄『 ア 』、『 イ 』に入る組み合わせとして正しいものを、次の①~④から一つ選べ。
① ア ワシントン イ ジュネーヴ
② ア ロンドン イ ワシントン
③ ア ワシントン イ ロンドン
④ ア ヴェルサイユ イ ジュネーヴ
(たいして難しい問題じゃないわ。②と間違わせたいんでしょうけどね。)
選択肢の一つを鉛筆で塗りつぶす。
中間試験の三日目、一時限目は世界史。センター試験の問題形式を模して、設問は四択マークシート方式だ。
(アメリカ…。)
設問を解く友里のペンがふと止まる。
『Please take this stone to nearly U.S. army base. But, whatever you do. Never pass this except American.
(この石を近くの米軍基地に持って行ってくれ。但し、他のどの国にも渡してはいけない。)』
友里の脳裏に、あの白人男性の言葉が鮮明に甦った。
(…あの人は確かに「米軍」と言った。)
あの日から一週間が経っていた。
あの日、怪獣の動きを止め、体が光に包まれた後、友里は、公園から遠くないマンションの外階段の踊り場にいた。
なぜ自分がそんな場所にいるのかは分からなかったが、その場所から自分がさっきまでいた公園を見ると、首と尻尾と片足がない巨大な体が力なく横たえていた。
(夢じゃないのね…。)
その光景を見て、怪獣の尻尾や足を胴体から焼き千切った時のおどろおどろしい感覚が甦る。改めて自分のとった行動に恐怖した。
すぐにその場所から去ろうとしたが、自習の為の教材を入れたバッグは手元にあっても、階段の踊り場に自転車まではなかった。公園の駐輪場に戻るのは気が引けるが、家に帰るには自転車を使うしかない。駐輪場へ戻るしかなかった。
自転車を置いた後、公園内をずいぶん歩いたおかげで、友里の自転車は怪獣の亡骸からは遠い場所にあった。駐輪場へ向かう途中、巨大な生物を一目見ようと、公園内に入ろうする人々とすれ違った。彼らが自分の顔など気にもとめずに、走りすぎるのを見て友里は深く安堵する。
(よかった…。何も言われない。)
仮に、あの巨人の正体が、記憶の通り、自分だとして、今のご時世、それがたった一人にでも知られてしまっていたら、それだけでもうアウトだ。巨人の正体として素顔や容姿がネット上に晒されたらもう逃げ場がない。
(早く立ち去らなきゃ。)
歩調が速まった。駐輪場で自転車にまたがると、逃げるように公園から遠ざかった。
途中、怪獣が横たわる現場へと向かうものだと思われる、パトカーや自衛隊車両と対向した。なるべく、それらのドライバーと目が合わないように目を伏せた。
同時に、怪獣が事切れてから、マンションの外階段で意識を取り戻すまで、ほとんど時間が経過していないということも推測できた。
自転車を駆りながら携帯電話を見る。
『11:30』
友里が公園に入ってから、一時間も経っていなかった。人生で最も長く感じた一時間弱だった。
自宅に到着すると、身動きできないほどの疲れを全身に感じたが、その前にどうしても確認したいことがあった。
テレビの電源を付け、各チャンネルをザッピングした。丁度、お昼から始まる番組を前に、各局が短い時間枠で報道番組を流している時間帯だった。
『本日、前園外務大臣は、TPP協議に参加するため、アメリカのブラウン国務副長官と対談しました。』
『北朝鮮の人工衛星発射宣言で、日本と韓国とアメリカが強調し、対処することを、ソウルの新羅ホテルでの会談で約束しました。』
予想はついていた。
『東京で、巨人と怪獣が大乱闘!』などというテロップを出して緊急放送をしているチャンネルは一つもなかった。
今度は携帯を起動する。検索エンジンで有名動画サイトの名称を打ち込み、そのページまで飛んだ。
これにも驚きはしなかった。ネットとテレビの情報の乖離など今の時代の若者には常識だから。
《巨人キターーーーーー!!!》
《巨人光臨!》
《太刀川で巨人と怪獣が大乱闘!》
《怪獣ズタボロ!巨人の非道な戦法!》
《首がないのに!?驚異の生命力!》
テレビでは塵の一つも報道されていないトピックでネット上はお祭り騒ぎだった。おそらく先ほど撮影されたばかりだと思われる巨人と怪獣の動画が様々なタイトル付きでいくつもアップされていた。
検索サイトで「巨人」と検索するだけで、動画サイトだけでなく、日記、ブログなど個人のサイトでも、写真や動画が無数にアップされていた。
『動画うぷするぜ!こりゃ何じゃ?正義の味方ということでいいのか?』
