生物学的考察におけるヒト科の定義及び、人としての生命倫理のレポート。
2012年に書いたもの。少し手入れしてUP。
現在、生物学的においてヒト科に属する人間が食物連鎖の頂点に立っているのをご存知だろうか。
だが、人間と言う生き物は他の生き物と比べて肉体的に劣る部分が多い生き物である。そんな肉体的に劣る人間が何故食物連鎖の頂点に立つことができたのか――。
それは人が誕生してから現代に至るまでの間で『学習』する事を覚えたからと言うことに他ならない。私はこの『学習』と言う能力が人間を食物連鎖の頂点に立たせた要因になったと考えている。
ここでの学習とは、人間にとって脅威となる生物に対して『観察、研究』を通して生態を知り、その生物に対して非常に有効な手立て(対処)を発見することに対して使う言葉である。
人間はその学習によって知恵を身に付け、その知恵によって様々な道具を作り出してきた歴史がある。そして人間はそれら道具を使い、食物連鎖の頂点へと上り詰めることができたのだ。
肉体的弱者である人間が食物連鎖への頂点に上り詰めたのは 学習によって知恵を身に付け、脅威に対して道具を使って排除する術を身に付けた生物ということになる。
無論、肉体的強者以外の生き物に対しても、学習と言う能力は発揮されてきたことは言うまでもない。
人の歴史と言うのは正にこの繰り返しである。
さて、『道具』と言う言葉が出てきたのだが、人の歴史において道具と言うのは脅威を排除する為だけに使われてきた代物ではない。
ここで詳しく人の歴史の中でどのような道具が存在していたのかを記述することはしないが、道具と言うのは生活を補助するための物から、食料調達を目的とした道具まで、人間の歴史には様々な道具が存在してきたはずだ。
その道具の中でも、人間の歴史において多大な変化を与えた道具が一つある。それは『火』と呼ばれる道具だ。
だがしかし、猿に近かった原始的な人間では火を扱うことはできなかった。それは何故か、簡単に言えば知恵がそこまで追い付いていなかったためである。
これら道具を扱う知恵を人はどのようにして身につけたのか。
それを一言で言えば、『直立二足歩行』による賜物である。
人は『直立二足歩行』ができる事によって、火を扱うことが可能になったのだ。何故直立二足歩行のお陰で火が扱えるのか疑問に思われるだろうが、先ずは火について簡単に説明していきたい。
大半の生き物が火を怖がる中、知恵を手に入れた人はその火を怖がることなく道具として取り入れて来た経緯と歴史がある。
この火の登場によって、人は物質を違うモノへと変換する術を手に入れることができたのだ。さらに火の恩恵と言うのこれだけに留まらない。火が燃えてできる光と言うのは人間に夜の活動を可能とさせ、その火が放つ温もりは寒い地方での活動を可能にさせた。
火と言うのは、人間の活動領域を限りなく広げることに繋がった道具であるのは間違いない。
近代化や人の営みの影には必ず火の存在があった。
人の歴史は火の存在抜きでは語ることはできないだろう。
次に『直立二足歩行』についての説明なのだが、直立二足歩行の登場により、人の体は大きな変化を遂げることとなる。
その大きな変化の一つが大脳の発達である。大脳がどのように発達したのか、簡単に説明すると、直立二足歩行により頭部が体の真上に位置することとなり、進化に伴う脳の巨大化する頭部を支えることができる環境が整ったということだ。
このようにして、直立二足歩行により大脳が発達し、人間はより膨大な知識を得ることが可能となった。
そして第二の変化が『手』、いわゆる『指』の取得である。この五本の指のお陰で人は高度な道具を作り出すことに成功している。
