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訪問者-4


 莉子は生唾を飲んだ。

 勢い余って道旗の部屋に上がり込んだのはいいが、今ここで自分は何をしようとしているのか、わからなくなっていたのだ。

 廊下を隔てた琥珀の部屋とは全く雰囲気が違っている。

 道旗の部屋がシンプルだとしたら、琥珀の部屋は伽藍堂がらんどうだ。生活感はこっちの方がある。だから余計に莉子は戸惑った。思えば家族以外の男性の部屋に入ったことなど、莉子の経験上全くなかったからだ。

 琥珀の部屋は、あまりにも生活感がなさすぎていた。だからそれほど意識することもなかったのかもしれないと、今更気がつく。

 気がついた途端、自分が何をしにここに来たのか、その目的すら脳みその中からすっこ抜けてしまった。

 一人掛けソファーを促されて、莉子はそこに腹筋にありったけの力を入れて、きっちりしっかり座っていた。気を抜けばずっしり沈んでしまいそうになる。

 道旗が普段そこで深く腰をかけてリラックスしているだろうソファに、自分が腰をかけている。

 そう考えるだけで、莉子の額に汗が滲んだ。

「すぐ終わるから、そこにかけててくれるかい」

 こちらが用件を言う前に、そう言われて反射的に頷いてしまっていた。終わるまで外にいますとか、何故言えなかったのだろうと後悔し始めた。

 何故か緊張するのだ。琥珀の部屋に入った時には感じることのない、心臓が飛びぬけるような動悸。

 当の道旗はこちらに背を向けてパソコンを相手にしていた。莉子のドギマギには全く気づく様子もなく、テキパキと作業を進めている。それが唯一ありがたかった。

 改めて視線だけを動かして室内を物色する。

 アダルトなカレンダーもなく、雑誌すらも積み重なっていない。飲みかけのペットボトルが床に転がってもいない。衣類さえベッドに放り投げてもいない。

 莉子の友人がたちが、惚気混じりで交際相手をぼやいていた話を思い出していた。ギリギリまで露出したアダルトなカレンダー。雑誌は無造作にタワーを作り、飲みかけのペットボトルがトラップのように転がって、いつ脱いだのかわからない衣類がベッドの隅に丸まっていたという、友人たちの彼氏の話。

「私が行くたびに片付けしなくちゃいけないのよ、なのにすぐ散らかるの。お母さんが掃除すると怒るんだって」

 困ったという嬉しそうな顔で、恋人なしの莉子ともう一人を前に彼女はそう毒づく。

(道旗さんと付き合ったら、そういう苦労はしなくて良さそうね)

 などと勝手なことを思うだけで、少し緊張から抜けれそうだった。

 ゆっくり壁に視線を移すと、ウォルナットの深い木目の本棚に英字の本がぎっしり埋まっていた。

(英語……)

 そのままサイドテーブルに目線を移した。

(そういえば、アメリカ人だったんだっけ)

 インテリアといえば、あるのが古びた地球儀だ。ふと、そこにある光るものに莉子は目を奪われた。

 小ぶりのバレッタのようなものがある。

 しっかり見える位置ではなかったが、シルバーの細長い四角形のそれは、道旗の部屋にはすぐに気がつかない程に馴染んでいた。

 目が痛いくらい乾く……。どれくらいそれを眺めていたのだろう。莉子は忘れていた瞬きを数回繰り返した。

 それは何なのか。

 --女性の長髪を纏める--。

 胸が詰まる気がして莉子は息を止めた。これ以上息を吸い込んだら、肺の中が押し広げられて心臓が止まるような圧迫感に慄いたのだ。

(いないわけがない)

 三十も過ぎた男性に、恋人がいないわけはない。今いなくても、過去に一人や二人はいてもおかしくはない。

(他に何か--)

 自分の疑念を裏付けるもの、あるいは覆すものを、莉子は大きく首を振って室内を見改めた。

 琥珀の部屋と間取りはほとんど変わらない。壁も天井も床も。しかし、やはりこちらの方が小綺麗な生活感に溢れている。

 人が住まう空間だと認識できる。

(この気持ちって何だろう)

 ゆっくり莉子は、道旗の背中を見つめた。

 今、目の前にとてもとても興味に満ちた人の背中がある。

 この人が自分のソウルメイトだったらよかったのに、と思う自分を否定できない。そうなるとソウルメイトだと言われた琥珀の事を少しかわいそうに思えるが、実際のところ莉子には琥珀とソウルメイトという実感が何もなかった。

(もし、本当は道旗さんとソウルメイトだったりして。運命の人だったりして。琥珀さんとは違う、本当の)

 同じ空気をいま、ここで吸っている。道旗の吐いた空気を自分が吸っているかもしれない。

 空気はとても濃密だ。

 莉子は鼻をすすった。

 ひどくひしゃげた気持ちになる。

 道旗は優しい。とても優しくて名前を聞いただけでも心が踊る。

 そして好きだ。

 自分は道旗に釣り合いな相手になれるだろうか。

 ぼんやりと莉子は想った。

 両手のタップする動き以外は、ほとんど揺れないその背中を見つめる。暖かそうなケーブル編みのニットのカーディガンの網目をなぞる。大きな背中だ。その横に肩を並べる女性が見えた気がした。

 --もし、道旗に彼女がいるとしたら、その女性はどんな人なのだろうか。

 その人に、道旗はどんな顔で微笑みかけるのか。どんな言葉を囁くのか。

 今一度バレッタに視線を注ぎ、莉子は自分の気持ちがひしゃげてくるのを感じた。

 とても不安で怖い。

 自分は、道旗を好きなのだと確信したのだ。

 ここから飛び出したい衝動に駆られ、力んだ腹筋が小刻みに震えた。

(好きなんだ--)

(私は道旗さんを好きなんだ)

 まっすぐに揃えた両足が、腹筋の震えに連動してきた。

(もうだめ、ここから出たい)

 自分が木っ端微塵に爆発する様子が目に浮かぶ。

 その時だった。

「やあ、お待たせ」

 道旗がくるりと椅子ごと回り、莉子に微笑みかけた。

 いつもの変わりない道旗だったが、莉子には大きな起爆剤になった。

「ん?」

 道旗の顔が訝しげに曇る。

 

 男の人の声が、莉子の耳に入ってきた。

 好きな声だ。とても穏やかで好きな声色。

 グッと肩を掴まれた気がした。

 途端に柔らかな匂いが鼻をくすぐる。

 人の温もりが全身を包んだ。

 莉子の目の前は真っ白だ。ただただ白い。何も穢れもない白い白い世界。

 道旗の声をとても近くに聞いた気がして心が踊る。莉子は安堵と共に。気を失った。


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