『詳細モトム!』
『なんだ東京かよー。地方に来いよー。』
『正義の味方と言うには、戦い方が何とも…。』
『AパートもBパートもスーツアクター素人だな、ありゃ。』
『マスコミは一切報道しないな。このまま黒歴史になるか。残念だ。』
『あの公園、いま立ち入り禁止になっとる!怪獣いないが、ブルーシートで覆っとる!』
『あの羽からナノマシン散布するんだろ。その内、監視役のお兄さんも出てくるぞ。』
『なるほど。んで、パターン青の奴と箱根とか小田原で闘うんだな。』
『月までパンチとかしないかな?』
『みなさんの意見をまとめた結果。あれは和田アキ子のお母さんだと判明しました。』
動画が一つでもアップされていれば、そこには大量のコメントも投稿される。無責任なコメント、意味の分からないコメント、多種多様だ。
とにもかくにも、巨人と検索すれば、共有サイト、個人のサイトを問わず、巨人の話題で埋め尽くされていた。
東京のある限定された地域でしか起こらなかった出来事が、電脳空間を介して、瞬く間に各地に伝播している真っ最中だった。
パソコン画面から漏れんばかりの情報量と熱気を見ながら、友里はテレビが「巨人」を報道しない理由を考えていた。
突拍子もない出来事を報道することで、民衆に信じてもらえないから?
馬鹿な内容を報道するなと非難されるのを恐れているから?
考えればどれもまっとうな理由に思えたが、そんな表層的な理由ではないと友里は確信していた。
(・・・アメリカ。)
『Please take this stone to nearly U.S. army base.
(この石を近くの米軍基地に持って行ってくれ。)』)
友里は疲れた眼で考えを巡らせた。
あの力は米軍に管理されていたものだ。それが何の因果か、東京で発現した。
米軍の機密だとするならば、アメリカはあの映像が公的に報道されることなど許すはずがない。何があってもそれを妨害するだろう。どんな圧力をかけても。
テレビ局にはもうその圧力がかかっているという証拠だ。おそらく、明日の新聞も。
何のしがらみもないネットだけが真実を伝えている。
(しばらくは、ネットだけが情報源になるわね・・・。)
そう確信し、友里は、疲れた体を茶の間に横たえ、そのまま眠ってしまった。
母親が帰宅し、二人でご飯を食べた後も、疲れは無くならなかった。入浴後、すぐにベッドに入った。
暗闇の自室で、友里は自分を取り巻く環境を鑑みた。
どの動画サイトや個人のページを見ても、巨人の正体として、自分の顔や映像が映っているものは一つもなかった。おそらく、今のところ、ネットから巨人の正体は自分だという情報は流布されていない。
そのことにとりあえずほっと胸をなで下ろす。
だが、その安堵をかき消す大きな不安がずっと友里を支配した。
あの公園に、まだ乾燥したようにひびの入ったあの白人男性の遺体が残っているとしたら、きっと彼らは、こう思う。
「ここで彼が死んでいるなら、誰が怪獣にとどめを刺したのか?」
彼らはそれが誰なのかを今、血眼になって探しているに違いない。
「別の人間があの巨人の力を手にした。それは誰か?」
もし仮に、その力がアメリカ国外の人間に渡ったと判明した場合、彼らは私をどうする?
(…私、殺される?)
安堵を覆い潰す圧倒的な不安。その不安は恐怖に変わった。しかし、恐怖よりも疲れが勝った。
友里は涙を幾筋も枕に落としながら、深い眠りについた。
長かった一日はこうして終わった。
翌、日曜日。
起きたのは昼前だった。規則正しい生活を送る友里にはあり得ない起床時間だった。
目が覚めると同時に、昨日自分が体験した荒唐無稽な出来事を思い出した。
そして、再び思った。夢であって欲しい、と。
しかし、その期待は、もはや極めて薄く淡いものになっていた。期待して何度も現実を突きつけられる。昨日だけで、その経験を何度もした。だから、いつのまにか心に非現実を受け入れる耐性が育ち始めていたのかもしれない。
だからといって、確かめないわけにもいかない。ベッドから出ると、スマートホンを立ち上げる。昨日も来た有名動画サイトを開き、検索バーに「巨人」と打ち込んだ。すると、
(………うそ。)
友里は困惑した。それはもうほとんど放棄していた期待だったから。
(……どこにもない。)
昨日、そのサイトには巨人の動画が数え切れないほどアップされていた、しかし、「巨人」一色だった前日の大騒ぎが嘘のように、「巨人」の姿を映した映像はただの一つも検索できなかった。
(…本当に夢だったの?)
