氷の男を……
放課後の街には若者が溢れていた。
友達同士で雑談をしながら青春を楽しんでいる。
俺の身体は重かった。珍しく昼食をちゃんと食べたのに回復しない。
ふと靴屋が目に入った。どこにでもある量販の靴が安く売っているお店。
そこのガラスに写る自分の姿を見た。
髪が伸びている。そろそろ自分で髪を切らなきゃ。
真新しい制服なのにくたびれて見える。
顔が疲れているのか? 顔色が悪い。同年代よりも身長は高い。肉体労働をしているから身体に贅肉は付いていない。
足元に目をやる。何度も洗っても汚れが落ちないスニーカー。穴は布を当てて補強してあった。
俺はショーウィンドウに並んでいる靴を見る。
綺麗な靴は輝いて見えた。俺は何故か息を飲んでしまった。
心を強く持て。
――まだ履ける。靴なんて必要ない。ゲームなんて必要ない。スマホなんて必要ない。ご飯だって最低限で大丈夫だ。
それでも、俺は綺麗な靴から目を離せなかった。
「ねえ、君――、そこの学生さん!」
俺は思わずハッしてガラスから目を背けた。悪いことはしていない。でも……罪悪感が心に広がる。
振り向くと、金髪の派手な女性がそこに立っていた。手にはチラシを持っている。
「あっ、やっぱりね――、ねえ、私美容師の卵なんだけどさ、君って超スタイル良いよね? うんうん、素材は超すごいわ……。もし時間があったらだけどさ、カットモデルになってくれない? その髪型じゃもったいないよ?」
「え、あ――」
突然の事で返事が出来なかった。すごい勢いで自分の事を喋るお姉さんだ。
「時間ある? ない? 無かったら時間ある時教えて! 絶対カッコよくなるって! ていうか、学生服着てるけど、君本当に高校生? 大人びてるね〜。あれ? 顔色悪いよ? 風邪引いてるの?」
「あ、あの、俺この後バイトがあります――」
お姉さんはにこやかな笑顔で俺の前に名刺を取り出した。
「じゃあ時間がある時連絡して! 絶対だよ!! あっ、なんか君って連絡くれなさそうだね……。うん、逃さないよ! あははっ、これじゃあナンパみたいだね! ――君の携帯番号教えて?」
俺はポケットに名刺を突っ込んだ。後で捨てようと思っていた。
「スマホは持ってないです――」
「あっそう。じゃあ家電教えて? 絶対カッコよくするから!!」
俺は驚いた。スマホを持っていないと言うと、だいたい馬鹿にされる。
お姉さんは全然気にしていなかった。
家の電話番号を教えたら迷惑がかかる――
俺は名前と通っている学校を伝えた。
それで問題ないだろう。学校だったら連絡来るわけない。
「あそこか! お姉ちゃんいるじゃん! ありがとね〜! 今度行くからね!!」
嵐のようなお姉さんはそう言って去っていった。
なにやら疑問に残るようなセリフを残したけど、俺は頭が重くて考える気がしなかった。
アルバイトが始まると、体調不良がより一層ひどくなる。
「おう、そこ運んでおけ! ははっ、太田はよく働くな!」
現場はライトと暗闇によって人の顔が判別しにくい。
俺は体調不良を感じさせない返事をする。
「はいっ! 頑張って稼ぎます!」
吐き気がする、頭が痛い、身体が重い。俺は自分の身体を俯瞰して動かす。機械のように動けば楽になる。妙に靴の事が頭に浮かぶ。俺はそれをどうにか忘れようと、黙々と作業に集中した。
アルバイトを終え、着替えて街を歩く。
段々と目が霞んできた。
歩くだけで汗が出てくる。
身体は丈夫な方だ。一晩寝れば治る。家までは歩けば20分で着く。
車のクラクションが鳴っていた。うるさい、事故でも起きたのか?