それと同時に、腕や手が自由になった事により、高度な道具の製作及び使用することが可能となり、身ぶり言語や発声、発音言語の発達が起き、更に高度な文化活動が可能となった。
故に直立二足歩行が出来るようになったと言うことで、人が『ヒト』であると言うことを手に入れた瞬間なのだ。
話を簡単に纏めると、人は道具を作り、使い、自身のスタイルを変えることによって食物連鎖の頂点に上りつめたと言うことだ。
簡単な説明で申し訳ないが、優れた学習能力を携えた人間が様々な道具を使って食物連鎖の頂点に立ったと言う事がご存知頂けたかと思う。
ここから『人としての生命倫理』についても話すことになる訳だが、もう暫くお付き合い願いたい。
私の存在が存在なので、話の展開を急ぐことになるが、結論から言えば現代社会において人間の存在を脅かす人型の生命体が産まれる事となった。
人間に近いロボットが産まれたとか言う落ちではない。正確に言えば、『人間の中から人間以外の生物が生まれた』と言うことだ。
この生物が人間の体内からどうやって産まれたのか、いまだ全ての学者の中で疑問とされている。
容姿は人の形を成し、なんら普通の人間と変わりない姿をしているのだが、DNAの塩基配列が全く『ヒト科』のそれとは別物の塩基配列となっているのだ。
これは先祖返りなのか、DNAの欠損を補うためのものなのか、それとも別の要因なのか……。
地球外生命体の仕業だとか、突拍子も無いことを言う学者も居たほどだ。
不明な点が多い生命体なのだが、この生物について幾つかわかっている事があるので、それについてこれから説明したいと思う。
先ず始めに、私が日本のある学者と会話していた時にこの学者がつぶやいた言葉を聞いてもらいたい。
『この生物の繁殖方法は、カッコウのそれと似ている――』
そしてその学者はその未知なる生物のことを『人食い』と呼んだ。
『人食い』と言っても、自身が活動する為のエネルギーとして人間を捕食する訳ではない。しかし全く捕食しないと言う訳ではなく、この学者がつぶやいたように、繁殖する時にだけ人を捕食しているのだ。
繁殖する時にだけ人を捕食するとは言ったが、これは繁殖に必要なエネルギーを確保する為の捕食では無い。むしろ必要なエネルギーの摂取は、母体から無償で得る事となる。
『では、彼等生命体は何の為に人を捕食するのか?』
この答えについては仮説の域が出ないが、『人の遺伝的情報を取り込む為の捕食』、と言った突拍子も無い仮説が立てられている。
馬鹿みたいな話ではあるが、今はこの仮説が最も有力で信憑性のある仮説の一つとなっている。
私もこの仮説を支持している一人である。
そしてここからが本題なのだが、彼等生命体は一体人の何を捕食して人のDNAを取り込んでいるのか? ここで、気の利いた台詞回しを記述するべきなのだろうが、もったいぶるのはよしておいて、簡潔に述べることにしたいと思う。
この生命体は生殖活動を行った後の女性の体内に宿る『受精した卵子』を捕食しているのだ。
この事実を知り、吐き気を催す人も居るだろう。
すまないと思っている。
だが、これは覆ることの無い事実なのだ。
今世界で確実にこの『人食い』が猛威を振るい始めている。
だからしっかり話にはついてきてもらいたい。
これはあなたの人生だけではなく、人類の存亡に左右する大事な話なのだから――。
さて、次に何故これを『人食い』と定義したのかなのだが、『受精した卵子』が果たして人なのか? という点が今でも論争の一つになっているからである。
受精卵が人ではないとするなら、人はいつ人になるのか?