溶けて無くなりそうだった期待が蘇生しかけた。だが、気の毒にも、淡い期待はほんの一瞬で、ただのぬか喜びだったことに気付く。
有名動画サイトを閉じ、今度は、ただのサイト検索エンジンで「巨人」と打ち込んだ。すると、大手有名動画共有サイトではない、個人の日記やブログには、昨日、保存したと思われる、巨人の動画や画像がまだいくつもアップされていて、そんな個人運営のサイトがネット上には大量にあった。
友里はこの時、淡い期待を完全に棄てた。現実を受け入れ、冷静に情報を分析し始めた。
(大手動画投稿サイトからは消えていて…、個人のサイトには残っている…。)
考えるまでもなかった。結論はすぐに出た。
(サイバー検閲…。)
友里が見ていた動画投稿サイトの最大手はアメリカのカリフォルニア州に本社を置いている。本国で管理運営されているサイトだ。削除することなどおそらく造作もないことだろう。
(…消したんだわ。アメリカが…。)
大手サイトから巨人の動画がなくなっている。たったそれだけのことなのだが、友里はアメリカの気迫のようなものを肌で感じ取った気がして、背筋が寒くなった。
『YOURTUBEはすべて削除されたな。我々の動画も消されるかな?』
『動画も消されるし、我々自身も消されるかもしれないね。』
『日本も居心地が悪くなったな。』
『こうして日本も共産主義国家のように言論が統制されていくのかね。』
『デモでも起こすかい?あ、シャレじゃないよ。』
『よした方がいいね。顔を晒したら本当に消されるかもしれない。』
比較的とはいえ、言論の自由がある程度は確保されていると信じられていた日本のネット世界で速やか、かつ大胆な「検閲」が起きたことに、ネットの住人も、戸惑っていた。
そのせいか、その日見たコメントには、前日の高揚した雰囲気はなかった。
(アメリカは探すわ…本格的に。怪獣にとどめを刺した「後半の巨人」を。)
友里はパジャマのまま再び、背筋を凍らせた。
だが、いつまでも、それに浸っている訳にはいかなかった。もうすぐ中間試験。昨日は、全く勉強などできなかった。今日こそは試験勉強に打ち込まなければならない。
(私立大学に行く訳にはいかない。浪人するわけにもいかない。私は何があっても現役で国立に受かるんだ。)
自分に本懐を突きつける。これから自分の身に降りかかるかもしれない恐ろしい予感を振り払いながら、友里は、昨日は座れなかった図書館に向かい、自主勉強に没頭した。
一度、テキストを開けば、その後は、黙々と勉強ができた。恐怖を一時的に忘れるためだろうか、一心不乱にペンを走らせた。そうして、前日の遅れを取り戻すのに十分な勉強量を確保することができた。気がつくと、図書館の閉館を告げる音楽とアナウンスが流れていた。
翌日の日曜日はそのようにして終わった。
そして、週が明け、学校が始まった。
「お前、ネット見た?」
「見た見た。いやー、生で見たかったねー。」
「俺もネット見たけどさー。CGじゃないの?今、あのくらい作るの簡単なんでしょ?」
「それがさ、俺、あの公園、家の近くなんだけどさ。立ち入り禁止なんだよね。」
「そうそう。警察が公園の入り口の前でずーっと交通整理してんのな。」
「しかも、超でかいブルーシートがかかっててさ。おかげで何にも見えやしないの。」
「まじで?じゃあ、きっと映画の撮影か何かに使ってるんだろ。」
「お前、疑り深いねー。」
「きっと、世間を騒がせたい奴の煽動だろ。」
「夢がないねー。」
学校もネットと同じでその話題で持ちきりだった。今の世の中、ネットに触れない若者などいない。巨人のことを知らない人間の方が圧倒的に少なかった。
「安城さんは、巨人のこと知ってる?家近くじゃなかったっけ?」
「う、うん。そうだけど、人並み程度にしか…。」
仲の良いクラスメイトに尋ねられたが、無意識に素知らぬ振りをした。
「でもあの巨人、戦い方、下手くそじゃね?」
「というか、もっと怪獣暴れさせてさ。学校とか壊してもらえばよかったんだよ。」
「あー。俺もそれ思った。あいつ、怪獣早く倒しすぎなんだよな。」
優秀校とされる高校だが、みなお利口さんの人格者というわけにはいかない。中にはそんなことを言う生徒もいる。
(じゃあ、あのままあの怪獣を放っておけば良かった!?)