右足を前に出して――左足を――、あっ、やばい。――助け――
足に力が入らなかった。俺はその場に膝を落とした。
自分の息が荒い。身体の熱が逃げてくれない。
死にたくはない。死んだら迷惑をかける――
あ、保険入っておけば良かった。そうすればもしもの時に義理の家族が払った俺の学費や生活費を一括で返せる。
頭の上から声をかけられた。聞き覚えのある声だけど、よくわからない。
「……全く……不器用と言うか、なんというか。妹に感謝しなければな。まさかこんな遅くまで――おい触るぞ」
俺は誰かに身体を支えられてゆっくりと立った。
「車に乗せる。家は確か――」
女性特有の匂いがする。母さんみたいに吐き気がする匂いではなかった。
顔を横に向けると――そこには田中先生が俺を支えていた。
何故ここに? どうして? 綺麗な顔は何も感情が浮かんでいなかった。
先生は有無を言わさず、俺を車に優しく押し込んだ。
シートベルトが苦しい。
車は静かに走り出した――
車だと一瞬で義理の家族の家に着いた。
俺はできるだけ平然とした口調で先生にお願いをした。
「――先生ありがとうございます。――俺は元気です。だから……お義母さんには言わないで下さい。お願いします」
「…………」
先生は無言で車から降りて、後部座席のドアを開けた。
俺のシートベルトを外して――身体を――俺を――柔らかく抱きしめた。
それは幼い子供をあやすような抱き方。
俺の頭をぽんぽんと叩く。
これはなんだ? 俺は安らいでいるのか? 状況が理解できない――お願いだ。俺に優しくしないでくれ――
じゃないと、俺の心の強度が――
先生の鼓動が聞こえる。
お母さんに抱きしめられるって――こんな感じなのかな……。
時間にして数秒だっただろう。俺にとって初めて大人に抱きしめられる体験。
ひどく長く感じられた。
先生はひと呼吸をして俺から離れた。
「あっ」
俺は思わず声が漏れてしまった。
それがひどく恥ずかしかった。
「――いいか、明日はお前は休みだ。これは先生からの命令だ。……ちなみに生徒とドライブをした後、抱きしめたなんて学校に知られたら私は重い罰則を受ける羽目になる。だから今夜のことは忘れろ。いいな、太田健人。――これは……口止め料だ」
先生は固形栄養食品3本を俺の懐に押し込んで、スポーツドリンクを手渡した。
俺は車から降りた。先生が支えてくれた。
俺がしっかり立っているのを確認すると、先生は車を出した。俺はそれをぼんやりと見守った。何故か先生が俺に言った『助けを呼んだら飛んで来る』という言葉を思い出した。
俺は懐に手を当てた。硬い感触がする。
……これは口止め料。
俺は栄養食品を取り出し、何も考えずに封を開けた。
チョコレートの良い匂いがする。チョコなんて数回しか食べたことがない。
俺は恐る恐る口に運んだ。
ゆっくりと咀嚼する。身体に行き渡るように噛みしめる。
甘さが脳を刺激する。スポーツドリンクが身体に染み渡る。
――パンの耳よりずっと美味しい。でも、お弁当の方がもっと美味しかった。
忘れていた味覚を思い出した気分だ。昼間食べた時に感じなかったお弁当の味が蘇る。
家の前でそれをゆっくりと味わった。
*************
俺が体調不良で休むとお義母さんに告げたら驚いていた。
一晩寝たら元気になったが、先生からのお願いだ。しかたない、休むしかない。
家は大騒ぎになった。
ここに住んでから俺が学校を休んだのは初めてだ。
「今日は手伝いしなくていいからね。ゆっくりしてなさい。……本当はいつも何もしなくていいのに……」
「いえ、これ以上は迷惑を――」
「病人は寝てなさい。春香も心配してるわよ? 早く元気になって頂戴」
俺は大きな部屋のベットを占領していた。それがいたたまれなくて心苦しかった。
義妹は俺の様子を何度も見に来た。それこそ学校に遅れそうになるくらい。
珍しかったのだろう。頑丈な俺が風邪を引いたから。
それにしても、この部屋は――、男性の物で溢れていた。まるで誰かが住んでいたみたいだ。小綺麗に片付けられてあり、ゲームや野球の道具がある。それに新品の洋服や――靴があった。義妹が言っていたお兄ちゃんがいたのか? 謎だ……。
「もう大丈夫です。……夜にはバイトに行きます」
お義母さんはため息を吐いた。
「あなたね……。アルバイト、工事現場でしょ? ねえ、本当に夕食のまかないって出てるの? 本当にご飯食べているの? あなたが嫌がるから無理に食べさせようとしなかったけど――。ねえ、あなたが渡しているアルバイト代って……あなたが必要な分まで渡してない? ……今まで受け取ったお金は全部貯金してあるわ。あなたの名義の口座で。健人、もう少し学生らしく甘えていいの――」
