想う人-8
「こんにちは」
玄関の方から大きな莉子の声が聞こえて来た。
それから貴和子が応える話し声があって、やがて階段を駆け上がる足音がする。
コンコン
ノックだけは控えめだった。
一息ついてから琥珀が返事をすると、それまた引き戸も静かに開いた。
覗き込むように莉子が部屋の中を伺っている。
「入って来たら」
「あ、うん」
おずおずと莉子は部屋に入ってくると、背中を向けて戸を閉める。
「外、寒かっただろ」
雪こそは降っていないが、冷え冷えとした冷気が町を包んでいた。
「あ、うん、寒かったよ」
振り向きながら莉子は首元のマフラーを外した。
「この部屋寒いから、道旗さんの部屋に行こうか」
寒がりな道旗の部屋には、寒冷地仕様のエアコンと赤外線ヒーター、ホットカーペットがある。
「大丈夫、向こうだって温まるまで時間かかるだろうし、私はここでいい」
そう言うなり莉子は、カーペットの上に胡座をかいてベッドを背もたれにしている琥珀の隣にストンと腰を下ろした。
シャンプーなのか柔軟剤なのかフローラルの香りが漂った。
「今日は何?」
素っ気なさを装って琥珀は隣に座る莉子を横目で見た。
学校帰りの泉高校の制服には、真冬の寒い外気が残っている。少し離れていてもひんやりした感覚が伝わって来た。
不意に抱きしめたい衝動を覚えて、琥珀は自ずと生唾を飲んだ。
「それ、何読んでいるの?」
莉子は質問に答える様子はなく、琥珀の胡座の中を覗き込む。
「道旗さんの部屋にあった本」
「随分古そうな本、英語だし。琥珀さんって英語読めるの」
そこを突いてくるのは予想範囲内だ。
「いやいや、そうじゃないけどね」
「ふーん、あ、挿絵が綺麗だとか」
本を覗き込もうとする莉子の体が琥珀に近づく。いつになく琥珀は動揺した。
「あー、うん、そうそう。挿絵が綺麗だからさ、ほらね」
本を莉子に差し出すと、それを受け取った莉子は嬉しそうに本をめくり出す。
嬉しそうなのは、その本が道旗の所有する本だからだろう。
(そんなことわかってる)
自分がなぜそこで不機嫌な気持ちになるのかも、琥珀は判っていた。
「英語の本とか、やっぱおしゃれだよね」
どこか惚けた声色で莉子はペラペラと本を捲る。
「あのさ、ところでさ、今日は何か用事があったの?」
意識に反してぶっきらぼうに琥珀は尋ねた。そのぶっきらぼうさも気にしない様子で莉子は「うーん、特に」と曖昧な返事をする。
やがて本を閉じると、じっと琥珀の顔を直視した。
「な、何?」
あまりにも真っ直ぐな視線を受けて琥珀はたじろいだ。
「パパが農協の会議で迎えが少し遅くなるらしいの。それまでここに居ようかなと思っただけなんだけど、迷惑だった?」
(迷惑なんて、そんな)
心の中で琥珀はあたふたと弁解した。だがそれは心の中だけに留めて、表面はクールに取り繕って莉子に視線を返す。
「そんなんじゃないよ」
言葉短めに応える。
「俺は夕方から運転スクールに行くから」
そこまで言って息を飲む。
莉子がさっきまでとは打って変わった、輝いた表情で琥珀を見ていたからだ。
「車の免許取るの?」
「う、うん、まぁそうだけど」
「いつ取るの?」
「次に仮免試験だから」
「いいなあ、運転している男の人ってすごくかっこいいんだよね。ねぇねぇどんな車を買うの?」
鉄砲玉のようにポンポンと話が弾む。莉子は興味のある話題になると途端に口数が多くなるのだ。
「しばらくは二人で一台をシェアしようって、道旗さんがそう言ってくれたけど……」
その車は廃車になってしまった。
「だけどあんな感じの車がいいなぁと思ってはいるよ」
道旗が所有しているグレーのステーションワゴン。VとOとLとVとOのスペルの並んだ硬質な車は、道旗には似合っていると琥珀はずっと思っていた。何かの選別だと、何番目だかの両親から贈られて来たものらしい。
「道旗さんの乗っている車、かっこよかったよね。あの車だったら琥珀さんもいけるんじゃないかな」