無論、母体の中で受精卵が人の形を成した時点で人になるのは間違いない。
だが、人の中には受精した卵子はすでに人の定義に当てはまると言う学者も存在しているのが事実だ。
この受精卵の定義が曖昧である故に、『人食い』の定義も曖昧になってしまっているのだ。
更に、ここで法律と言うものが絡んでくると人の定義に対してその意味が大きく違ってきてしまうために、ここで法律がどのように人の定義を示しているのか……その内容は伏せておきたい。
なぜ伏せるか、その理由は後ほど書く言葉で理解してもらえるとおもっているからだ。
それよりも話を戻そう。
これは私見だが、私も生命倫理の観点からみて『受精卵』は人だと考えている。故に、このような点を踏まえ、私もこの学者と同じくこの生物は立派な『人食い』の一種だと考えている。
さて、ここで『受精卵』を『ヒト』だと定義するとなると、もう一つ大きな問題が浮かんでくることになる。
現代の生物学的においての『ヒト』の定義と言うのは、『直立二足歩行を行うこと、およびヒト特有の文化を持っていること』と定義されている。
このような定義に当てはめると、この『人食い』が成長してしまうと『ヒト』に属する生物だと定義されてしまう事になる。
だが、DNAの塩基配列が『ヒト科』のそれとは大きく異なると言う点が、この『人食い』が生物学的に『ヒト科』の生物では無いと言う証明になっている。
逆に言えば、これが人と人食いを見極めるための唯一の方法なのだ。
非常に気分の悪い話だが、ここまでお分かりいただけただろうか。
わかりやすく他の生物に置き換えて説明してみよう。例えば、この『人食い』が人を食う前の実体が、何かのバクテリアに近い生命体だったとしよう。
嫌、すまない。ここまできて例えて話を進めるのははよそう。このレポートを読んだ者がどう言う反応を示すかわからないが、包み隠さず記述したいと思う。
この『人食い』の正体は、とあるバクテリアなのだ。その辺にありふれているただのバクテリアなのだ。何の変哲も無いただのバクテリアなのだ。
元々このバクテリアは人食いではない。人食いに進化したようなバクテリアでもない。何百年何千年と姿形は変わらないただのバクテリアなのだ。
そのバクテリアが何故人の受精した卵子を食べるのかは未だ解明されていない。もしかしたらこの点については、人類がこの地球上にいる限り解明されることは無いかもしれない。
その理由は以下を読んでいただければ理解できるだろう。
このバクテリアは、他の生き物の受精卵には全く反応はしない。人の受精卵のみに反応する変わった性質を持つバクテリアだったことが分かり始めてきている。だがそれ以上のことは未だ不明だ。
ただ、ここでバクテリアの名前を書けば混乱を招く恐れがあるため、そのバクテリアの正式名称は伏せておくことにする。申し訳ない。
先ほども言ったように、現代においての『ヒト』の定義は、『直立二足歩行を行うこと、およびヒト特有の文化を持っていること』だ。
であるからにして、このバクテリアが人の受精卵を捕食し、生まれた胎児が成体へと成長した時には、『ヒト』としての定義が確実に当てはまる事になる。
この生まれてきた『人食い』を人だと定義した場合、受精卵を捕食する前のバクテリアも人として定義しても良いのか? と言う疑問が生まれるかもしれないが、この場合、受精卵を捕食する前のバクテリアはただのバクテリアの一種と定義されるのが普通である。
これは間違いない。
と言うことは、人を食べる前のバクテリアはただのバクテリアであり、このバクテリアが人の受精卵を捕食し、人の身形を手に入れてしまえば、『ヒト』の定義に当てはまってしまうことになる。
だが、生物学的にみてこの『人食い』のDNAには、人間のDNAではない。ここで人の定義を考えないとするならば、普通に考えてこの生命体は人の形をしたただのバクテリアの一種と定義されてもおかしくはない存在となってしまう。
所謂、精巧な人型ロボットではなく、人と同じく自ら手で外部からエネルギーを補給し、自らの意思で行動を行う人の形を模した人間とは全く異なる生命体となる。これは宇宙人として定義してもなんら問題が無いような生命体とも言えるわけだが、DNAがバクテリアのそれだったとしても、人の定義には当てはまる訳であり、現在の人の定義では、この生命体を『ヒト』の一種として分類する事も可能となってしまっている。
このように、宇宙人ではないが、この人食いの所為で矛盾を孕んだ生命体が地球上で誕生してしまったと言う訳なのだ。
次に、横暴な考えではあるが、この矛盾を取り除くために人類と同じ『ヒト科』の一種として分類させてしまえばいいのでは? と言ったことが考えられるが、この『人食い』を『ヒト科』の枠組みは入れることは可能ではある。しかし、ここで『ヒト科』と言う枠組みに組み込んでしまうと、法律的な問題が孕んでくることになるのだ。