「なんで?」
冷たい声が出てしまった。
それじゃあ駄目だ。お金をちゃんと受け取ってくれないと、俺の心が弱くなる。
心が苦しくなる。生活費を入れないと、俺はここに住んじゃいけないんだ。
「なんでって……あなたはうちの子供なのよ? 春香だってお兄さんが出来て喜んでいるし。あなたは良く出来た子よ。……物分りが良すぎて……頑固過ぎて――見てて辛いわ――」
俺はベットから起き上がった。
身体は少しふらつくけど大丈夫だ。
「――家――出ます」
「え? あ、あなた何言ってるの? あなたはまだ高校生なのよ? そんな事は――」
「母さんの件も含めて、多大な迷惑をかけて申し訳ございません。……これ以上はもう」
俺はパジャマを着ていた。俺の私服は最低限しかない。義理の家族がみんなで出かける時は、俺はバイトがあると言って断っていた。俺は異物だから家族の団欒にはいらない。制服とあの汚れたスニーカーがあればいい。
俺はのろのろと制服に着替えようとした。
――後ろからお義母さんに抱きしめられた。俺は身動きが取れなくなってしまった。
「な、んで――」
「ねえ、あなたはわがまま言わないし、いつも自分を犠牲にしているわ。――お願い出ていかないで」
「いえ、いるだけで迷惑になります――」
お義母さんは泣いている。俺はそれを見ると申し訳ない気持ちになる。
俺のせいだ。俺がいなくなれば家族は元通りになる。
ドアのノブに手をかけようとしたら――扉が勝手に開いた。
「お兄ちゃんの馬鹿ーー!!」
お義母さんが驚いて俺から手を離した。
義妹が俺のお腹めがけて突っ込んで来た。
「ぐほっ――!?」
流石にいきなりだったから衝撃を殺す事が出来なかった。
俺と義妹はベットの上に転がった。
「バカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカ馬鹿っ!! なんて出て行くのよ! わ、私がいつもパシってるから? ねえ、良い子にするから出ていかないでよ!!」
義妹は俺の腹の上に乗って胸をポカポカと叩く。
「は、春香、あなた学校は? 盗み聞きしてたの!?」
「お兄ちゃんが心配だったから休んだわよ! いいでしょそれくらい! ねえ、お兄ちゃん――」
お兄ちゃんとは――俺の事か? 今までそんな呼称で呼ばれたことがない。
「お兄ちゃんが出ていったら、私も家出する! ――ねえ、これってすごく迷惑かけてるでしょ? だからお兄ちゃんが家を出ないのが一番迷惑じゃないの。わかる? ほら、返事して――」
く、苦しい――声が出せない。
義妹は俺の口元に顔を近づける。
「うんうん、オッケーだって! ねえ、お兄ちゃん知ってる? お義母さんは毎日お弁当と夕食を用意していたんだよ? ……それって食材の無駄だよね? だから――」
義妹はお義母さんを見た。
お義母さんは涙を流しながら俺に言った。
「ええ、食べてくれた方が迷惑じゃないわ。だから――」
そうだったのか……。俺は逆に迷惑をかけていたのか――
なら俺はこれ以上迷惑をかけない。
「解りました。迷惑がかかるなら家を出ません。それに、これからご飯を必ず食べます」
お義母さんと義妹は安堵の表情をした。
俺が駄目だから皆に迷惑をかけたんだ。
野崎の事だってちゃんと断ればよかったんだ。
俺が駄目だから雨傘がおせっかいを焼いていたんだ。
新橋だって、俺が可哀想に見えたからパンを用意してくれただけだったんだ。
ただの善意だったのに――
女性が苦手だって言えば良かった。
もっとしっかりした男だったら義妹だって俺を頼る。
俺がしっかりしてないからお義母さんに心労をかけてしまう。
みんなに悪いことをした――
罪悪感が広がる。
俺の心が凍りつく――
ああ、理解した。
俺は完璧じゃなかったんだ。
なら――誰にも迷惑をかけなくて――誰が見ても可哀想に思われないような――お義母さんと義妹がみんなに自慢できるような――
――――今度こそ完璧を目指す。
そして、卒業したら――静かに消えよう――誰にも迷惑かけずに――ひっそりと。
泣いている二人を見ていると、もしかしたら俺は愛されているのかと勘違いしてしまう。勘違いするな。俺は異物だ――
甘えそうになる心を、俺は歯を食いしばりながら押し殺した。
口の中で錆びた味が広がった。それは全然美味しくなかった――
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