「ああいうの、乗れるなら乗ってみたいけどな」
どの車を買いたいとか、そういうところまではっきりしていなかった己を内心で罵る。話がここで途切れるんだろうかと、しょんぼりしかけた琥珀の心配とは裏腹に、莉子は明るく話を進めていた。
「勿体無かったよね!」
「しょうがないさ」
「うん」
「莉子ちゃんが無事なのが何よりだし、道旗さんも怪我はしたけど事故の規模を考えればあれだけの怪我で済んだのは奇跡だって言っていたし」
「うん」
少し、控えめな返事が返って来た。
「あのね」
一時の静寂。
どきりと琥珀は不安になった。
「道旗さんが入院して、しばらくは琥珀さんも大変だと思うけど。私にできることがあったら言って。ソウルメイトっていうのがどんなのかよくわかってはいないんだけど、役に立てることがあるなら頑張りたいの」
長い髪がサラリと音もなく揺れる。
切りそろえられた前髪からチラリと上目遣いの目が合った。
「それは道旗さんの為だから? それとも俺の為に?」
「え?」
しばしの沈黙。ほんの数秒たらずが、何分もの時間の長さを感じた。
(何を言っているんだ俺は)
内心慌てて琥珀は生唾を飲み込む。とっさにそんな事を口走っていたのだ。
「あ、あのさ。違うんだ、変な意味じゃなくて」
取り繕えば繕うほど顔が熱くなってくるのが自分でもわかった。額から汗が垂れてくる気配に怯えて、どさくさに紛れて「ああ」と呻いて顔を両手で覆った。その仕草が至極おかしいことに気がつく。目の前にいる莉子の顔が、みるみる赤くなっていくのが自分の指の隙間から見えた。
「正直に言うけど」
消え入りそうな声が、莉子のふっくらとした唇から漏れた。
「私、道旗さんのことが好きなの」
(そんなことは、ずっと前から知っていた)
心の中で琥珀は絶叫した。
「琥珀さんだって道旗さんの事好きでしょう?」
「え?」
「わかるもん。道旗さんが幸せなら琥珀さんも幸せなのよね。きっと、道旗さんもそう。琥珀さんが幸せなら道旗さんも幸せなんだと思う。だから私は二人の幸せのために、頑張りたいの」
「そ、そうなの?」
「違うの?」
「いや、うん、違わない。……広義に解釈をすれば、ね」
道旗の口調を真似て、最後は脱力のごとく琥珀は疲労感に襲われた。
「だから早く頑張って免許を取ってね。そうしたらドライブ行きたいな」
(きっと三人で、って言うだろうな)
遠い目をして琥珀は莉子の言葉に相槌を打った。
そっと莉子はそんな琥珀の腕に手を添えた。
「きっとうまくいくってば」
「ありがとう……」
きっと無意識な行為だったのだろうけども、莉子の手のひらの温もりが琥珀には心地よかった。以前のように、莉子の中の想いなどが琥珀の中に入ってくることはなく、しっとりとした少し汗ばんだ体温だけが鼓動を打っていた。
それが普通の事なのだろう。
琥珀自身でも心外なほど、心は落ち着きを戻していた。
(三人だったら三倍楽しいかもしれないな)
--そんな数時間前の出来事を回想しながら琥珀はハンドルを握った。
「うまくいく気がする」
琥珀の独り言だったが、呟きを耳に入れた助手席の教官が、僅かに「うん」と返事を返した。
掌から入ってくる記憶や念はじわりじわりと靄がかかったように曖昧になり、目の前の風景がしっかり見えてきた。
一通り教科書通りの行程を終えて、琥珀はバックミラーを確認する。
気持ちがすっきりしていた。ギアを入れてゆっくりクラッチを離してアクセルを踏み込む。
「うん、今日はいいね」
いつも通りの無愛想な教官の無愛想な声が左耳に入ってくる。
それでも今日はなんだか素直に受け止めれる。
「しかしウインカーを出し忘れている」
「あ! はいすいません!」
やれることはやってみる。
誰かの為でもいい。自分の為でもいい。
でも結局は回り回って自分の為だったりするんだよな。
琥珀は少し微笑した。




