訪問者-5
「迷走神経反射、極度の緊張やストレスからくる自律神経の失調かな。ひとまず今は落ち着いたみたいだね」
道旗から呼ばれたボグダンは、手際よく莉子を階下の座敷に運び、貴和子に用意してもらった布団に寝かせた。
華奢な左手首の脈を診た後、静かに布団の中に戻してボグダンはゆっくり振り返る。
「ボグちゃんがお医者さまでよかったわ」
貴和子が胸をなでおろした。
「医者なんですか」
なるほど白衣が似合いそうだと琥珀は思った。
「しかしどうしてそんな緊張なんかしたのだ」
御山が心配そうに貴和子の後ろから顔を覗かせる。
「あらやだ、あなた」
貴和子が眉を顰める。その意味を勘ぐったのかどうかはわからないが、御山は首を竦めて後ろに引っ込んだ。
「ボグダンさんが莉子ちゃんを煽ったんですよ」
冷めた口調で琥珀は告発した。
「煽ったなんてとんでもない」
心外だと大きく仰け反って、ボグダンは少し驚いた表情を乗せた。そんなボグダンを一瞥して、琥珀はそのまま部屋を出て階段を上がって行った。
「五十嵐さんのお宅に電話をしてご両親に説明をするわ。五十嵐さんの許可次第だけど、今日はうちに泊まって行ってもらったほうがいいんじゃない?」
貴和子は手際よく子機を握りしめてボグダンと御山に視線を向ける。御山は異言はないと深く頷いた。
「特別に持病がないのだとしたら、もう少ししたら目が醒めると思うよ」
布団に寝かされた莉子は、気を失って階下に運ばれてきたとは思わせないほどに、血色の良い穏やかな顔になっていた。
「顔色が良くなってきたわね」
貴和子は優しく愛しみを込めた手つきで莉子の前髪をそっと撫でてあげた。
「大丈夫だよ、何も心配ない」
ボグダンがゆっくり振り返り、道旗を見た。
「ヤースのそういう顔、久しぶりに見たよ」
彼の言葉に道旗は自分がどういう顔をしていたのか知った。とんでもなく驚いていたのだろう。
「思春期の女の子は、心身共に実に不安定なんだ。世界中の女の子は些細なことで体調を崩したりする。この子だって例外じゃないさ」
さてと、とボグダンはゆっくり立ち上がって顎を小さくしゃくって二階を見た。
「こっちは二階の思春期が長引いている若造くんの機嫌をとってくるよ」
階段を上がる足音が遠ざかっていく。
道旗は莉子の顔をしばし眺めながら沈黙した後、貴和子に救いを求めるような視線を送った。
「一体どういうことなんですか」
しどろもどろに道旗が問う。
「靖彦くんだって気がつかなかったわけではないでしょう」
「いや、しかし。俺とは年も離れすぎているし、年の離れている兄のように慕ってくれているのだと……」
「それももちろんよ」
「では……」
道旗らしくもなく歯切れの悪い返事に、貴和子がくすりと笑った。
「みんながみんなそうではないかもしれないけど、誰だって大人の人に恋い焦がれる事ってあるでしょう」
懐かしい目をして貴和子はほぅっと息をついた。今はどっしりと構えている貴和子にも少女時代はあったのだ。
「……そうですね」
道旗も建前ばかりの微笑をした。自分が今どういう表情をしているのか正直よくわからない。ただ、明らかに通常ではしたことのない表情をしているのだというのは確信が持てた。
ボグダンが言ったように、一体どんな顔をしていたのだろう。
藍色がかった空があった。
夏には空を覆う枝に葉をたっぷりつけている境内の樹木は、今は細い両手を精一杯冬の空に向かって伸ばしているかのように、寒風に震えている。
何かを求めているようにも、何かを拒絶するようにもそれは見えた。
窓辺に腰を下ろして、琥珀は己の中の無音に耳をそばだてた。目を閉じ、呼吸を浅くする。
しんとした心の無音が聞こえてきた。
色彩のない無色な中に自分がいる--。
いや、無色なものが自分の中にある。白でも黒でもない、限りなく〔無〕に近い状態の心の内が、一番安心できていた。
それは誰のものでもない、自分のものなのだ。
(ボグダンという男)
彼を見た瞬間ざわりと、心の中に他色が混じりこむようなざわめきを覚えた。
悪質なものではないのはよくわかる。道旗の知り合いだというから間違いないだろう。それに御山夫妻や飼い猫までボグダンを快く迎えているのだ。
(自分だけ……)
なぜ自分だけ、これほど心がかき立てられるのだろう。
琥珀は掌を眺めた。莉子のキーホルダーに籠められた念を機会に開け放たれた扉。そこから入ってくる彼のエネルギーは、どこの誰も持っていないほど無色だ。
琥珀自身の無色より、限りなく無に近い存在。
混ざり合いそうでゾッとした。それが琥珀の感じたボグダンの素直な印象だった。--その彼が後ろにいるのがわかる。
ゆっくり振り向くと、ざわめくほど掻き立てられるその気とは裏腹な、愛嬌のある微笑みを乗せたボグダンが立っていた。
「……視ればいいんですか」
静かに琥珀は言った。それを聞いたボグダンは思わず破顔する。
「流石だね」
上着のポケットから出した手を、そのまま琥珀の前に差し出した。
「これは……」
差し出されたボグダンの白い大きな拳を凝視したまま、やや強張った顔で琥珀は今一度、ボグダンの蒼い瞳を見つめた。
「僕の実家にあったものだよ」
蒼い瞳が一瞬翳りを見せる。
黒に近い深い藍色の瞳がたゆとうように揺らいだ。その視線をなぞると、ボグダン自身の手に行き着く。
琥珀は一度小さく呼吸をして、それから彼の手に握られているモノを受け取るべき手を差し伸べた。
手を重ねるように静かに琥珀の手にモノが収まる。重さはそれほどないが、ひんやりした冷たい金属を感じた。ボグダンの手が自分の手を離れると、そこには6センチばかりのアクセサリーが掌の上に見える。
燻んだ銀色をした細長い四角形のアクセサリーだった。掌に乗せたまま、親指でそれに触れてみる。コロリと不安定にアクセサリーは横に転がった。何かを挟み込む構造をしている。見たことがないものではなかった。だが、琥珀には縁遠いものであることは確かだ。
(ネクタイピンにしては太いし大きい、髪を束ねるもの?)
「バレッタだよ」
無言で思案している琥珀に、ボグダンは静かにその名を告げた。
「バレッタ?」
「女性の髪を後ろで留めるアクセサリー」
「ああ、そういえばそうだ」
琥珀の母親もたまにこういうのを着けていたなと、既に遠くにいる母親の記憶を垣間思い出した。記憶の中の母は、もう少し丸みのある深い鼈甲色のバレッタだった気がする。いつも妹の側にいる母親の姿は、後ろ姿ばかりだったので琥珀はそれだけはよく覚えていた。