新橋のパン
「――ちゃん、――ちゃん、朝ごはん――だよ。――納戸って――意外と広い――」
段々と頭が覚醒する。
身体が少しだけ重たい。誰かの声が聞こえてきた。
胸の当たりに重みを感じる。
女性特有の匂いだ。嫌な感じではない……このまま再び眠りに――
駄目だ!? 一気に目が覚めた。
「うわぁ!? お兄――あ、あんた、いきなり起きないでよ!? び、びっくりした……」
義妹が俺の胸の上に手を置いていた。
――俺は――寝坊したのか? 鼓動が早くなる。焦りが身体の不調を忘れさせる。
「すみません。すぐに準備をして家事の手伝いをします――」
「いや、もうご飯の時間だから。ほら、今日はもう良いでしょ? いつもよりも遅めだけどご飯食べて一緒に出ようよ」
そういうわけには行かない。俺はすぐに起き上がって着替えようとした。
「きゃ!? ちょ、まってよ! いきなり脱がないで――え……」
義妹は俺の背中を見て驚いた声を上げていた。
まずい、頭が本当に働いていない。今までこんなミスをしなかったのに――
きっと俺の背中の傷を見て気持ち悪いと思ったんだろう。
「――すみません、不快な気持ちにさせてしまって。昔、事故があって――。あの……すぐに着替えるので出ていってもらえませんか?」
「あ、ああ、うん、リ、リビングで待ってるね……」
俺はいつもよりも重たい身体を意識しないようにして、すぐに着替えた。
居間に行くと、朝食の準備がされてあった。
お義母さんと義妹はテレビを見ながら俺を待っていた。
待たせてしまって申し訳ない気持ちになる。
「――おはようございます。……寝坊してすみません、朝の手伝いが――」
「あら、おはよう。今日はいいのよ。たまにはご飯をゆっくり食べなさい」
お義母さんは優しい声色であった。
お義父さんはすでに家を出ているようだ。
いつもなら俺も出ている時間。俺は焦る。
義妹が俺を手招きする。
「そうよ、お……あんた、今日はゆっくりしなさいよ。ほら、トースト焼くわよ」
俺は食卓に着いた。
非常に申し訳ない気持ちで一杯だ。目の前には豪華な朝食が並べられている。
手を付けられない。
だって――俺は今日は働いていない。食べる資格なんてない。
「……残したらわたし悲しくなっちゃうな。ねえ、これも持っていってね」
俺の目の前に弁当箱の包みが置かれた。
俺はどうしていいかわからなかった。弁当は迷惑になるから断っていた筈だ。
やめてくれ。俺の心の強度が下がってしまう――
義妹は焼けたパンを手に持って俺の口元に運ぼうとした。
「はい、これ食べて! あんた見た目よりも痩せてんだから一杯食べなさい。ほら、口を開けて――」
俺は仕方なく義妹が持っているパンを受け取った。ご飯を残したら迷惑がかかる。
俺は機械的に朝食を食べ始めた。
「……ぶぅ」
義妹から不満の声が上がる。
お義母さんが温かい目で俺たちを見ている。
俺は――俺にはそんな仮初の家族の団欒が、辛くて――重しになっていた。
**************
学校はギリギリに着いた。
教室に入ると、珍しいものを見るような視線を感じる。
真島君は登校していなかった。彼はたまに休む。今日はきっと来ないだろう。
となると、俺は一人だ。
大丈夫、寂しくない。一人は慣れている。
席に着くと、すぐにチャイムが鳴って田中先生が颯爽とやってきた。
昼休みになると、俺は恐る恐る弁当を取り出した。
弁当は豪勢であった。恐縮して身体が縮こまってしまう。明日からもっと手伝わないと。弁当代金も支払わないと。借りはすぐに返さなきゃ。
俺は罪悪感とともに弁当を食べ始めた。
「あれれ? 太田が弁当って珍しいね? 今日はうちの店に寄らなかったよね? 寝坊かな? 心配したんだよ?」
顔を上げると、そこには同じクラスの新橋佳苗が立っていた。
彼女は俺がいつも行くパン屋の娘である。手伝いでいつも店先に立っている。
「うん、寝坊して」
新橋さんはニヤニヤ笑っていた。
あまり気持ちの良い笑顔ではない。まるで人の事を馬鹿にしているような笑顔。
「うちのパンの耳あきちゃったの? ていうか知ってる? あれ買ってるの太田だけなんだよ?」
そうだったのか? 確かに店先には並んでいない。見栄えが悪くなるからか?
