訪問者−2
冬の陽は釣瓶落とし。午後の4時にもなると空は藍色に染まり、一気に夜の色に翻る。
今日は朝からの降雪のせいか、重たい灰色の雲が空を覆って、とっぷり辺りは暗くなっていた。降りたバス停に立って琥珀は今一度空を見た。
雪はもう降っていない。道路上に降り積もった雪はところどころ溶けていて、ジャクジャクしたシャーベット状に幾つもの足跡を遺していた。
息は白い。寒い事には変わらないのだが、琥珀はコートのジッパーを下げて首元を外気に曝した。
染み込む冷気に、身震いをする。
しかし、家に戻るともっと身震いする事態が待っているのだ。
琥珀が感じる〔勘〕というものが、この後待ち構えている〔悪い予感〕を告げていた。それにくわえて、今日の教習所での失敗が頭を更にもたげる。
重い足を引きずるように家に戻った琥珀を待っていたのは、コンコンと暖かい居間と、テーブルいっぱいの出前寿司の山だった。
「来たかい、来たかい」
御山が上機嫌に居間と台所を往復している。
「今日は遅かったのね」
エプロン姿の喜和子が廊下に突っ立っている琥珀に声をかけた。
「何か、あるんですか?」
その騒々しさに思わず琥珀は尋ねた。おおよそ答えは見当ついている。
「ボグちゃんが’来たんだから、好物のお寿司を出前とったのよ」
今朝の男の姿を思い出した。
長身の黒髪で色白の男。いやらしいほど似合うクセ毛と彫りの深い顔立ち。
「琥珀くんの好きな茶碗蒸しもあるわよ」
ウインク気味な表情で喜和子は台所に引っ込んで行った。御山といい喜和子といい、ボグダンという男はこの家にめっぽう気に入られているようだ。
「あの、道旗さんは?」
おずおずと琥珀は台所に顔をだした。コンロに置かれた鍋から立ち上がった湯気が、暖かい家庭の風景に馴染んでいる。
「靖彦くんはボグちゃんとお使いよ。そろそろ帰って来る頃じゃないのかしら。パリンカを買いにいったみたい」
「パリンカ?」
「お酒よ、お酒」
ああそうですか、と口の中で声にならない返事をしながら、コートを脱いだ琥珀の耳に聞き慣れた音が聞こえた。道旗の車の音である。ややあって、玄関が開けられると、ビニール袋を二つ両手に抱えた道旗が屈み加減で傾れ込んで来た。
「ああ寒い」
彼らしい第一声である。
「おかえり」
御山が居間から顔を出す。
「店は混んでいたか?」
「いいえ、それほどでもないですよ」
ここまではよく見るいつもの光景だ。琥珀の脈拍は早くなった。スローモーションのようにソレは、道旗の背後から姿を現した。
「ただいまでーす」
今朝見た姿のままの男が、玄関に立っている。今朝と違うのは、その容姿からは似つかわしくない陽気な口調でただいまを言うところだ。
途端に琥珀と目が合う。
ごくりと生唾を飲んだ。
その日の夕飯時に、来客用の長テーブルコタツを囲んだメンバーは、御山夫妻、道旗と琥珀、ボグダンと猫のみさえさんだ。
御山夫妻とボグダンの会話は、世間話のそのものだった。どこでどうしていたとか、何をしているとか、そういう彼の情報のようなものは全く挙らない。最初は耳をダンボにして御山夫妻とボグダンの会話に神経を寄せていたが、彼らの話は「冬に日本に来たのは初めて」だの「雪見温泉というのは」だのそういう類いだった。
琥珀はボグダンの隣に座っている道旗の顔をちらりと見た。
元々余計な感情を表情に出す事はあまりない道旗だ。期待通りの普通の表情で、御山たちの会話に相づちを打っている。
今朝の浮かない顔立ちの道旗の顔は、琥珀の見違いだったのだろうか。ボグダンの訪問をあまり歓迎していないように思ったのは、琥珀の思い違いだったのかもしれない。
そうでなくても、道旗は二日酔いの寝坊、ボグダンのサプライズという迷惑を被った直後だ。おまけに今朝の寒さは、道旗にとってはトリプルもスペシャルにも大ダメージだったに違いない。
突然の訪問者を怪訝に思っている人が居てくれたらよかったな、とほんの少し期待したのを、琥珀は胸の内に留めておく事にした。
目の前にある寿司に箸を伸ばす。
話が弾んだ切れ目に、ボグダンの視線が琥珀を捉えた。
「キミが琥珀くんだね、ヤースーからはキミの事は聞いているよ」
(聞いてんのかよ、っていうか、ヤースーって誰だよ)
心のボリュームを最小限に絞って琥珀は毒づいた。
「ヤスヒーコだからヤースー、単純すぎる。だから僕はもっとひねったほうがいいとアドバイスしただろう」
「俺は気にしていないよ」
道旗がボグダンのグラスに酒を注ぐ。
隣に座っている旧友の肩をぽんぽん気安く叩いて、ボグダンはくしゃりと笑った。
この時、琥珀は初めてこの男の顔をまじまじと見た。
玄関に立っていた時の陰鬱とした雰囲気はない。癖の強い黒髪から覗く目尻に、僅かな笑い皺が愛嬌を添えている。どちらかというと好青年だ。あの高級そうな出で立ちが陰鬱と思わせたのか--。
屈託なく笑う笑顔がこの上なく眩しかったのは、肌が透き通る程白いせいか、彼の内面から滲みでてくるものなのか。
歳はおそらく道旗と同年代、いや、もう少し若いかもしれない。しかし、琥珀よりは明らかに年上である。二十代後半、それくらいの雰囲気だ。
「琥珀くんとは初めての面会になるのか」
御山がアルコールで火照った顔で琥珀を見る。小さく頷いて琥珀は答えた。そして
「お初にお目にかかります。以後お見知りおきを」
わざとらしく丁寧に頭を下げてみせた。
「堅苦しいね、丁寧にありがとうございます」
ボグダンも琥珀に頭を下げる。御山と喜和子はどっと笑い出した。ちらりと道旗の表情を琥珀は盗み見る。
道旗もまた、普段と同じように笑っていた。
しかし、彼が旧友と再会したのなら、もう少し屈託ない表情で笑んでもいいような気がして、琥珀は腑に落ちない何かを感じた。
もちろん、道旗の屈託のない笑顔というのを、琥珀すら知らないのだが。
--思えば自分は何も知らない。
道旗の事も、莉子りこよりは知っているがために、知った気分でいた。それがどうだ、やはり何も知らない。
御山の事も、喜和子の事も、猫のみさえさんに限っては猫であるからしょうがないとしても。ボグダンという御山家に染まりきっている外国人の存在は全く知らなかった。
琥珀がこの社務所に居候してから6年余り。
ボグダンという名前の外国人の話を一度たりとも聞いた事がなかった。
……いや、その何年かは引きこもりに費やしてしまっていたとしても、だ。
琥珀は表面上へらへらと笑い繕いながら、ただひたすら時が過ぎるのを待った。