訪問者−1
〔 訪問者 〕
雪がしんしんと降っていた。
それは昼を過ぎても止む事なく、ただただ静かに降っている。教習所では足首まで降り積もった雪に、生徒達は怪訝な顔で表に立っていた。
これから仮免に向けての技能講習を前に、タクシー乗り場のように並び付けられた車の列を見る。染み入るような寒さの中、生徒達は各々に割り当てられた車の横にたむろい、教官の指示を待つのだ。
教習所のコース上の雪は綺麗に払いのけられており、ところどころシャーベット状の雪にタイヤの痕が見受けられる。
生徒は何も若い人だけではない、それぞれ老若男女。思い思いに緊張した面立ちで立っていた。
皆、色々な感情を持って今に挑んでいる。
その数々の感情が、今の琥珀にはとんでもない災いだった。
教官の指示に従い、琥珀は運転席に乗り込んだ。
シートベルトをし、バックミラーの調整をする。
そして、
ごくりと唾を飲み込む。
ハンドルを握るその瞬間が一番怖かった。
様々な人が、様々な思いで様々に握ったハンドルである。
ふざけんな
もう駄目かもしれない
今度こそ
なんなんだ
どうして
楽しい
面白い
面倒くさい
怖いよぉ
嫌だ
どうしよう
緊張する
今に見ていろ
あの教官むかつく
あいつより先に
退屈だ
記憶という積み重なりになりきらない、埃のような幾億もの感情が、噎せ返るように琥珀の中に出没する。
それらは記憶のように、琥珀の中に入り込むのとは違っていた。また、読むのとも違っていた。まさに廃屋を舞う埃のような煙たさで、琥珀の意識の中に舞い込む。
高校を卒業した後、琥珀はすぐに教習所へ通学した。だが、その頃の琥珀には、この咽せるような感情達を受け流す術を取得していなかった。
確かに、今はあの頃より鮮明に感情を感じる事ができる。あの頃はこれらの感情が、もっと不明瞭で不透明で濁った存在だった。ハンドルを握る度に、数多の感情が入り乱れ、極度のパニック状態に琥珀は陥った。
それを機に、琥珀はベッドから起き上がれなくなった。事実上引きこもったのだ。
「では、準備ができたらどうぞ」
くぐもった男の声が聞こえて琥珀ははっとした。
横を見れば、中年の教官が訝しげな顔で琥珀を見ている。
「あ、はい」
一つ生唾を飲んで、琥珀は意を決した。
「緊張しますか?」
教官が小さく言った。
「あ、いいえ、いや、はい」
「マニュアル車はコツを掴んでしまえば簡単です」
言われて琥珀は思わずハンドルを握ってしまっていた。覚悟をしていた分、ハンドルに篭っていた様々な感情は、砂嵐のように琥珀の脳裏を横切ると、やがてハラハラと静かに落ち着いた。
「ATにしなかったのは、仕事でマニュアルを使うからですか?」
世間話をして気持ちを落ち着かせようとしてくれているのは十二分に判った。
「はい」
路旗のBMWはマニュアル車だ。あのグレーのステーションワゴンを琥珀は運転できるようになりたかった。
「今は企業でもほとんどがオータマチックですね。しかしマニュアルは車と一層一体になれる」
教官が世間話のようにそう続けた後、静かに促す。
「さあ、どうぞ」
「はい」
クラッチペダルを踏み込んでギアをローに入れる。
数多の感情に負けないように。脱輪しないように。脱線しないように。エンストしないように。
そしてそれらに混じって、ひとつだけ余計な思いが琥珀の脳裏にはあった。
今朝のあの訪問者、ボグダンという男の事である。
彫りの深いあの両眼を思い出しただけで、琥珀は不穏な予感がした。
ガコンガココン。
「もっとゆーっくりアクセルを踏みながら、クラッチを離してください」
言われて自分がエンストをしたのに気がつく。慌てふためいた手が何をしたのか、ワイパーが琥珀の視野を横切った。ふんわりと舞い降りた雪を、虚しくかき消すワイパーの音だけが虚しく車内に響いた。
運転に邪念は無用だ。
がっくりと項垂れる琥珀の横で、教官は静かに「さあ、エンジンをかけ直して」と指示をする。
スルッと発車した後方の教習車に追い越され、そのウインカーランプを眺めながら琥珀は奥歯を噛み締めた。