想う人ー4
バレッタ。
銀色の硬質な塊は、目に見えて冷たそうな鈍い光沢を表面に纏っていた。
ボグダンが部屋にいて暖房をつけていたせいか、バレッタは初め触れたほど冷たく感じなかった。
ニャーーー
猫の声のような音が聞こえて、琥珀はハッとした。
みさえさんの声だと思ったのだが、猫にもそれぞれ声はある。みさえさんより幾分野太い声だった。
琥珀は自分が目を閉じたままなのを理解していた。
ここは、バレッタの記憶の中である--。
ニャーー
足元に身をすり寄せた猫のしなやかな身体が見えた。それを上から眺めているのは誰の記憶だろう。
琥珀は静かに息を吐いた。
肺の中の空気がすべて出し尽くされる感覚をイメージして、そのまま無になる自分に移行する。
黒い猫だった。
真っ黒い猫の眼は、鮮やかな黄色だった。
「怖くなんてないわ。黒猫は真っ黒でみんなが不気味がるけれど」
白い腕が猫に伸びる。
「こんなに可愛いのにね」
持ち上げられた黒猫の喉元に、僅かな白い毛があった。
「でもお母さん、黒い猫は魔女の使い魔だってお父さんは言っていたよ」
小さな黒髪の少年は、母親の腰に必死にしがみつきながら黒い猫を母親越しに覗き見ていた。
「見つかったら大変だよ」
「そうね、殺されてしまうかもしれないね」
その言葉を発した母親の横顔は、神様のように美しいと少年は思っていた。子供心に、美しい母が発した言葉の不釣り合いさに不機嫌になる。
「嫌だよ」
少年は自分の中に湧き上がった不機嫌が、どこから出てきたのか理解できないまま、またむっつりと不貞腐れた。
「この仔がみんなの言う魔女の使い魔だと思うのは何故?」
「わかんないよ、色が黒いからじゃないの」
そこまで言って、少年は自分の手を毛髪に載せた。自分がお母さんと呼ぶ美しい人は、自分の本当の母親ではないことを知っていたからだ。
「……僕も、みんなとは違うよね」
「いいえ、同じよ」
「僕はお父さんとお母さんの本当の子供じゃないから」
「だけど、同じよ」
「……それに、僕はおかしいんだって」
その言葉には母親はすぐには応えなかった。
「みんなには見えないものが、僕には見える」
俯いて少年は硬く強張った。足元に黒い猫が寄りそうのが見えた。
「僕は本当は悪魔なのかな」
「そんなことはないわ」
ふわりと、ラベンダーの香りが少年を包んだ。母親がきつく少年を抱きしめた。
「みんなには見えないけど、僕には見える人は、死んだ人なんだって。でも--」
少年は涙を流して母親の背中に腕を回した。
「--僕の死んだお母さんとお父さんは見えないんだよ」
母親はただただ少年を抱きしめた。
「お母さんとお父さんが見えないのは、僕が悪魔だから?」
「いいえ」
「でも、お父さんが言ったの。神様の前でそんなものが見えるなんて言ったら悪魔だぞって! 他に死んだ人が見えるのに、死んだお父さんもお母さんも僕には見えないんだよ。きっと僕が悪い悪魔だから死んだ人が見えても、お父さんもお母さんも見えないのかな。会いにきてくれないのかな」
「違うのよ」
母親は静かな声で諭すように囁いた。
「僕はその黒猫と同じ、悪魔なんだよ」
「黒猫はね、ここでは魔女の使い魔と言われているけれど、違う国ではラッキーの猫とも幸せの猫とも言われるのよ」
「嘘だ」
「本当よ」
「じゃあどうしてここではそうなの?」
「そうね、どうしてなのかしら。あなたがもう少し大人になったら、わかるかもしれないわ」
「それに、あなたは悪魔じゃないわ。たとえ亡くなった人が見えても。だけどもここにいる間は、誰にもそのことを話してはいけないわよ。お母さんと約束してくれる?」