何も知らない他人の無責任な言葉に友里の心は激しく逆立った。だが、そんな自分を客観的に見つめた時、友里は改めて自覚した。
(こんなに腹が立つっていうことは、やっぱり巨人になったのは私なのね・・・。)
深呼吸をした。心をニュートラルに戻すために。
(何も知らない人はそう言うわ。私だって言うかもしれない。)
心拍を整える。雑念を振り払って、授業に集中した。怒りも不安も、頭を働かせていれば忘れられた。
こうして中間試験に必要な最低限の勉強時間は確保できた。
そして、試験は二日目まで終了し、三日目を迎えていたのだった。
物語が意外な展開を見せたのはこの日だった。
「あと五分。」
机間巡視を一旦停止し、黒板の前で試験官を務める教師が残り時間を伝える。
無駄にしたのは一日だけ。あの土曜日以外は、自分の時間をすべて中間対策に充てることができた。
一時限目の世界史も終わり、今は2時限目。この科目も、今のところ問題なく解けている。このまま最後の科目まで順調に終われば、さして順位を落とすことなく、中間試験を終えられる。
二時限目の科目を解きながら、友里は、自分の中間試験が、大きなミスなく、スムーズに進んでいることを実感していた。
「終了です。解答用紙を後ろから流して下さい。」
残り一科目。次が終われば、とりあえずは安心だ、そう考えていた。
一〇分間の休憩時間。各々、テキストやノートを開いたりして、次の科目に備える。友里も、パラパラと参考書をめくりながら、最後の試験科目の開始を待っていた。
その時だった。
「マジか!?」
友里の右斜め前に座る男子生徒が、タッチパネル式の携帯端末を手にしながら立ち上がって大声を上げた。教室中が彼の方を振り向く。
(好きなアイドルでも卒業するの?試験期間中だって言うのに、のんきな奴。)
そんなことを思いながら、視線を参考書に戻そうとした瞬間だった。
「また巨人が現れたぞぉ!!!」
刹那、友里はその男子生徒の方に誰よりも早く駆け寄っていた。男子生徒の携帯端末を持つ方の腕を掴み、問い詰める。
「巨人なのね!?怪獣じゃないのね!?」
「あ、安城さん?」
普段、友里とあまり会話したことのないその男子生徒は、突然腕を捕まれ面食らった。
「どうしたの、安城さん?」
友里と仲のいい女子生徒も友里の様子に戸惑う。
(…しまった。)
巨人に関してあまり関心がない体裁を装っていたので、自分がこの男子生徒の腕を掴んでいる姿は辻褄が合わない。だが、もう引き下がることもできない。
「どこに!?これはいつの映像!?」
「い、今だよ。生配信なんだ。朝霞駐屯地って書いてあるけど。ちょっと、安城さん、手、離して。」
「朝霞!?」
ぐっと男子生徒の持つ端末を自分の顔の近くに引き寄せ画面をのぞき込む。
『中継動画です!巨人がまた出現しました!場所は朝霞駐屯地の敷地内です!今、基地の外から撮影してます!』
小さな画面と文字だが、確かに朝霞と書いてあった。
そして、画面には金網越しに巨人の姿が映っている映像が流れていた。
(朝霞?駐屯地?・・・どういうこと?)
友里はずっと考えていた。
もし仮に、もう一度、怪獣が現れた場合、そのとき、怪獣と闘うのは誰なのか。
誰も闘わなかったらどうする?
自分じゃない誰かが現れるだろうと信じ切ったまま、誰も現れなかったら?
ただ怪獣が街を踏み潰し続ける。
もしそうなったら、闘わなきゃいけないのは自分なのだろうか?
仮に闘ったとして、勝てる保証などどこにもない。
自分と闘った怪獣は、自分と闘った時点では頭部を失い、ある程度弱っていた。
だから口からどす黒い炎を吐き出すこともなかった。
しかし、今度現れる怪獣が万全で、あの怪獣よりも頑丈だったら、そのとき、自分はどうなる?
勝てるだろうか?
それ以前に、勝っていいのか?
勝つとは殺すということか?
また殺すのか?