俺は弁当に蓋をして、この場から逃げようとした。
弁当は一人で食べたい。
「あれ? もう食べないの? やっぱりパンがいいのかな? ねえ、もし良かった廃棄のパン持ってきてあげようか? どうせ捨てるんだからさ、ははっ」
「いらないよ」
俺は席を立った。
それでも新橋は俺の後を付いてきた。
「ねえねえ、覚えてる? 太田が『パンの耳ありませんか』ってお店で聞いた時の事? あの時はびっくりしちゃったよ。まさか同級生がね……。知ってるでしょ? 私が太田の為に捨てるはずのパンの耳を取っている事?」
「――知らなかった」
俺の登校は早い。新橋は朝の手伝いをしているので店でいつも対応してくれる。パンの耳を俺に渡す時はいつも笑っていた。……我慢していた。俺が生きる為に必要なものだ。
新橋は手を後ろに回しながら俺の前に移動する。
「感謝してよね? そうそう、太田って野崎と付き合ってなかったんだよね? ならさ――私と一緒に出かけても問題ないよね?」
俺は弁当を早く食べて罪悪感を消したかった。食べたとしても罪悪感は残る。
パンの耳は感謝している。だが――
新橋が媚びた目で俺を見た。
俺の背筋がぞっとした。
「髪……ボサボサじゃん。私が切ってあげようか? 太田って元がいいのに汚い格好してるからね。ほらほら、お家デートしようよ!」
「ごめんなさい。俺は――」
新橋は俺の言葉を遮る。
「はっ? 太田には拒否権ないよ? だって、あなたの為にパンの耳を用意してあげたんだよ? ねえ、もういらないの? 明日から用意しないよ? ははっ!」
新橋は冗談めかしで俺に告げる。
自分を小悪魔か何かと勘違いしている。
ひどく身体が重く感じた。今頃になって体調不良が俺を襲う。
……どこかで寝よう。誰もいない所で。
もうどうでもいい。
パンの耳が買えないなら仕方ない。昼食を抜いてもきっと大丈夫だ。ボクサーだって減量中は一食しか食べていない。
だから――我慢しなくていい。
「今までありがとう……迷惑かけるからもうパンの耳を用意しなくても大丈夫だ。今までの手間賃も払う……お金はバイト代が出てからにしてほしい。これ以上迷惑はかけられない……」
新橋は顔を赤くして大声を上げる。
頭に響く。やめてくれ。
「は、はっ!? じょ、冗談を本気にしないでよ!? わ、私は太田の事を思って――、ねえ、あなたおかしくない? 代金なんていらないよ! わ、私は太田と一緒に――」
「優しさなんていらない。俺を一人にしてくれ――」
新橋の足が止まった。
俺は歩き続ける。
「ば、ばかーー!! う、うちの店に来てよ……。ねえ、いつもお喋りしてたじゃん……。もっと仲良くなろうよ。じょ、冗談なんてもう言わないからさ……」
背中越しに声をかけられる。その声には悲しみが混ざっていた。
それでも俺は声を無視して歩いた。
フラフラした身体が熱を持ち始めた。
大丈夫。寝たら治る。
ふと遠くを見ると、俺たちの様子を見ている田中先生と目があった。
先生は表情を変えずに、俺を見ているだけであった。
俺はそんな見透かすような目が嫌だ。
元気なふりをして、俺は誰もいない場所を探して学校を彷徨った――
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