「うん」
「亡くなった人が見えるのは、あなたの個性よ。オリジナルティ。何も悪いことではないのよ。でも、ここではそれがおおっぴらにはダメなだけ。でもね、世界は広いのよ。ダメじゃないところだっていっぱいあるわ」
「お母さん、この猫どうするの?」
「お庭で飼っているの」
その言葉に少年は驚いた。
「お父さんに見つかったら?」
「大丈夫よ、お庭のあの小屋はお母さんの趣味の小屋。お父さんは教会の敷地にちゃんとした小屋があるでしょ。こっちの小屋にはお父さんは立ち入らないし、猫ちゃんはそこで飼ってるの。今日からあの小屋はお母さんとあなたの二人だけの秘密の基地よ、さぁ」
立ち上がった母親の頭上にライラックの枝があった。音を立てて枝が折り重なると、ややあって金色の髪がキラキラと陽を弾いて舞った。
足元に銀色のバレッタが落ちる。
「あら」
おかしさを堪えきれない顔をした母親が長い髪をかきあげて笑っていた。
「僕がとってあげる」
少年は草むらに落ちたバレッタを拾って差し出した。爽やかな草の香りがした。
「ありがとう」
慣れた手つきで髪を束ねる母親を見上げる。少年の小さな手からバレッタを受け取る時、不意に見せた笑顔がやはり少年には美しく見えた。
「ねぇお母さん」
「なあに」
「僕のこと、悪魔じゃないって言ってくれてありがとう」
「本当のことよ。お父さんは神様に使える身だから、そんな風に言ってしまったかもしれないけれど。他の人と違うものがあるのは、恐れることでもないの。きっとどこにでも、受け入れて受け止めてくれる人がいるわ。この猫のようにね」
「僕、今度からは見えても黙っているよ、誰にも言わない」
「そうね、約束しましょう。でも辛くなったらお母さんにお話なさい。あなたは本来は何もおかしな子ではないの。普通の人が見えないものが見えたって、そんなものはただの個性。個性は強ければ強いほど、人との差が出てしまうかもしれないけれど、誰もあなたを否定することはできないわ」
少年の気持ちがストンとどこかに落ち着いたのが琥珀にはわかった。
自分は悪い子ではない。おかしな子でもない。
自分には味方がいる。お母さんがいてくれる。
大きな礎となって少年の心を満たしていた。
ふと、何か思い当る温もりを琥珀は少年の記憶から感じていた。
心の礎--。
(そうか--)
琥珀も腑に落ちた。
自分も経験したことのある心の安堵。家出をしたその日、コンビニエンスストアの裏。道旗に手を差し伸べられた瞬間に、とてつもなく似ている。
それと同時に、自分を蔑むもの、受け付けないもの、差別するもの。それらに対して深い淀みの溝を感じた。
少年もそういう思いを抱いていたのだろうか。この時はまだ、彼自身も自分の奥に芽生えた溝を知る由もない。
共鳴したのだろうか。
ぼんやりと琥珀は意識の狭間で考える。
記憶の中には、バレッタの持ち主である母親の念が篭っていた。
彼女はただひたすらに案じていた。
他人と違う個性を恐れ慄き無くそうとする思想を。それを真っ向に受けて自分の存在を否定する思想を。
彼女自身には聞こえないものを聞く少年を、自分には見えないものを見る少年を--。
それがどこか、バレッタの持つ記憶の遥か過去に似ていた。
エディタの乳母だ。
生まれつき人より白いエディタを、彼女は誰より案じていた。
他人と違う個性を恐れ慄き無くそうとする思想を。それを真っ向に受けて自分の存在を否定する思想を。
(同じだ)
明確なものを琥珀は感じた。
「大丈夫よ、あなたは何一つ私たちと変わりはない」
乳母の言葉が意識に響いた。