命あるものを。
それに敵は怪獣じゃないかもしれない。
巨人の力を管理していたのはアメリカだ。
「アメリカ以外の人間に渡しちゃいけない。」
彼はそう言った。
私を抹殺するために、アメリカが管理する別の巨人が私を殺しに来るかもしれない。
彼女は、今後どのような事態が起きて、自分にはどんな選択肢があるのかをずっと考えていた。だからこそ、この男子生徒の携帯端末から得た情報は、友里をおおいに混乱させた。
この巨人の出現場所を想定していなかったからだ。
(…駐屯地?…自衛隊の?)
友里はこう想定していた。
仮に自分を殺しに、怪獣ではなく巨人が現れるなら、それはアメリカが所有する巨人であるはずだと。
しかし、巨人が現れた場所は朝霞駐屯地。米軍基地ではなく、日本の自衛隊基地だった。
その点が友里を大きく混乱させた。
日本にも巨人がいた?
日本が巨人を有しているなら、自分をどう認識する。
同胞?
日本は自分を守ってくれる?
違う!
甘い考えを持っていてはいけない。
楽観視では対策を立てられない。
対策は悲観して初めて立てられるんだ。
日本とアメリカが結託しているとしたら?
自分を殺すために。
だから、朝霞に現れた。そうとも考えられるじゃない!
「おい、始めるぞぉ。席座れぇ。」
いつの間にか休憩時間は終わっていた。
「先生!巨人ですよ、巨人!また現れたんですよ!」
「んなことどうでもいい。早く座れ。」
巨人の再出現に沸き立つ教室を教師が制する。
「先生、安城さんが手を離してくれません。」
「なんだ、デートでもしてるのか。」
「自分がですか!?光栄です!」
「ちょっと、あんたが安城さんと釣り合うわけないでしょ!」
「そうよ。安城さんの眼鏡に適う男子はこのクラスにはいないわよ。」
「失敬な!愛は自由だろうが!」
「好きだよ、安城さん!」
「今日も綺麗だ!」
「どさくさに紛れて告白しないでくれる!あたしの安城さんよ!」
「うるさいぞ。とにかく座れ。おい、安城も座れ。」
この巨人は、どう動く?
朝霞から、私のいるこの学校に攻めてくるか?
だとしたら私はここにいていいのか?
私めがけて、この校舎を攻撃する?
そうしたら、みんな死ぬ。
私のせいで。
どうする。どうする?どうする!
少ない情報だけで、最善の選択をしなくてはならない。友里は、脳をフル回転させた。
その時。
「あっ!」
腕を掴まれていた男子生徒がまた声を上げた。
(ここに来る!?)
そう予感した。しかし、
「巨人が消えました!」
男子生徒は、教室全体に届くように言った。
「消えた!?」
再び彼の腕を強く引き寄せる。
「消えたあ!?」
周りの生徒も、事の動静を知ろうとその男子生徒に群がる。教室が騒然とする。皆、やはり、あの巨人のことが気になっていたのだ。だが、
「いいかげんにしろ、こらぁっ!」
教室が静まりかえった。
「さっさと座らねえか、休憩時間過ぎてんだぞっ!」
あまりの騒がしさに、さすがに怒りが極まったのか、教師の怒号が飛んだ。教師の喝と形相にひるんだ生徒たちは、おずおずと自分の席に戻る。
「ほら、安城も早く座れ。」
「…あ、で、でも…」
「よし。じゃあ解答用紙流すぞ。名前書くの忘れるなよ。」
静かになった教室で教師が解答用紙を配り始めた。友里も席に着くしかなかった。
すぐに、教室から離れようとも思ったが、「消えた」という情報に戸惑ったまま、教師の怒号を優先してしまった。このままテストを受けるべきか迷っていると前の席の生徒が解答用紙と問題用紙を自分に流してきた。狼狽している内に「それでは、始め。」と教師の声がした。生徒たちは、先ほどの騒がしさが嘘のようにテストに集中し、教室は一気に静寂に包まれた。
友里は教室を出るタイミングを完全に失った。
これが最後の科目だというのに、ペンは全く進まなかった。
あの巨人が、突如この学校の校庭に現れて、自分を殺すために、この校舎に無差別に攻撃をするかもしれない。
そう考えると、設問を冷静に解くことなどできなかった。
だが結局、巨人は現れなかった。試験も、学校も、その日は何事もなく終わった。
後日返却されたその答案の点数記入欄には、友里が、今までどの科目でも採ったことのないような最低の点数が赤いマジックで付けられていた。