ただすんなりこの生命体を『ヒト科』の枠組みに入れてしまうわけにはいかないのが実情なのだ。それは以下に書く説明で理解してもらえるだろう。
この『人食い』をヒト科の生命体として組み込んだ瞬間から、この『人食い』に対して人間の……嫌、その国の法律が適用されてしまう恐れがある。
しかし、繁殖方法が生物学的、倫理的なことに抵触する可能性があるとは言え(法律上の詳しい人の定義の説明は省く)、法律では受精卵は人として認められてはいない。
この点を考えれば、答えを言わなくても誰にでも答えはわかるだろう。
『人食いに』現在の法律が適用されれば大手を振って『人食い』は繁殖が可能となる訳だ。『人食い』の立場が曖昧な今だからこそ、『人食い』を人ではないということで処分することが可能という訳だ。
しかし、人ではなかったとしても、この『人食い』は動物と言うカテゴリーには当てはまる故に、『動物愛護法』が適用される恐れがあるが、これは余談である。
法律は確実にこの人食いの人権を守るだろう。
結論を言えば、人食いに人類の法が適用されれば、法律でこの人食いの行いを裁くことは不可能であり、人食いは法の前に守られる可能性があると言うことになる。
これらを回避するために、人食いに対する特別な法を作るべきか否かが議論されるだろうが、人食いに対する法を作ったところで、恐らく意味を成さない恐れがある。
それは、このレポートをすべて読み、理解することができれば、意味を成さない理由も理解することができるはずだ。
この生物自体が未だ解明されていない『ヒト科』以外の生命体であるのは間違いない。この点を踏まえて考えると、『人の形をした人ではない生命体。ただ、ヒトとしての定義の上ではヒトである』と言うことになり、新しい人類の一種として分類することが可能――と言う結果になる。
だが忘れないで欲しい、この生物は結果として人の形を手に入れてはいるが、元は『ヒト科』の生命体ですらないことを……そして繁殖の方法を。
では、人の形を手に入れたバクテリアをバクテリアの一種と定義した場合、『ヒト』の定義とは一体どうなってしまうのだろうか? ここで人の定義を変えてしまえば済む話なのだが、そうすると人の形をしたバクテリアを一体何と定義するべきなのだろうか……。
人のお腹から生まれてきている時点で、議論する余地は無いのかもしれないな。
私は現代において『ヒト』の曖昧な定義がこの生物の定義を邪魔していると思っている。今までに人以上に人に近い生き物は生まれてこなかった。
議論する余地がなかったと言うことだ。まだ遅くは無い、この先、同じ『ヒト科』の種族として分類するならば、世界中でもっと『人の定義』についてもっと真剣に議論をするべきだ。
そしてそれ以上に『人食い』についての議論と研究を推し進めていくべきだ! だが、残念なことにまったくと言っていいほど人食いについての研究は行われていない。
今現在それが行えないのは、法律的な問題が絡んでいるからなのだ。『受精卵は人なのか?』その答えが割れている今、人体実験という非人道的な研究は行うことはできない。
しかし法律上、受精卵は人ではない。だが現在、人道的、倫理的に人の受精卵を使った研究を大手を振って行うことは不可能となっている。
未だに意見は割れているとはいえ、生物学的には受精卵は人としてある程度守られていると言うことになる。
このバクテリアは、人の受精卵にのみ反応を示す。何故このバクテリアは人の受精卵のみに反応するのか? これを研究するためには、人の受精卵が大量に必要となってくるのだ。
さらに、どこぞの慈善団体が世界中で異議を唱え活動しているのも障害の一つとなっている。
お分かり頂けただろうか、これが各国で研究がまったく進まない原因の一つなのだ。
そう、人という定義の前に人は苦しめられてしまっているのだ。
人々はこの情報に怯えている。
狼少年ではないが、この世界は今疑心暗鬼の心で溢れかえっている。この生命体が発見されて十数年……。これはペドフィリアが幼児に向ける病的な視線ではない。大人が子供に向けるその視線は、間違いなく疑いの眼差しと呼ばれるものだ。
人は、人ならざる者に対し忌み嫌う傾向がある。言葉では友好的なことを言うが、実際の心は偏見と拒絶の二択しかない。
だが、遺伝的に人と少し違うと言う情報だけを与えられたとしたら、その人のことを忌み嫌うことはない。このようなことだけを聞かされたとしたら、人は人の良心が働き、心配する気持ちのほうが強くなる可能性が高い。それが人間である。
だが、その人が『人食い』だったために遺伝子が違ったと言う事実を知ったとしたらあなたはどう思う?
