冬のある日−3
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道旗がまだベッドから起きていない同じ頃、琥珀は布団の中で唸っていた。
昨夜の披露宴で飲み物ばかり口にしていたせいか、妙に尿意が近い。夜中に何度もトイレに起きようとしたが、自分のベッド周りすぐ近くに、冷え冷えとした冷気があった。到底起きてトイレに行こうという気持ちも薄くなったのだ。
思えば昨夜タクシー代行から降りた時間帯も、息が白くなるほど寒かった。それ以上に今朝は格別に冷え込んだらしい。くの字に身体を折って、布団を頭から被り睡魔で自分の尿意をごまかす。
そういうことを何度か繰り返した。
時計を見れば朝の八時を過ぎていた。尿意をごまかす何度目かの眠りが思ったより深く、道旗が起きた音は聞いていない。
あの酔い様だ。二日酔いは見て取れた。いつもより酔ったといっても、道旗は声を上げたりむやみに上機嫌になったりなどはしない。注がれた酒を黙々と飲み干し、会話に弾み、いつものように微笑んでいる。
昨夜は少し飲み過ぎた、と言ったのは道旗だった。
「神主が千鳥足になるまえに帰ろう琥珀くん」
口調にやや甘い色気が交じる。
新郎新婦に丁寧に挨拶を交わした後、確かな足取りで道旗は表に出た。琥珀が手配した代行タクシーに乗り込んだ途端、道旗は前触れもなく崩れた。
「いやぁ~嬉しいお酒は進んじゃうね~、酔っぱらいに見えちゃったかい」
「大丈夫ですよ、しっかりしてました」
嘘ではない。
道旗が酒にめっぽう強いのはよく知っていたし、たとえ酔っても自我を忘れることは今までに一度たりとない。
ただひとつ。
ふたりっきりになった途端、道旗はごねる。
タクシーだというのに、あそこのドラックストアに寄ってほしいだとか、コンビニでソフトクリームを食べたいとか。
とにかく真っすぐ家に帰るには、林道一本道しかない山深い妖怪屋敷にでも、酒を飲みに行ったりしない限りは無理だろうという勢いだ。
「すいませんね、次のお客さんが待ってますんで、なるべく早くしてもらっていいですか。すいません」
この時期が稼ぎ時の代行運転手は、困ったそうな顔で二人を振り向き、一際しらふの琥珀に念を押すのだ。
(自分が運転できたら、誰にも迷惑かけないだろうな)
こんな事は年に一度か二度あるかないかだが、そういう時の為に、という大義名分をつける。
運転免許の取得を志していたのは、何もこの日を境にではない。
本当は助手として相棒として、路旗の運転ばかりに頼ってもいられないだろうと思ったからだ。この先、どれくらい記憶読みの依頼が来るのだろう、どれくらい遠くへ行くのだろう。全く想像ができない。
だから琥珀は決意した。
運転免許を今度こそ、取得しよう。
そう、一度チャレンジの途中で、ちゃぶ台をひっくり返す勢いの如く投げ出した運転免許だ。
今日は午後から実施がある。
なにより恐ろしい実施がある。
その恐怖心で琥珀の尿意は頂点に達した。寒さにはそれほど弱くはないが、膀胱いっぱいに水分がたまっていると思うと身震いがする。
そそくさとトイレに入ると、琥珀は便座に座って眉を潜めた。なるべく余計なことを考えないように、如月の披露宴の翌日に教習所の予定を組んだ。今朝だってこんな時間に起きるつもりなどさらさらなかった。
琥珀の計画では、如月の披露宴の二次会があり、その翌日なのだから十一時過ぎに起床してドタバタとバス停へ走り込む。慌ただしくて教習所の心配などしていられない、そういう計画だったのだ。
尿意に負けた。
そして、考えないようにと意識すればするほど、今日の午後の教習所の恐怖が襲って来た。
琥珀は大きく身震いをして、敗北感いっぱいの感情でトイレを出る。
「あら、おはよう」
喜和子が台所から声をかけてきた。
「おはようございます」
「早いのね」
「はい、ちょっとトイレに」
そう言って着膨れした喜和子の姿を見て今一度身震いをする。パジャマ姿にスリッパひとつでトイレに起きて来たのだから、露出している足首からつま先が一気に寒さを感じた。
「ちょうど今ね、コーヒー淹れるところなの、琥珀くんも飲む?」
言われて琥珀はとびっきりの濃い珈琲が欲しいのに気がついた。いつからだろう、珈琲を好んで飲むようになったのは。
ガスコンロの上のヤカンから勢い良く蒸気が立ち上がった。響く甲高い音が耳に入った瞬間、もう一度寝直そうという僅かな睡魔がどこかに行ってしまった。
なにより、あまり見た事のない反射ストーブの炎が、むしょうに暖かそうでそこに行きたかった。
「飲みます」
台所に足を踏み入れると、ほんわり暖かい空気が肌に触れた。
「あら、そんな寒い格好していたの? 風邪をひくわよ、着替えてらっしゃい」
パジャマ一枚の琥珀を見て喜和子が驚く。
「それとも寝直すのかしら? 昨夜は遅かったし」
「あ、いいえ。今日、午後から教習所があるんで。コーヒー貰えますか」
ストーブの前にかがみ込んで両手を突き出してみる。
(あったかい)
「急に冷え込んじゃったから急ぎで出したのよ」
こんなに寒くなるなんて、と喜和子は珈琲カップを片手に言う。
お湯が落ちる音がする。
心地よい。
琥珀の掌に伝わる反射ストーブの熱。
お湯の落ちる音と、それを追うようにたゆとう珈琲豆の香り。嫌な事を忘れるというのは、こういう事のようだ。
そして和らいだ気持ちの側には必ず、寄り添うように莉子の姿が脳裏に浮かぶ。
黒髪を風に靡かせて、にっこり笑う少女。
琥珀は顔をしかめた。
(なんだってあいつの顔を思い出すんだ)
自分でも正直理解ができないでいた。ソウルメイトだからなのか、それとも莉子が道旗と琥珀の対応をあからさまに差別付けるからか。