あなたはその人に対して憎悪と偏見を抱くことは無いか?
抱かないと言う保証はできるか?
あなたはそんな人と付き合いたいと思うか?
私にはわからない。
今はま少ないが、もしかしたら人食いという言葉だけが独り歩きし、差別を繰り返す可能性だってある。
そして自分の出生を知った子はどう思うだろうか……。
己の子供が人食いだったとしたら、親はどう思うのだろうか……。
だが子を持つ親は思う。我が子だけは違う、我が子がそんな化け物ではない……。そう思うのが親の心であり、人の心なのである。だが、身の潔白を晴らすにしてもリスクが大き過ぎる。
今、これがこの世界を取り巻いている実情だ。
『産まれてきた子供に罪があるのだろうか?』
否、産まれてくる子供には何の罪は無い。
『産んだ親に罪があるのだろうか?』
否、親にも罪は無い。
『ならば、このバクテリアに罪があるのだろうか?』
否、これもまた生物界の循環の一つとして捉えられる可能性がある。だが人類には危険と言うこともあって、絶滅させられる可能性のほうが高いだろう。だが、このバクテリアにも罪は無い。
もし罪があるとすればそれは人間自身なのではないだろうか……。
仮に、あなたが自身がこのような生命体だとしたらどう思うか、そしてどうなる。私は間違いなく他の人間に殺されるだろうと考えている。これは決して殺人ではない。人間としての死ではないのだ。
この人食いは動物のように虐待されて殺されていく。
これが人間だ。
これが人間のやり方だ。
人ではない生き物に人間は容赦はしない。
だがしかし、法律が適用されている今は殺されることは無い。
さて、ここからはあまり触れたく無い事実を書くことになるが、もう暫く我慢してお付き合い願いたい。
この人食いを同じ『ヒト科』の一種と定義した場合、この人食いの繁殖方法が問題となってくる。
それは、『ヒト』を捕食して繁殖すると言うことが非人道的行動に当てはまる事になるからだ。まず間違いなくこの人を食う前のバクテリアは駆除の対象になるだろう。だがこのバクテリアは、普段は人間には害を与えることは無い。人の受精卵のみに反応するバクテリアなのだ。
だが受精卵を捕食し、成長した人食いは駆除の対象になってしまうのか?
非常に可能性は高いと思われが、生まれてきた人食いも害意があると分かれば駆除の対象になる可能性が高い。
この人食いに関して今現在わかっている事は、繁殖方法と、エネルギー補給に関してだけだ。DNA以外に特筆する差は今のところ見当たらない。仮にあったとしても上手く隠して生きていくに違いない。それが生物の知恵だからだ。嫌、これは人間の知恵か……。
先ほど書いたようにこの生物が現れて十数年――。まだこの人食いが生殖活動を行える年齢に達していない固体ばかりである。
この生物が人間の繁殖行為を行った場合、生まれてくる子供の遺伝子情報はどうなるのか……。果たして人間の繁殖行為で繁殖することが可能なのだろうか。まだまだ議論と疑問が尽きることは無い。
だが、繁殖行為に関してだけは、後数年で答えが出る可能性がある。もし仮に人間の繁殖行為で繁殖が可能ならば、このバクテリアは二つの繁殖方法を手に入れることになる。
『受精卵の捕食による繁殖と、人間の性行為による繁殖――』
私は、繁殖行動で繁殖可能ならばそれに越したことは無いと思っている。
産まれてくる子供が人ではない可能性が高いとは言え、人になれる可能性を秘めた人なのだからな。
だが、もし仮にこの人食いが人の繁殖行動によって繁殖不可能だったとしたらどうなる? 繁殖能力の無い一世代限りの生命体になってしまっていたらどうなるだろうか。もしそうだとしたら人類は確実に絶滅するだろう。
あくまでもこれは仮説だ。
まだ情報が足りなさ過ぎる。
こう言う点を現人類がどう認識していくのか、今後の展開が非常に楽しみである。研究者の手によって早くこの『人食い』の全貌を解明してもらいたいところである。
何度も言うが、現在人食いは人の法律で守られ人権を有している。だが、彼らは人食い、生物学的に見れば殺人者。嫌、殺人者という言葉は違うだろうな。彼らはただの捕食者だ。弱肉強食で言えば、このバクテリアのほうが一枚上手と言うこと。
ただ倫理的に許される存在ではないと言うことになる。許せない存在だとは言え、彼らが受精卵を捕食したところで何の責任も負う必要がないと言うことだ。無論生まれてきた子供たちには何の責任も無い。
しかし責任が無いといえ、事実を知ったとき、子供たちはどう思うのだろうか……。
彼らは絶望するのだろうか?
嘆き悲しむのだろうか?
私には他の人間の気持ちはよく分からない。
だがこのレポートを書いていて私は思った。
『この生物の頭の良いところは、人間の母体から産まれて来た事』
この一言に尽きる。
話がそれたが、この生物は、人間のDNAを手に入れるために行動を起こしている可能性がある。しかしそれ以上のことは未だ謎である。
これはバクテリアの意思としての行動なのか。
いや、バクテリアにそんな意思は無い。
産まれて来た子らにはなんら普通の子である。外見すらなんら普通の現生人類と変わりのない容姿となっている。親の顔がちょっといけてないとか些細なレベルの差はあるだろうが。
勿論生活全般も現生人類となんら変わりは無い生活を送っている。DNAを調べさえしなければ、何も普通の人間と変わりは無い生き物だ。
ただそれもまだ十数年という短い月日での観察と言うことだけであって、今後、人類にとって害意が無いとは言い切れない存在であるのは間違いない。
さて、この生命体は何の為に人の形を手に入れようとしたのだろうか?
何の為に人を利用して繁殖しようとしたのか?
考察するためには絶対的な時間が足りなく、不明な点がまだまだ多く、仮設の域を出ないでいる。
これはあくまでも私自身の見解だが、総括として語ってみたいと思う。
人類と言う生き物は、何百万年もの時間を掛け進化をしてきた生き物である。火を使い道具を作り、二足歩行で歩くことを可能としてきた生き物だ。そしてその能力を使い、食物連鎖の頂点に立つことを可能としてきた生物だ。
この点を踏まえて考えると、この『人食い』と呼ばれる生命体は、ヒト科の生き物が何百万年もかけて進化してきた情報を経った数ヶ月、数年のうちに自分たちの情報に書き換えて乗っ取り、何の苦労も無く今まで培ってきた人間の情報をすべて奪うことが可能なのだ。
この生命体は自分達が進化する為に人間を利用しているとは言えないか?
『人と言う生き物を、このバクテリアは手っ取り早く進化するための踏み台にした』
要するに、そう言うことなのかも知れないな。
もしそうだとしたら、人類はこの生命体に対してどのように対処していけばよいのだろうか――。
この人食いに対して対処を間違えてしまえば、人類が今までに築き上げてきた文明を全て失う事になるのではないだろうか。これはいまだかつて無いパンデミックが目の前に来ていると言ってもいいと思われる。
否、すでにパンデミックは始まっている。
最後まで『人食い』に対する明確な答えを出すことができなければ、食物連鎖の頂点に居る人類は、あと数十年足らずでこの『人食い』に全て食われて絶滅してしまうだろう。
現人類たちよ忘れるな。今もこの瞬間、『人食い』は母体に宿る受精卵を食し、増え続けている事を……。
今後各国政府がどのような判断を下すのか……人々はどのような決断を受け入れるのか……私は非常に楽しみである。
そして、このレポートを書いている私こそ、ここで定義したような『人食い』と呼ばれている生命体の一人なのである。
私は何のために生まれ、何のために存在するのか――。
私はいったい誰なのか……。
私の日常は自問自答の日々の繰り返しである。
私はその答えをなんとしても知りたい――。
そしてなんとしても答えを教えて欲しい――。
『駆除か共存か――。それとも別の道か……』
人類よ、私はあなたたちの答えに期待している。
次に会えたとき、あなたたちが出す答えを聞かしてもらいたい。
さて、そろそろお別れの時間のようだな。
ではまた会おう。
『Dear to humanity form:ポーマスポート』